夢ノ六 二人の母《二》
陽の落ちかける夕刻。
燃えるような茜色だった空はいつの間にか色を落として道を暗く染める。
薄暗がりは時に闇夜より人の影を隠す。
だからお天道様が高いうちに家に帰るようにと、お昌から散々叱られた童の時分を思い出す。
人目を気にして歩く為助の後を、こっそり追いかけた。
お店から出て大通りを歩いていた為助が、急に細い路地に入った。
「あ!」
消えた背中を追いかけて、急ぎ細道を覗く。
建物に挟まれた隙間のような路地は、奥が薄ら暗くてよく見えない。
「っ……」
一瞬、恐怖が脳裏を掠めた。
お光は両手をぎゅっと握って奥へと歩みを進めた。
家の壁と壁の隙間を慎重に歩く。
光の届かない路地裏は足元が見えない程に暗く、ぞっと背筋に怖さが走った。
こういう道を一人で歩く機会 など滅多にないから、心細さで恐怖が増す。
「どこに行ったの、為助」
小さな弱音を吐きながら、勘を頼りに奥へ奥へと歩く。
裏長屋の井戸端に辿り着いた。
為助の姿はない。
きょろきょろしていると、戸の前に掲げられた小さな看板が目についた。
「夢、買屋……?」
古びた薄い板に墨で書かれた簡素な看板をぼんやり眺める。
かたりと、戸が開いた。
「お嬢さん、中へどうぞ」
童男が笑いかける。
辺りを見回すが、立っているのは、お光一人だ。
「……私?」
思わず自分を指さして確認すると、童が笑ったまま頷く。
「でも私、人を探しているの」
ぴゅうっと木枯らしが吹いて、からからと枯葉を舞い上げた。
ぶるりと身震いするお光の手を、目の前に立つ童が掴む。
「こんな場所に立っていても、寒いだけですよ」
お光の手を、くいと引く。
「ちょっと、待って!」
歩き出した童に引っ張られて、お光は夢買屋の戸を潜った。
ぱん、と閉じた戸を眺める。
部屋の中から怠い声が飛んできた。
「まぁた変なの、呼び込んだね」
迷惑そうな声音に、むっとして振り返る。
声の主はちらりとお光を一瞥すると、これまた怠い手付きで煙管を持ち上げた。
「……」
思わず言葉に詰まった。
灰黒の髪を緩く結った女は、ずれた袷を気にも留めずに肌蹴た裾から大胆に素足を覗かせている。
とてもしだらない姿なのに、纏う妖艶さはどこか凛として、媚がない。
緩慢な仕草の一つ一つが女らしく綺麗に映えた。
お光が女に見入っている間に、童はてきぱきと動いて座布団と茶を用意し、手を引いてそこに座らせる。
二人の無言の迫力に気圧されて、お光は腰を下ろした。
「変なの、じゃなくてお客さんですよ」
呆然と二人のやりとりを眺める。
すぐ隣で童が、にゅっと顔を出した。
「おいらは優太。目の前で暇そうにしているのが夢買屋の主人で、お凜さんです」
優太と名乗った童の間近に迫る顔から距離を取って、お凜と紹介された女性に視線を流す。
凜はこちらを振り向きもせず、長い煙管をくるくるといじりながら、ぼやいた。
「これが、客ねぇ」
「だからちゃんと、お仕事してください」
目の前に仁王立ちして急かす優太に、凜は仕方ないとお光を振り向いた。
「本人に売りたい夢がなけりゃ、仕事にならないだろ」
凜にじっと見詰められて、お光はどきりと小さく肩を竦めた。
黒い瞳は真っ直ぐで、心の奥の方まで見透かされてしまいそうだ。それが何故か恥ずかしく感じた。
「売りたい夢って、何?」
その瞳から逃れたくて、咄嗟に純粋な疑問を投げかけた。
先程から状況がうまく飲み込めないのも正直な気持ちだ。
凜は片膝に付いた手に顎を乗せたまま横目に言った。
「あたしは夢買って商いをしていてね。人の中に残った夢の種を買い取るんだ」
「夢って、眠っている時にみる、あの夢?」
半信半疑のお光に、凜が頷く。
「そうさ。世の中には、みたくもないのにみちまう夢を持て余してる人間が、結構いるんだ。そういう悪夢の元になるのが、夢種さ。その夢種を買い取る商売ってこった」
お光はぐっと口を噤んだ。
持て余している夢なら、確かにある。
現実なのか願望なのかもわからない夢に、最近は心が苦しくなる。
「そういう夢は、みる夜もあるけど……」
苦しむくらいなら、いっそ手放してしまうのが良いのだろうか。
ここに辿り着いたのは、もしかしたらその為なのかもしれない。
(だけど……)
あれを手放してしまったら、唯一知る母の優しさを捨ててしまうようで。
黙り込んだお光を眺めていた凜が、心底面倒そうな色の溜息を盛大に吐いた。
「全く、仕方がないねぇ」
くるりとお光に向き合うと、長い煙管を鼻先にぐっと突きつけた。
「そこに横になんな」
訳の分からない顔で困っているお光の額を人差し指で、ついと付く。
「うわ……」
強い力ではないのに、お光の体はその場にぱたりと倒れ込んだ。
横たわった体の傍らに立ち座りして、凜が顔を覗き込む。
「夢は売ったら、取り戻せねぇ。だから手前ぇの目でちゃんと見て、手前ぇの頭でよっくと考えな」
長い指が目の上に翳される。
「これは、なに……? どういう……」
突然に強い眠気が荒波のように、どっと押し寄せる。
慌てて発した言葉を最後まで紡ぐ暇もなく、お光は深い眠りの底に落ちていった。
「こねぃな世話は守備じゃねぇってぇのに……」
閉じた瞼の向こうで、凜の気怠い声が聞こえた気がした。




