夢ノ五 火事場の迷子《イ》
木枯らしが枯葉を、からからと吹き上げる夜半。
紅の炎が町を覆い、半鐘が激しく打ち鳴らされる。
黒い闇を焦がさんが勢いで火の粉が舞い黒煙が辺りを包む中を、人々がどよめきながら逃げ惑う。
その人混みを、流れとは反対に、人をかき分けながら辰吉は走っていた。
『あの家に、まだ子供がいる』
どこからか聞こえてきた声が、辰吉を走らせた。
なんとか人混みを抜けて、燃え盛る家の目の前で足を止めた。
懸命に目を凝らし耳を澄ます。
「……ーん、えーん」
微かに幼子の泣き声が聞こえた。
辰吉は近くにあった桶の水を頭からかぶると、家の中めがけて走り出す。
童は戸口の辺りで蹲っていた。
大きな炎に包まれた家は方々が崩れかけており、今にも全壊しかねない状態だ。
「待ってろ、今助けて……。っ!」
入り口に足を踏み入れた瞬間、天井の大きな柱が、がたんと傾いた。
火の粉が大量に辰吉に振りかかる。
「くっ……」
怯むことなく進もうとした辰吉の腕を、仲間の火消しが力一杯引っ張った。
「辰さん、ありゃもう、だめだ」
「入ったら、お前ぇまで死んじまう」
必死に止める仲間の手を振りきろうと、もがく。
「あそこに子供がいるんだ! 早くしねぇと」
そうする間にも、炎はどんどん大きくなり、家は崩れてゆく。
「諦めろ」
仲間の言葉が耳に届いた、その時。
童の真上にあった梁がみしみしと音を立て、大きく傾いた。
「離しやがれ! 今ならまだ……」
辰吉が仲間の腕を振り切って中へ入ろうとした瞬間。
ずしん、と大きな音を立てて梁が崩れ落ちた。
「なっ……」
梁が纏っていた火は一層大きな炎の塊になり、戸口から外へまで吹き出した。
熱風が吹き全身が焼けるように熱くなる。
思わず顔を覆って気が付いた。
子供の声は、もう聞こえない。
周囲には木の焼ける音と、逆巻く炎の轟音だけが響いている。
辰吉は力なく、その場に膝をついた。
戸口から吹き出す炎を凝視する。
そこに人の姿を見ることはできなかった。
辰吉は、ぐっときつく目を瞑って、地面を殴った。
「すまねぇ、すまねぇ」
何度も繰り返しながら、辰吉は蹲り項垂れていた。
「……まねぇ、すまねぇ……」
譫言のような声に気が付いて、目が覚めた。
どうやら魘されて発した自分の声だったらしい。
全身が汗で、びっしょりと濡れている。
ふう、と一つ息を吐く。
辰吉は改めて部屋の中を見回した。
長持に行燈、火鉢。
その程度しかない簡素な部屋は、いつもと変わらない。
「また、あの夢か」
呟いて、ゆっくりと上体を起こす。
両手は体同様、汗でびっしょりと濡れていた。
あの時救えなかった命を、辰吉は忘れることができない。
いや、忘れてはいけないと思っていた。
「あんなのはもう、二度と御免だ」
濡れた手をぎゅっと握り、額にあてる。
かーん、かーん、かーん
遠くで半鐘の音が聞こえて、勢いよく顔を上げた。
「火事か!」
飛び起きると、すぐさま火事装束に着替える。
鳶口を持ち、辰吉は部屋を飛び出した。
火事は本所の西側辺りだった。
辰吉が駆けつけた時には火はほぼ消えていた。
真っ黒に焦げた家の瓦礫の中を歩いて仲間を探す。
「おう、辰」
後ろから声を掛けてきたのは、組頭の権兵衛だった。
「頭、火のやつは」
「もう、しっかり消えたぜ。そねぇに、でっけぇ火事じゃぁ、なかったからな」
にっ、と笑う権兵衛に、辰吉は頭を下げた。
「遅くなって、すいやせん」
権兵衛は表情を変えて「てっ」と舌打ちして見せた。
「なぁに言いやがる。お前ぇ、今日は出張じゃねぇだろうが。それをわざわざ出てきやがって。いつもいつも、来なくていいんだよ」
ぽん、と優しく肩を叩かれて、辰吉は苦笑する。
「いや、気になっちまって。じっとしちゃぁ、いられねぇんでさ」
「仕方のねぇ」
と、権兵衛は小さく息を吐いた。
「折角来たんだ。ついでにこの辺り、見回ってきやす」
飛び出していく辰吉の背中に、
「気を付けて行けよ」
声を掛けて、権兵衛は表情を落とした。
「まぁだ、忘れられねぇのかねぇ。本当に生真面目で、不器用な野郎だよ」
言い捨てて、権兵衛は辰吉の背中を見送った。
辰吉は火事のあった周辺を、歩いて回っていた。
「回向院は無事か」
土壁は黒く焦げているものの、火を貰うまではしなかったようだ。
あまり大きな火事にならなかったことに、ほっと胸を撫で下ろす。
しばらく歩くと、一際黒く焦げた瓦礫が散らばっている家があった。
「ここが、火元か」
商家のようだが、家は跡形もなく燃え尽きて無残な残骸と化していた。
今日は特に風が強かったから、火のまわりも早かったのだろう。
辺りを見回していると、この場所には不似合いな小さい影を見つけた。
「童?」
蹲って膝を抱えているのは、どうやら小さな子供のようだ。
辰吉が静かに近づくと、その気配に気が付いた小さな肩が、びくりと震えた。
童が恐る恐る、こちらを振り返る。
顔を煤だらけにして不安な表情で振り返った童子は、歳の頃四、五歳くらいの男子だ。
辰吉は、にかっと笑って童に声を掛けた。
「よう、坊。親と、はぐれちまったのか? ここは危ねぇから、いつまでもいちゃぁいけねぇぜ」
童は怯えた様子でゆっくり立ち上がると、一歩後ろに後退った。
「大丈夫だ。俺ぁ火消しの辰吉ってんだ。つっても普段は鳶だけどな。だから、心配いらねぇよ」
安心したのか、小さな足が動きを留める。
その場に立ち尽くし、辰吉をじっと見上げた。
「迷子になったのか?」
隣に並び立ち、頭を撫でながら窺う。
童は首を横に振った。
「親は、どこに行ったんだ?」
すると今度は俯いて、また小さく首を横に振った。
どうにも要領の得ない。
辰吉は、しゃがみ込んで小さな瞳に目線を合わせた。
「なんだって、こんな所にいるんだ? 何があった?」
今度は先程よりも深く俯いて、辰吉の顔を見ようとしない。
辰吉が下から覗き込むと、口がはくはくと動いていた。
その様子に辰吉は、はっと気が付いた。
「ん? もしかしてお前ぇ、口がきけねぇのかぃ」
童は上目遣いに見上げながら、こくりと頷いた。
辰吉は、ううむと呻った。
口がきけないのは厄介だ。
言葉で情報のやり取りができないのは、不便極まりない。
「坊、文字は書けるか?」
童が、また首を横に振る。
「だろうなぁ」
見目からして、まだ年端のいかない童である。
寺子屋にも、恐らくまだ通っていないだろう。
辰吉は顎に手をあて、唸りながら頭を捻ると、立ち上がった。
「今日は俺のとこに来な。明日、御救小屋に行って、お前ぇの親を探してやるよ」
童は更に俯いて、首を激しく横に振る。
「おいおい、今すぐは無理だぜ。明日まで待ちな」
また更に激しく首を振り、辰吉の足にしがみ付く。
辰吉は、童の頭をぽんと撫でて、笑って見せた。
「心配すんな。お前ぇを置いて行ったりしねぇからよ。俺の所に来いって、言っただろ」
童は辰吉を見上げて、初めて首を縦に振った。
「良い子だ。さ、行くぜ」
辰吉は、しゃがん背中を向ける。
それを呆然と眺めている童を振り返る。
「おぶってやるから、乗りな」
驚いた顔をした童だったが、おずおずと広い背中に体を乗せた。
小さな体をひょいと背負上げ、辰吉は歩き出した。
くいと振り返ると、辰吉の背中の上で童がまた驚いた顔をしていた。
「高過ぎて、恐ぇかぃ? 俺ぁ、背が高けぇからよ。恐かったら遠くの景色を見ていな。そうすりゃ、怖くねぇからよ」
ぶんぶんと首を横に振った童が、嬉しそうに、こくりと頷く。
「落ちねぇように、しっかり掴まっていろよ」
辰吉は自分の長屋へと走りだした。




