夢ノ六 二人の母《ロ》
部屋に戻ったお光は、裁縫箱を抱えて乱暴に立ち上がった。
怒りに任せて、どかどかと家の廊下を歩いていた。
丁稚が寝泊まりする大部屋の前にさしかかると、何やら明るい声が耳に入った。
「今日の菓子は黒飴だ。一人一つずつだから、ずるして何個も食うなよ」
どうやら手代の末七が丁稚の子供たちに菓子を配っているようだ。
「美味いなぁ」
「甘ぁい」
末七から順に菓子を貰うと、小僧たちは嬉しそうに黒飴を頬張る。
「丁稚に毎日菓子をくれる優しいお店なんて、滅多にないんだ。今日も女将さんに、ちゃんとお礼をするんだぞ」
子供たちは「はーい」と揃って返事する。
そんなやり取りを聞きながら、お光は家を出た。
怒りに任せた足取りはいつの間にかしゅんとしていた。
いつもの通い路を、とぼとぼと歩く。
自分の振舞いは、悪かったと思う。それでも。
(あんな言い方、しなくてもいいのに)
お昌の冷たい視線を思い出して、怒りより悲しさが募った。
お光の家は日本橋に店を構える大店だ。
江戸の初めより代々続く反物屋である。
父親である店の主人はおっとりした優しい性格のいわゆる坊ちゃんだ。
店を切り盛りしているのは事実上、女将である母親である。
母親はしっかり者で皆の信頼も厚く、手代や丁稚にも優しいと評判だった。
確かに優しい、店の皆に対しては。
お光にだけは必要以上に厳しすぎる、と常々思っている。
お光の毎日は、習い事でいっぱいだ。
針の稽古、三味、琴、習字。そのせいで友人と遊びに行く隙もない。
それなのに、家に戻ればお昌からお店の仕事を教えられる。
しかも、漏れなく説教付きだ。
お光にとって、憂鬱以外の何物でもない時間だった。
店の跡取りである一人娘を厳しく育てるお昌の教育は、間違ってはいないのかもしれない。
しかしお光は、もっと別の理由のせいだと思っていた。
(きっと自分の娘じゃないからだわ)
お光は、父親が外に作った妾が産んだ子だった。
子の存在を知ったお昌は、まだ乳飲子だったお光を実の母親から引き離し、早々に養女にした。
しかも、お昌はその事実を隠していない。
物心ついた頃には、お昌本人からその事実を教えられた。
お光が実子でない事実は、店の中でも外でも知らぬ者はなかった。
だからといって、妾腹と揶揄する者も無いのだが。
(嘘でもいいから、隠しておいて欲しかった)
お光の本音である。
どこの誰とも知らない母親には今生会うことなど、きっとない。
わざわざ公然の事実とする必要はない筈なのに。
(私はあの人に、愛されていないんだ)
悪い思いが心の底に澱む。
だからなのか、お昌の厳しさは出生の卑しいお光に対する八つ当たりに感じてしまう。
お昌からすれば、お光の存在は疎ましいに違いない。
夫が外に女を囲った悔しい思いをお光にぶつけているのだと、そう思えてならなかった。
だから素直に稽古に精を出す気にもなれない。
(私を産んだ母様は、どんな人なのかしら)
この手の話なら誰かが噂話などしていそうなものだが、店の中でこの話に触れる者はない。
緘口令でも敷かれているかのように、お光の耳には入ってこない。
当時を知る古い番頭に聞いてみたりもしたが、やはり教えてはくれなかった。
誰もが、まるでお光がお昌の本当の子であるように接する。
お光がお店の跡を取ると疑わず、大事にしてくれる。
それなのにお昌だけが、お光に対して誰よりも厳しい。
(そんなに私を苛めたいのかしら)
心の中に冷たい風が吹いたまま、お光は浮かない足取りで今日も針の稽古に向かった。