夢ノ五 火事場の迷子《リ》
陽が傾きかけて、青い空に茜が染みる。
乾いた空風はいつの間にか、ふわりと暖かく感じられるようになった。
そんな中、川沿いの土手道を三人は手を繋いで歩いていた。
「啓太、疲れたろ。抱っこしてやらぁ」
辰吉は啓太を抱き上げた。
優しく微笑んで、頭を撫でる。
「お前ぇ、七郎って名だったんだな」
「辰さん……」
お春が寂しそうな顔で二人を見上げる。
辰吉は微笑んだままの瞳で啓太を見詰めた。
「七郎の方が、いいか?」
啓太は泣きそうな顔で、首をぶんぶんと横に振った。
「俺らに気を遣うこたぁ、ねぇんだぜ。折角、親に会えたのに、勢いで追い返しちまった。お前ぇは本当に俺らと一緒で、いいのか?」
真っすぐな眼差しを、啓太が真正面で見詰める。
口を、はくはくと動かした。
「ん?」
声こそ出ないが、口の形が「け、い、た」と動いている。
その動きを、何度も何度も繰り返した。
「啓太ちゃん」
お春が、必死に口を動かす啓太を見て、涙を滲ませた。
辰吉の視界も滲んで茜が染みる。
「てっ、一丁前にしやがって。そうだな、お前ぇは啓太だ。俺たちの大事な啓太だ!」
啓太の小さな体を、滲む空に向かって高く高く抱き上げた。
寄り添うお春の肩を抱き、啓太に頬擦りする。
「もう何にも心配すんな。俺たちは、ずっと家族だ」
大きな陽が山間に沈む中、三人は互いを慈しみながら身を寄せ合っていた。
その後、啓太は奉行所に捨て子として受理された。
齢十になるまでの正式な預かり親に、辰吉が認可された。
両国橋の欄干に張った張り紙を、べりっと剥がす。
「これで、よしっと」
迷子の張紙を剥がしたら、胸の閊えがとれた気がした。
「後は……」
辰吉はその足で、夢買屋の凜の元に向かった。
〇●〇●〇
よく知った人の気配が長屋の戸を叩く。
長い煙管を弄びながら、凜は口端を上げた。
「辰吉さん、この度はおめでとうございます」
優太が丁寧に頭を下げる。
「なんでぇ、優太もお凜さんも、もう知ってんのかよ」
辰吉が照れながら頭を掻いた。
「この長屋に住んでいて、知らぬほうがどうかしているさ。お春が子供の頃から辰さんに惚れているってね」
「辰吉さんがお春さんのこと、ずっと好きなのも、みんな知っていますよ」
凜に続いた優太の言葉に、辰吉の顔が真っ赤になった。
「揶揄うなぁ、よしてくれよ。俺ぁ、そういうの、上手く捌けねぇ」
困り顔で顔を隠す辰吉の姿に、笑みが零れる。
「迷子の坊も育てると決めたんだって?」
凜の言葉に、辰吉が顔を上げた。
「俺が育てるって、決めた。だから、お凜さん。俺の夢を買い取ってくれ」
「おや? 決心が、ついたのかい」
長煙管で煙草をふかす凜に、辰吉が頷く。
清々しい眼差しは強い決意の色を帯びている。
凜は煙管を置いて辰吉に向き合った。
「前にも増して一層、男前になったじゃぁないかぇ」
一瞬、ぽかんとした辰吉が、吹っ切れた顔で照れ笑いした。
「夢をみなくなっても、俺はもう、弟も、あの火事も忘れねぇ。夢に足を竦ませている場合じゃぁねぇんだ。俺ぁ、これから家族を養わねぇといけねぇからよ。こういう俺のほうが、弟はきっと喜ばぁ!」
笑んだ瞳には慈しみと寂しさが同居して見える。
「それじゃぁ、遠慮なく、買い取らせてもらおうかね」
凜は、辰吉の前に膝立ちになった。
「ちょいと、目を瞑んな」
目を瞑った辰吉の額に片手をあてる。
円を描くようにくるくると手を回す。
辰吉の額から、薄紅色の煙のようなものが、もくもくと浮かび上がった。
形の良い額に指をあてる。
肌の中に指が飲み込まれると、辰吉がピクリと肩を震わせた。
「おやおや、こいつぁ上物だ。少し強く、引っ張るよ」
優太が辰吉の後ろに回って、肩を抑える。
「なんだ? 俺の夢、デカいのか? お凜さんは、どうやって取り出していんだ?」
「すぐに終わるから、黙ってじっとしてな」
「はい……」
辰吉が素直に静かになった。
辰吉の額から、ゆっくりと指を引き抜く。
掌に載せてはみ出るほどの大きさの夢種が取り出せた。
「もう、目を開けていいよ」
辰吉がゆっくりと目を開く。
凜の手の上で七色に輝く宝石を眺めて、辰吉が呆然とした。
「これが辰さんが抱え込んでいた夢の元だ。随分と年季が入っている上、相当に悪い夢だったようだね。夢種ってのは悪夢ほど美しいんだ」
「これが、俺の夢、か」
辰吉がぽつりと零した。
「悪い夢、だったのかな。俺にとっちゃぁ、必要な夢だったよ」
そう言って笑う辰吉の顔は、すっきりして見えた。
優太が長持ちから両手に載るくらいの袋を取り出した。
辰吉の手に、どんと載せる。
「これが夢のお代です」
袋の中には一文銭がたっぷりと、少しの一朱銀、二朱銀に、小判が数枚入っている。
中身を確認した辰吉が、ぎょっと目をひん剥いた。
「待ってくれ、お凜さん。夢の相場は知らねぇが、こんなには……。流石に貰えねぇ」
両手でやっと持てる程の袋に、ぱんぱんに詰まった金を見て辰吉が慌てる。
突き返そうとする辰吉を、優太が押し返した。
「夢種は貴重品なんだ。珍品で滅多に手に入らない。丸薬程度の大きさだって一両以上で買い取るモノ好きもいんのさ。辰吉さんの夢種はそん中でも特別でかいし綺麗だ。下手すりゃ十両以上の価値がある」
「じゅっ……、そんなにすんのか? あれが? そりゃ、珍しいだろうけどよ」
「かといって、小判なんか持っていても使いづらいだけですよね。だから、小銭でお支払いしたんです」
町人が小判など持っていたところで両替に金がかかるだけだ。
最初から小銭のほうが使いやすい。
「十両分、入っているよ。あたしらからの御祝儀込みだと思って受け取りなよ。お春と啓太を養うなら、あって困る金じゃないだろ」
凜の目が、にやりと微笑む。
辰吉が、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「貰ってください、辰吉さん。でも仕事やめちゃ、ダメですよ」
横から優太が、にっこり笑う。
「辞めるわけがねぇが。それにしたって」
辰吉が、ぐっと唇を噛んで、重たい袋を受け取った。
「お凜さん、優太、有難てぇ。気持ちに甘えて、いただきやす」
深々と頭を下げる辰吉に、凜はぎょっとした。
「よしとくれよ。これがあたしの商いなんだ。夢種の銭を払っただけさ。お春は時々、夢を売りに来るから、あたしの商いも知っているはずだよ」
くすくすと笑いながら煙管を咥える。
「そうか。また悪い夢を見たら、夫婦揃って、よろしく頼まぁ」
辰吉が、ははっと笑う。
何度も礼を言って、辰吉が帰って行った。
「なんだかんだで、良かったですね。お春さんも、啓太ちゃんも」
優太が、ほっこりした顔をした。
「雨降って地固まる、ってところかねぇ」
煙管の先に煙草を詰めて火を付ける。
「血の濃さだけが身内ってわけじゃぁ、ないからね。お春も辰さんも似たような質だ。良い家族になるだろうさ」
小さな格子窓を開けて、外の景色を眺める。
梅が咲き、桜が膨らむこの季節は、土の下で新芽が芽吹く時を待っている。
吹き流れる風は徐々に温かく、仄かな梅の芳香を運んでくる。
長屋の隙間を流れる風も、いつのまにか柔らかく心地良い香りになっていた。




