夢ノ六 二人の母《ハ》
残暑を過ぎた昼下がりは空気が心地いい。
稽古を終えて帰宅したお光は、自室の縁側でぼんやりと庭を眺めていた。
まだ緑の濃い木の葉は、初秋の匂いを乗せた風に流されて、さやさやと揺れる。
陽の光はとても暖かいのに、頬を滑る風は妙に冷たくて、心の中まで流れこんだ。
こんな心持の時は何故かいつも、あの夢を思い出す。
まだ幼く、何も知らなかった頃。
庭で蝶を追いかけて遊んでいたら、足を挫いて派手に転んでしまった。
むっくり起き上ったものの、鼻の頭や膝を擦り剝いたのに気付いた途端、痛みより恐怖に襲われた。
「……ぅっ、……うぅっ……」
泣き出しそうになった時に、温かな手が伸びてきて、小さなお光を包み込んだ。
気が付いたらお昌が、いつになく強い力で自分を抱き締めていた。
「母様……ふぇ……」
温もりが安堵に変わって、また泣きそうになった。
お光の耳元で、声が聞こえた。
「頼むから、怪我なんかしないでおくれ……」
いつも気丈なお昌からは、想像もできない程のか細い声音。
声は涙で震えていた。
抱き締める腕の強さと弱々しい声のせいで、お光の涙は引っ込んだ。
お光が傷付くのを、自分が傷付くより恐れている。
子供ながらにそう感じて、泣けなくなった。
同時に心の中に広がった安堵が体の痛みを掻き消した。
お光は優しい母の胸にしがみ付いた。
あれが実際に起こったことだったのか、ただの夢なのか、今ではよくわからない。
もしかしたらお光の願望が夢になって現れただけなのかもしれないと、最近は思う。
だが、風の匂いや体温が妙に実を持っていて、ただの夢とも思えない。
昔は時々しかみなかったこの夢を、最近は頻繁にみるようになっていた。
(今じゃ、とても考えられないのにね)
ふわふわした意識のままそんなことを思っていたら、体がぶるりと震えた。
「……ん」
いつの間にか閉じていた瞳を開けると、先程まで抜けるように高かった空は既に茜に色を落としていた。
「寝ていたのね……」
浅い眠りが連れてきたいつもの夢に、また心が塞ぐ。
「はぁ……」
息を吐いたら、喉が渇いていたことに気が付いた。
気怠い体を持ち上げて立ち上がると、部屋を出る。
夕刻になると空気は途端に冷えて、夏の着物では薄ら寒さを感じる。
(お水、部屋に持ってきてもらえばよかった)
などと思いながら台所へと歩く。
お昌の部屋から、かたりと物音が聞こえてきた。
(この刻限は、まだ表で台帳を付けている筈なのに)
店の出納は番頭の為助が担っていたが、最後の確認はお昌が行う。
いつも遅くまで台帳と睨み合っているから、この時刻に部屋に居る日は滅多にない。
不思議に思いながら、お光は何げなく部屋の中を覗き込んだ。
「……それでは今月も、いつもの通りに」
夕暮で薄暗い部屋の中に小さな蝋燭が一本だけ灯っている。
ぼんやりした明かりの下で、お昌が為助に何かの包みを渡していた。
為助は頷いて、大事そうに包みを懐に仕舞い込んだ。
ひそひそと、人目を忍ぶような仕草だ。
二人が内緒で何かをしている。
お光の目には、そのように映った。
為助が立ち上がり部屋を出ようと歩を出した。
慌ててその場を離れると廊下の角に身を隠す。
そっと覗く。
為助が辺りをきょろきょろと用心深く見回しながら足音を殺し、そそくさと部屋から出て行った。
「……」
あの真面目な母親が何か後ろめたい振舞いをしている。とは考えずらいが、何かの秘密を為助と共有している。
お光は、為助の後を付けることにした。




