夢ノ五 火事場の迷子《ロ》
長屋へ帰ると、住人たちが井戸の周りに集まって談話していた。
人の輪の中にいたお春が、辰吉の姿に気が付いて小走りに寄ってきた。
「辰さん、火は消えたの?」
不安げな顔で聞くお春に、辰吉は笑顔を返した。
「ああ、大きな火事にはならなかったようだぜ。もう消えていたし、大丈夫だ」
住人たちが、ほっと胸を撫で下ろした。
「そうかい、良かった」
「こっちまで火が来ちまったら、どうしようかと」
心配する女性たちの声が上がる。
「何言っていやがる。うちには火消しの辰さんが居るんだ。大丈夫に決まっていらぁな」
「ああ、そうだぜ。どんな火も、たちどころに消しちまうさ」
男性たちが口々に褒めるので、辰吉はなんだか照れくさくなった。
「ところで辰さん、その子は?」
お春が辰吉の背中にいる童に気が付いて訊ねてきた。
皆の視線が集中する。
「ああ、この子なぁ。火事場に取り残されていたんだ。口がきけねぇようだし、親とはぐれたみてぇだから、一先ず連れて帰ぇってきたんだよ」
集まる視線から逃れるように、童は辰吉の背中に隠れて、じっとしている。
「それは大変だったねぇ」
「かわいそうに。それじゃぁ、探すのも大変だねぇ」
群がってくる人に怯えるように、童は身を縮こまらせた。
「明日にでも、御救小屋に行ってみるさ」
手を挙げて部屋に入っていく辰吉に、住人たちが声を掛ける。
「なにか困ったら、言うんだよ」
「力になるからさ」
「明日の朝餉は用意しといてやるよ」
皆の配慮に、辰吉は笑みを返した。
「ありがてぇ。よろしく頼まぁ」
部屋に消えていく辰吉の姿を見送って、お春が言葉を漏らした。
「本当に辰さんは、困った人を放って置けないのよねぇ」
「そういう気質なんだよねぇ。鳶だけどさ、良い人だよね」
「顔も男前なら中身も男前ってな」
「正に江戸っ子だねぇ。敵わねぇなぁ」
住人たちは口々に辰吉の噂話に花を咲かせた。
皆がそんな話をしているなど露と知らず。
辰吉は布団を敷いて、童を寝かせていた。
「今日は怖ぇ思いして疲れたろう。ゆっくり休みな」
童がこくりと頷いて、目を閉じる。
その姿を、辰吉は酒を飲みながら静かに眺めていた。
次の日の昼、辰吉は童を連れて両国広小路に建てられた御救小屋に出向いた。
大きな火事ではなかったが、焼き出された人々はそこで寝泊まりし、炊き出しなどの救済を受けていた。
辺りを見回していると、知り合いの同心・尾崎幸之助が声を掛けてきた。
「おう、辰じゃねぇか。その童は、どうした?」
珍しいものを見るように眺める尾崎に、辰吉は苦笑した。
「尾崎様! こいつぁ、助からぁ。昨日の火事で迷子を拾ったんでさ。親が探しているんじゃねぇかと思って、ここに来てみたんでございますよ」
童は尾崎の好奇の視線から逃れるように、辰吉の足に隠れる。
二人をとっくり眺めながら、尾崎は顎に手を当て考え込んだ。
「はて。迷子の届けは幾人かあったが、男子の届けは、なかったな」
「そうですか」
しゅんとした顔で振り返ると、童は怯えた顔で辰吉を見詰めている。
辰吉は笑顔を作って小さな体を抱き上げた。
「なぁに、心配すんな。俺が必ずお前ぇの親を見つけてやるからよ」
肩車をしてやると、童の表情が少しだけ和らいだ。
尾崎はその様子を見て、ふっと笑った。
「相も変わらず人が好いな、お主は。ならば、両国橋の欄干にでも行ってみろ。張り紙が、あるやもしれぬぞ」
人通りの多い大橋の欄干には平素から、迷子や探し人の張り紙が貼られている。
火事のような災害があった時などは、張り紙が増えるのだ。
辰吉は、ぱっと明るい顔になって、尾崎に頭を下げた。
「成程、その手がありやしたね! 流石は尾崎様だ! ありがとうごぜぇやす」
童を肩車したまま、辰吉は走り出した。
「しっかり掴まっていろよ」
童が辰吉の頭に手を回して、ぎゅっとしがみ付く。
「気を付けて行けよ」
尾崎の声に「へーい」と返事をして、辰吉は両国橋に向かった。
この日の両国橋は人が疎らだった。
火事の後で忙しない人が多いのだろう。
近づいてみると、張り紙は普段より多いようである。
辰吉は大きな欄干から順に張り紙を確認していった。
「うぅん」
一つ一つ丁寧に読んでみるも、童の特徴に似た張り紙は見つからない。
更に言えば、子の特徴はどれも似ていて、どれも当てはまるような気がしてくる。
「お前ぇなら、声が出せねぇとか話せねぇとか、書いてありそうだがなぁ」
ぶつぶつ呟きながら張り紙を確認する辰吉の背に顔を寄せて、童はしゅんと小さくなっていた。
結局、それらしい張り紙は見つからない。
仕方がないので、童の特徴を書いた紙を張っていくことにした。
「よし! これで親の方から見つけてくれるかもしれねぇな」
並んで立つ童の頭を撫でてやると、不安そうに俯く。
「そねぇな顔、するんじゃぁねぇよ。明日、別の橋も見に行ってみようぜ」
童が更に不安げな顔になり、益々顔を下げる。
辰吉は、しゃがみ込んで視線を合わせた。
「どうしたんだぁ。あ、腹が減ったんじゃねぇか? そういや昼餉が、まだだったな。何か食いに行くか」
童は上目遣いに辰吉を見ると、小さく頷いた。
「よし、じゃあ、行くぜ」
辰吉は童を抱き上げると、橋に背を向け歩き出した。
童は橋の欄干に張られた紙を、見えなくなるまで、じっと見詰めていた。




