夢ノ六 二人の母《ホ》
ふわふわと心地よい揺れに酔いながら、意識が何かをぼんやり捉えた。
見慣れた景色は、お店の裏口だ。
先程、追いかけて見失った為助が血相を変えて走り込んでいく。
部屋に転がるように飛び込こむと、お昌に耳打ちした。
お昌の目が、みるみる見開かれて、為助以上に顔が青くなる。
慌てて立ち上がると、お昌は仕事着のまま、お店を飛び出した。
(母様があんなに慌てるなんて。一体何があったの?)
お光の意識は、ふわふわとお昌の姿を追いかける。
お昌は日本橋を出ると、ずんずん走る。
あっという間に町はずれの農村に辿り着いた。
田畑が広がり小さく質素な家が点在する村の、ある家の前で足を止めた。
(こんな村に、知り合いなんているの?)
お店は代々続く老舗であるし、お昌の実家も大きな店だ。
このような場所は、まるで無縁に思える。
お昌は躊躇いがちに、今にも潰れそうなおんぼろ家に入っていった。
お光の意識が、すっと飛ぶ。
次の瞬間、目の前にじわじわと景色が浮かぶ。お世辞にも綺麗とは言えない狭い部屋の中で、薄い布団に横たわる知らない女の姿だった。
女は真っ青な顔で浅い呼吸を繰り返している。
(誰だろう。今にも死んでしまいそう)
憂慮した心持で眺めていると、部屋の障子戸がぱんと開いた。
神妙な顔をしたお昌が立っている。
じっと見詰めるお昌を、横たわる女が緩慢な動きで振り返った。
女性は、始めこそ驚いた顔でお昌を眺めていたが、ふっと表情を緩め生気のない顔で笑った。
「おまさ、さん……」
か細く掠れた声を聴いて、お昌が堪らずに駆け寄った。
「未果さん…」
崩れ落ちるように蹲り、布団の傍らに座り込む。
「ああ、お昌さん。一体、何年振りだろう……」
細かく震えるお昌の肩に伸びた骨と筋ばかりの手は、届かずに布団に落ちる。
お昌の手が、強く未果の手を握った。
「未果さん、どうしてっ……。どうして、もっと早く便りをくれなかったの。私は貴女に毎月欠かさず文を送っていたのに」
絞り出した声に、後悔と自責が滲む。
未果が困った風に笑った。
「私なんざ、忘れて良い相手じゃないか。あんたが私に、構う義理は、ないんだ」
「何を言うの!」
ばっと顔を上げたお昌を、未果がじっと見詰める。
「……それでもね、あんたが毎月、届けてくれた文に、本当に感謝してるんだ。文だけじゃない、いつも添えてくれる金にも、とても助けられたよ。娘を女衒に売らなきゃ、暮らしていけないような貧乏家に、ひと月一両もの大金は、本当に、有難かった。お蔭で、医者に診せてもらえたし、薬も買って、もらえた……っごほっ、げほっ……っ」
咳き込む未果の背を擦り、枕元にあった吸い飲みで水を飲ませる。
未果が大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出しながら呼吸を整えた。
「だから、あたしは、ここまで生きて、こられたんだよ。お昌さん、本当に、ありがとうね」
未果の表情は穏やかで、言葉がお昌の心に染みていく。
お昌は大きく頭を振ると、「違う」と何度も繰り返した。
「貴女から最愛の娘を奪った私にできる償いは、それくらいだった。この程度じゃ、罪滅ぼしにもなりはしないのよ」
揺蕩いながら二人のやりとりを聞いていたお光の心臓が、どきりと下がった。
(まさか、この人が、私を産んだお母さん……)
突然、知りたかった事実を目の当たりにして、お光は混乱した。
状況が整理できないまま、目の前の二人の会話が進んでいく。
「奪った、なんて、やめておくれ。最初こそ、あんたを恨みもしたが、そんな気持ちは、すぐに、すっかり消えた。あたしは、あの子を、あんたに託したんだ」
お昌が俯いた顔を上げる。
未果が力ない目で真っ直ぐに見詰めた。
「妾が子を産んで、それを知っても、あんたは取り乱しすら、しなかった。それどころか、あの時……ふ、ふふ。あんたが、あたしに何と言ったか、覚えているかぃ?」
弱く笑う未果に、お昌は真面目な面持ちで深く頷く。
「あの時の総て、片時も忘れたりはしないわ」
乾いた咳をしながら、未果は頷く。
「病に犯されていた、あたしの代わりに、子供を育てたいと、責任は必ず果たすと、契って、くれた。妾なんて、目障りなだけだろうに、随分と誠実な人だと、思ったさ」
口を開きかけたお昌を遮り、未果が話を続ける。
「病のせいで、里に返された後も、あんたの誠実さは、同じだった。娘を大事に育ててくれて、それどころか、あの子の成長ぶりを、毎月文で、知らせてくれて……」
未果が枕の上の籠に手を伸ばし、中から紙を出した。
随分と黄ばんでよれた文を開き、懐かしく眺める。
「初めて、お光が粥を食べた。一人で、三歩歩いた。そんなことまで、書いてくれるから、ふふ。あたしは、まるで、あんたと一緒にお光を育てているような心持に、なっていたよ」
かさりと、文で口元を隠して、未果が微笑む。
とても美しく可愛らしい顔だと思った。
それに反比例するように、お昌は目を下げて泣き出しそうな顔になった。
「文の中で、お光はどんどん、良い娘に育って、託した相手が、お昌さんで本当に良かったと、思った。毎月、これを読むのが楽しみで、すっかり死にはぐっちまった。いつ死んでも、おかしかない、あたしを、ここまで生かしてくれたのは、あんたなんだ、お昌さん。だから、そんな風に考えるのは、止めておくれね」
未果の透明な笑みが、きらきらとして本当に綺麗に見えた。
痩せて筋張っても元の器量良しを失わない未果に、お昌は苦い顔をして俯いた。
「違う、違うのよ、未果さん。私は……。私は貴女が、羨ましかった。貴女と違って私は気真面目さしか取り柄がない醜女です。お店の柵で夫婦になった私より、旦那様が貴女を愛したのは、当然だった」
未果が笑みを消して、お昌を見詰める。
お昌は俯いたまま苦しそうに続けた。
「だから、必死に頑張ったの。お光を大店の娘として恥ずかしくないように育て上げる。それだけが私の生甲斐で誇りだった。貴女に勝てる唯一の手段だったのよ。だから今日まで頑張ってきたの。未果さんが言うような、そんな綺麗な心じゃないのよ」
きつく目を瞑って絞り出す声を聴き、未果は徐に起き上った。
「げほっ……こほ……」
咳を耐えながら籠の中の文を探す。
「未果さん、無理に起き上っては……」
肩を支えるお昌を振り返り、手にした文を開く。
ちらり、とお昌の顔を覗くと、文を読み上げた。
「最近、歩けるようになったお光を庭で遊ばせていたら、転んでしまいました。私たちの娘に怪我をさせて、ごめんなさい。これからは、もっと心懸けて目を配ります」
お昌が、はっと息を飲み、顔を強張らせた。
文から顔を上げた未果が、その顔を覗く。
「この言葉に、あたしが、どれだけ救われたか、わかるかい?」
「……え?」
困惑した顔に、未果がふっと笑みを向けた。
「私たちの娘。何気なく、そう書いてある。あんたは、そういう気持ちで、お光を育ててくれた」
お昌の目が、ふいに見開いた。
「あんたの誇りが、どうだって、あたしには、それで充分だ。あんたが、してくれた全部が、あたしには、嬉しかったんだ」
未果の笑みが、お昌の苦しく強張った表情を溶かす。
瞳に涙が込み上げて、ぽろぽろと零れ落ちた。
「ぐっ……ごほっ、ごほっ……!」
未果が背中を丸めて、強く咳き込みだした。
苦しそうな体を、お昌が泣きながら抱き留める。
「……最期に、お昌さんと、話せて良かった。ちゃんと、お礼を伝えて、あの世に、いけるよ」
細く息を吸いこみながら、未果が生気のない笑顔をお昌に向ける。
お昌が焦燥した顔で、未果の肩を強く掴んだ。
「何を言うの? 医者を手配するから、ちゃんと養生して病を治して。貴女がいなくなったら、私は何を糧に、これからあの子を育てたらいいの?」
お昌の顔を覗き込む、未果が薄く口を開ける。
「……っ!ごほ、げほ!」
発しようとした言葉は咳に変わって、未果は苦しそうに体を丸めるばかりだ。
「未果さん!」
二人の姿を覗いていたお光の意識が徐々に薄くなり始めた。
(だめ。このままじゃ、未果さんが……)
見えていた部屋が遠くなり、視界が黒く塞いでいく。
(待って、そっちに行かせて!)
必死に伸ばした手は黒い靄にかき消されて、浮いていた意識は急に速度を増して闇を走る。
目を開いたら、目の前には見慣れない天井と、宙ぶらりんと伸びた自分の腕が見えた。
「あれ、は……」
夢、だったのだろうか。
そう考えて、すぐに違うと直感した。
「どうするか、決まったかい?」
ちらりと視線を流すと、すぐ傍に腰を下ろした凜が覗き込んでいた。
「私、行かなきゃ」
考える前に飛び出した言葉に、自分でも驚く。
凜が、すっと手を差し出した。
「ここに、手を乗せな」
お光は頷いて、自身の手を凜の手に重ねた。
しゅん、と体ごと意識が飛んで、目の前が真っ白になった。
「やれやれ……。此度は働き損かねぇ」
思ったより温かな掌が離れれると、今度は小さなボヤキが聴こえた。