夢ノ六 二人の母《イ》
真っ青に高い空を巻雲がのんびりと流れる。
江戸もようやく暑さが遠のいて、陽で火照った肌を風が癒す季節になった。
さっぱりとした陽気の中で、お光は一人こっそりと不穏な行動をとっていた。
誰にも見付からないよう裏手に周り、勝手口の戸に手を掛ける。
本人は至って真剣だが、綺麗な振袖姿はその場所にはあまりにも不似合いだ。
あっという間に丁稚の小僧に見付かった。
「お嬢様? こんなところで何を……」
背中に掛かった不思議そうな声に、びくりと肩が飛び跳ねる。
お光は慌てて小僧の口を塞ぐと、耳元で声を顰めた。
「お願いだから、見なかったことにして。あと、母様には内緒よ」
念を押したら、語尾に力が籠った。
小僧が慌てて、刻々と頷く。
口を塞いだ手を離そうとしたところに、大きな声が飛んできた。
「何が内緒なのです、お光」
びくり、と震えた肩は先程の比ではない。
恐る恐る顔を上げると、じっとりとお光を睨みつけたお昌が立っていた。
「母様……」
バツの悪い顔で見上げるお光の前を、仁王立ったお昌が遮る。
丁稚をお光から引き剥がした。
「今日は、針のお稽古がありましたね。もうすぐ刻限だというのに、貴女はこんな所から何処へ行くつもりだったのでしょう?」
真っ直ぐに見下ろすお昌に、お光は堪らず顔を逸らした。
「そうですけど、針のお稽古は昨日も頑張りましたし……。今日は、友人と芝居を見に行く約束をしていて……」
ごにょごにょと口の中で言い訳をする。
お昌が、かっと目を見開いた。
「はっきりとお言いなさい!」
ぴしゃりと言われて、肩を竦ませる。
仕方ないと、お光はびくびくと顔を上げた。
「どうしても今日、芝居に行きたいの。母様、お願いします。今日だけ針のお稽古を休ませてください」
「駄目です」
勇気を振り絞った懇願は間髪入れずに却下された。
俯くお光に、お昌が溜息を吐いた。
「それならそうと、早く私に相談すべきだったと思いませんか、お光。裏口から出ていくような卑怯な振舞いまでして、貴女は芝居に行きたいのですか?」
項垂れていたお光が、ばっと顔を上げる。
「だって! お稽古を休むなんて、母様はお許しくださらないでしょう。だったら内緒で抜け出すしかないもの!」
恨みがましい目を向けても、お昌は表情一つ変えない。
「勿論、許しませんね。だからと言って、このような卑怯な振舞いが正しいわけがないでしょう」
「卑怯、卑怯って……。他に方法が、なかったんだもの」
かっと顔が熱くなる。
呟いた声は、しっかりとお昌に届いていた。
「他に手段がなければ、どんな振舞いをしても良いのですか? 第一、この状況で抜け出して折檻を受けるのは誰だと思うのです」
ぐっと口を噤んで俯いてしまったお光に、お昌が畳み掛けた。
「答えなさい」
冷たく強い言葉が胸に刺さる。
「……その子です」
お昌が抱く小さな方がぴくりと震える。
この大店の一人娘であるお光を責める者はない。
逃がした丁稚の小僧が責を負わされるのは一目瞭然だ。
「貴女のせいで、この子は私や手代に厳しく咎められるでしょうね。それでも貴女は芝居に行きたいのですか?」
お昌のあまりにも正当な言葉に、お光は顔を上げられない。
「貴女の我儘のために丁稚が酷い目にあっても、貴女は平気で芝居を楽しめるのね」
ぐっと下唇を噛んで黙っていたお光は、思わす小さな声を漏らした。
「そんな言い方、しなくても……」
「何ですか?」
間を置かずに被せたお昌の鋭い声に、お光はぐっと下唇を噛んだ。
「針のお稽古に行きます。行けばいいんでしょ!」
言い捨てると、その場を逃げる様に走り去る。
「待ちなさい、お光!」
制止の声を振り切って、お光は家の中へと戻って行った。
怒る後姿を眺めながら、お昌は困った息を吐いた。
「……女将さん」
声に振り向くと、丁稚が不安そうにお昌を見上げていた。
「俺は、あの……。折檻を、受けるのですか?」
目を歪ませる丁稚にお昌は優しく微笑むと、頭を撫でた。
「折檻などしませんよ。お光を止めてくれて、ありがとう。今日の分の菓子を末吉に渡してあるから、早く貰ってきなさい」
不安な瞳が明るく光る。
「女将さん、いつもありがとうございます! 貰ってきます!」
弾むような足取りで、丁稚の小僧は台所へと消えていった。
安堵したように見送ったお昌は、再び大きな溜息を溢した。