夢ノ五 火事場の迷子《チ》
しばらくして身の回りが落ち着いた頃。
辰吉は、お春と啓太を連れて亀戸の梅屋敷にやってきた。
立春も間近になると、梅が見頃を迎える。
春の足音が冬を遠ざけ始めた江戸は、火事の件数がようやく減った。
辰吉の仕事もひと段落したので、家族水入らず出掛けよう、となったわけである。
木々に散らしたように咲く小さな薄紅色の紅梅は仄かな梅香を漂わせる。
鼻腔をくすぐる芳香が心地よい。
三人は啓太を真ん中にして、手を繋いで歩いていた。
「あれが噂の、臥龍梅か」
辰吉が足を止めたのは、一際大きな梅木だ。
垂れさがった枝が一度地中に潜り、また地表に突き出した様がまるで横たわっている龍のようだと、水戸光圀が命名した梅である。
八代将軍吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れ、臥龍梅を見て生命が繰り返し生き続けることになぞらえ「世継ぎ梅」と命名した。
亀戸梅屋敷の中でも一番人気の梅である。
「枝ぶりが見事だねぇ」
「本当に、竜が寝そべっているみたい」
啓太も初めて見る大きな梅を驚いた目で眺める。
視線を感じて、ちらりと横目で見やる。
年増の女が遠巻きに、こちらを見ているのに気が付いた。
梅を観ているのかと思い臥龍梅から離れてみたが、その女は自分たちの後ろを付いてくる。
観光客にしては質素に見える着物は、屋敷の掃除屋か植木屋か。
しかし、どうにも雰囲気が怪しい。
梅屋敷の中を一通り見終えて近くの茶屋で一服する。
桜餅を食べながら、辰吉はお春にそっと耳打ちした。
「おい、お春。少しばかり早く帰ぇるぞ」
お春は不思議そうな顔で首を傾げた。
「どうしたの? この後、亀戸天神に行くんじゃないの?」
辰吉が、ちらりと後ろを見る。
木の陰に、先程の女の姿があった。
「どうも、付けられているみてぇだ。何の用か知らねぇが薄気味悪ぃ。お前ぇらを危ねぇ目にぁ合わせられねぇから、先に帰ぇんな」
思わず後ろを振り向こうとするお春の肩を慌てて掴む。
「あからさまに見んな。いちゃもん付けられたら、面白くねぇだろ」
お春が黙って頷いた。
啓太が桜餅を食べ終わるのを待って、お春が啓太の手をとり立ち上がる。
二人が歩き出すと、女も引き寄せられるようにその後を付いて来た。
辰吉は間に立って、女の行く手を阻んだ。
「姐さん、俺たちに何か用かぃ?」
鋭い眼光が女を睨みつける。
よく見ると、女は所々当て布をしたぼろの着物を纏い、髪を適当に結い上げて、何ともみすぼらしい格好をしている。
突然、目の前に現れた辰吉に驚いて、女は仰け反った。
「啓太ちゃん!」
後ろからお春の声がして振り返る。
啓太が辰吉の所に走ってきた。
「啓太、お春とあっちに行っていろ」
啓太が辰吉の足にしがみ付いて顔を見上げる。
今度は視線を移し、じっと目の前の女を見詰めた。
「七郎……。生きてたんだね」
女が感慨深げな顔で啓太を見詰める。
目を潤ませながら、女は一歩、啓太に近づいた。
すると啓太が辰吉の着物を、ぎゅっと握り足の後ろに隠れた。
女の顔と啓太の顔を見比べて、辰吉は目を見開いた。
「七郎って……あんたまさか、この子の……母親、か?」
女は躊躇いながら、小さく頷いた。
「仕事で、たまたま通った道すがら、偶然見つけて。懐かしさで、つい後をつけました。申し訳ごぜぇません」
女が深く頭を下げる。
辰吉は混乱した。
このひと月、手がかりすら見付からなかった親が突然目の前に現れた。
喜ばしい筈だが、何か違和感がある。
自分の子供を見つけたのに声も掛けずに、ただ遠くから見ていた行動。
みすぼらしい母親の格好。
それに、啓太の怯えた反応。
久しぶりに母親に会えたのに、嬉しそうな顔は微塵もしていない。
それどころか、まるで辰吉に縋っているようだ。
「あんた、どうして……」
「お鶴!」
数々の疑問符が浮かぶ頭で、どうにか言葉を絞り出そうとした瞬間。
女の後ろから来た男が辰吉の声を遮った。
「こんな所で何をしていやがる。休む暇なんか、ねぇんだぞ!」
ずかずかと大股で歩いてきた男もまた貧相な格好をしている。
背負籠を背負っているところを見ると、行商人のようだ。
こちらに歩いてきた男が、啓太を見て明らかに顔色を変えた。
「……手前ぇ、生きていやがったのか」
啓太が、びくりと肩を震わせ、辰吉の足に強くしがみ付いた。
後から来たお春が、咄嗟に啓太を抱き上げた。
啓太がお春の胸に、震えながら縋りついた。
その様子を見て、辰吉は大方の事実を察した。
ふう、と一つ息を吐くと、男に目を向ける。
「あんた、この子の父親かい?」
お鶴と呼ばれた母親が目を潤ませて男を見上げる。
男が、ばつの悪そうな顔をして口籠った。
「俺らの息子は死んだんだ。そんなガキは、知らねぇ……」
男が、ふいと目を逸らす。
辰吉は、ふんと鼻を鳴らした。
「そうだろうな。こいつぁ、俺たちの子だ。他の誰にも渡したりしねぇよ」
男が顔を上げ、辰吉を凝視した。
「本当の親に会ったんなら、啓太がこねぇに怯える筈がねぇ。お春、行くぞ」
踵を返し二人を連れていこうとした時、
「待って!」
お鶴が叫び声を上げた。
「私らはその子の、七郎の親です」
「おい、お鶴!」
「あんたは、黙っていなよ!」
男の制止を撥ね退けると、お鶴は辰吉の前に土下座した。
「訳あって、その子を火事場に捨てましたが、後悔してんです。お願ぇします、後生です。一度だけでも、触れさしてもらえねぇでしょうか」
必死に頭を下げるお鶴の肩を、男が掴む。
「お鶴、止めねぇか!」
掴んだ手を振り払い、お鶴が怒鳴った。
「あんたにとっちゃぁ邪魔な足手纏いでも、あたしにとっちゃ腹を痛めて産んだ大事な子なんだ! 勝手に、勝手に捨ててきたのは、あんただろ!」
お鶴の鬼気迫る表情に、男は振り払われた手を、びくりと引っ込めた。
また辰吉に向き合うと、お鶴は必死に頭を下げた。
「お願ぇします。お願ぇします」
辰吉は不憫そうな目でお鶴を眺めた。
啓太に目を向ける。
怯えた顔のまま、啓太がお春の胸元に必死にしがみ付いている。
辰吉は、優しく笑って啓太の頭を撫でた。
お鶴に近づくと、膝をついて伏せる肩を持ち上げた。
「こねぇな場所で土下座なんざ、するもんじゃねぇよ」
お鶴が、ぱっと顔を上げた。
「そんじゃぁ……」
「啓太には、触れさせねぇ」
「え……」
きっぱりと言い切った辰吉の言葉を理解できない顔で、お鶴が表情を強張らせた。
辰吉は、お鶴を睨みつけた。
「懐かしさだの、勝手にだのと、随分と手前ぇに都合の良い言い分だな。あんたは結局、息子を探しもしなかったんだろ。第一、あんたを見て、啓太は怯えて震えていんだ。捨てる前ぇに、どねぇな所業をしていたか、知れやしねぇ」
辰吉の鋭い眼光が、怒りを帯びる。
「そもそも後悔しているんなら、触れさせろじゃぁなく、返せ、だろうが。それも言えねぇ親になんざ、指一本たりと触れさせるかよ!」
お鶴が、深く頭を垂れた。
後ろに立っていた男が、小さな声で話し出した。
「……うちは貧しい上に家族は十人。毎日を、何とか生きていんだ。七郎は生まれつき口がきけねぇし人足には、ならねぇ。だから口減らしに、どさくさに紛れて火事場に捨てた。親だなんて、名乗れるわけもねぇ」
辰吉は、言葉に詰まった。
啓太は話せこそしないが、賢い子だ。人足にならない程ではない。
捨てざるを得ない次第が、他にあったのだろう。
火事場のどさくさで死んでもいいと置き去りにした事実は、どうしようもなく腹が立つ。
しかし、二人のみすぼらしい着物や、やるせない表情は、生活の苦労を如実に物語る。
この家族の詳しい事情を知らない自分が、これ以上責めるのは無責任に思われた。
「良い人に、拾われました」
ぽつりと呟くと、お鶴が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「私の勘違いだったようです。大事なお子さんに妙な言い掛かりをつけて、どうもすみませんでしたね」
お鶴が背を向けて、早足に歩き出した。
「おい、お鶴!」
男が啓太を、ちらりと眺めると、そそくさと歩いて行った。
辰吉とお春は、啓太の手を強く握った。
無言のまま、二人の後ろ姿を、見えなくなるまで眺めていた。




