夢ノ五 火事場の迷子《ハ》
長屋の近くの蕎麦屋で二人は、かけ蕎麦を食っていた。
「美味いか?」
必死に蕎麦をかきこみながら頷く姿を見て、辰吉は嬉しそうに笑う。
「そいつぁ、良かったなぁ」
腹の減った辰吉も同じように蕎麦を啜る。
二人の姿を見つけた女将が、驚いた顔をして辰吉に声を掛けた。
「なんだい、辰さん。いつの間に子供が出来たんだい?」
辰吉は、へっと笑って女将を見上げた。
「昨日の火事で迷子を拾ったんだ。親を探しているんだが、見つからなくってよ」
「何だ、そうだったのかい。御救小屋には、行ってみたかい?」
「ああ。男子を探している親は、いなかった。橋の欄干も見てみたが、張り紙がなくてなぁ。ま、昨日の今日だ。気長に探すさ」
女将が不思議そうな顔で辰吉を眺めた。
「何だい、あんたが面倒みるのかい? 御救小屋に預ければいいだろうに」
女将の言葉に、辰吉は成程と思った。
「言われてみりゃぁ、そうさなぁ。そのほうが早く見つかるか……」
ちらりと童を見やると、箸を止め不安な顔で俯いている。
「う……、っく」
よく見ると、目から大粒の涙を流していた。
「おぉお? なんだ、坊。どうした? 蕎麦が詰まったか?」
狼狽える辰吉の姿を笑い飛ばして、女将は童を抱き上げた。
「一人になるのは、寂しいもんねぇ。変なこと言って悪かったね、坊や。あんたは辰さんの所に、いなさいな」
小さな手で目を擦りながら、童がこくりと力強く頷いた。
「あぁ、そういうことかぃ。俺は構わねぇが……」
まだ不安の消えない瞳で童が辰吉を見上げる。
その瞳はとても寂しく見えた。
寒々しい、何かを諦めたような目だ。
とてもこの年頃の子供の目つきとは思えない。
辰吉はこの時初めて、童が何か深い事情を抱えているのかもしれないと感じた。
引き結んだ口を緩めて、口端を、にっとあげた。
「そうさな。これも何かの縁だ。俺が最後まで、ちゃぁんと面倒を見てやらぁ」
ほんの一瞬だけ、童の目に光が宿って見えた。
女将が童を降ろして元の所に座らせると、箸を持たせた。
「だってさ。良かったね、坊や。安心してお食べよ」
童はこくりと頷いて、また蕎麦を食べ始めた。
先程より勢いよく食べる姿に、女将が笑う。
「坊やなりに不安なんだろうね。でも安心しな、坊は良い人に拾われたよ」
一度、奥に戻った女将が、天婦羅と熱燗を持って戻ってきた。
「これは、あたしの驕りだ。一献、やっていきな。ほら、この天婦羅は坊やのだよ」
辰吉は目を輝かせて徳利を持ち上げる。
「ありがとうよ! 早速頂くぜ」
猪口をくいっと傾けて、一気に飲み干す。
同じように童はキラキラした目で天婦羅にかぶりついた。
「ったあ! ただ酒は美味いねぇ!」
ぱん、と膝を叩いて嬉しそうに酒を飲む。
天婦羅を食う童と辰吉を見比べて、女将が笑った。
「なんだか似た者同士だねぇ、あんたたち」
嬉々として酒を飲む辰吉を、童は天婦羅をくわえたまま、じっと見詰めていた。
長屋に帰る頃にはすっかり陽も落ちて、茜の空は群青色に染まりかけていた。
里山に帰る鴉の群れを見ながら、辰吉は童と手を繋いで歩く。
「すぐに親は見つかりそうにねぇし、お前ぇに呼び名がねぇのは、不便だなぁ」
ゆっくりと歩きながら童の顔を覗き込む。
くりっとした小さな瞳が、じっと辰吉を見返した。
「つっても口はきけねぇし、文字も書けねぇ。名が、わからねぇなぁ」
辰吉はしばし考えこんで、ふと歩みを止めた。
童の脇に手を入れて軽い体をひょいと抱き上げる。
仰天する顔に向かい、にっと笑った。
「よし! 親が見つかるまで、俺がお前ぇに名を付けてやる。そうさな……啓太ってのは、どうだ?」
童が呆けたような顔で辰吉を見詰める。
「良い名だろ。お前ぇの名は、今日から啓太だ!」
童が大きく、首を縦に振った。
呆けていた顔に、にっこりと笑みが浮かぶ。
辰吉は少々驚いた顔になって、童の顔をじっと見た。
「お前ぇ、初めて笑ったな」
辰吉もにっこりと笑顔になった。
啓太が、ぐっと腕を伸ばして辰吉の首にしがみ付いた。
「こらこら、苦しいだろうが。はは!」
辰吉は啓太を抱いたまま、歩き出した。
「それじゃ、帰るかね。俺たちの家に」
啓太は嬉しそうに笑いながら、またこくりと頷いた。