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夢ノ四 茜色の夕焼け《二》

 その後、数日は調子が良かった。

 咳は出るが、胸の苦しさは収まっている。

 凜の調合してくれた薬が効いているのかもしれない。


 しかし、今日のような雲一つない快晴の日は、かえって咳が辛かった。

 空気も乾いて、呼吸をするのが少し辛い。

 目の前では、太一が折り紙をして遊んでいる。

 咳を堪えながら、お優は針仕事に勤しんでいた。

 太一が小さい手で器用に花を折っている。


「太一、そろそろ昼餉に……っ」


 声を発したら、途端に咳が込み上げて抑えきれなくなった。


「ぐっ……ごほっ……っ」


 一際酷い咳が立て続けに出て、止まらない。


「母ちゃん?」


 異変に気付いた太一が、顔を上げた。


「っ……」


 何か言おうにも、咳が邪魔をして言葉にならない。


「げほ、げほ……うっ」


 途端に胸が苦しくなって、何かが込み上げてくる。


「! ぅっ……かはっ……」


 胸の奥から上がってきたものを堪えきれずに、吐き出す。

 口元を抑えた指の隙間から大量の血が流れ出た。


「がっ……は、はぁっ、はぁ……」


 気泡の混じった真っ赤な血が、辺り一面に広がり畳を汚した。

 太一は立ち上がり、その光景を不思議そうな顔で眺めている。

 前倒れにになった体を起こせずに、お優はひたすら荒い呼吸を繰り返す。


「母ちゃん」


 太一が小走りに優に近づいた。


「だ、め……」


 来ては駄目だと言いたいのに、声が出ない。

 息を吸い込むと刺激で咳が出て、呼吸をすることも、ままならない。

 太一が近くにあった布巾を握って優の隣に立ち、口元を拭おうとした。


「母ちゃん、大丈夫?」


 お優は咄嗟にその手を振り払い、太一の体を遠ざけようと押しやった。

 勢いに抗えない太一の体が、後ろに倒れ込む。


「触っては、だめ! 離れ、なさ、い……」


 言葉を発して、はっとした。


(これじゃ、あの夢と同じだ)


 母親が自分にしたことと、まるで同じだ。

 あの夢は只の夢ではない。

 お優の幼い頃の記憶の一部だ。


 お優の母親は労咳で死んだ。

 子供ながらに心に重く残った母の辛そうな顔を、姿を、未だに夢にみる。

 自分が母親と同じ病になってから、夢の頻度は増した。

 何度も同じ夢をみて、何度も心を痛めている。


(私はあの時、とても悲しかったのに)


 それなのに。

 母親と同じ振舞いを、自分の子にしてしまった。


 後悔の念が、どっと押し寄せて、涙が込み上げる。

 滲む視界の中で、太一は泣きも騒ぎもしない。

 尻もちをついたまま、じっとしていた。


 だが突然、むくりと立ち上がり、外に飛び出して行った。


「た、いち……。待って……」


 ひゅうひゅう、と息が吐き出されるばかりで声にならない。

 吸えば吸うほど呼吸は咳に飲まれて息が出来ず、胸元を掻き毟る。

 苦しさで遠のく意識の向こうに、出て行った太一の後ろ姿が見えた。


「た、いち……」


 お優は咳き込みながら、どうにもできない体を丸めて小さく蹲った。



 凜と優太が長屋を訪れたのは偶然だった。

 知り合いが持ってきた長芋を分けてやろうと持ってきた。

 近くまで来ると、長屋の戸が中途半端に開いている。


「お優さん、いるかい」


 中を覗いた凜は、眉を顰めて部屋に駆け上がった。

 血の海の中で一人、お優が倒れている。


「お優さん、おい!」


 体を起こすと、口元に手をやり呼吸を確認する。

 胸に耳を当てて心の臓の音を聴くと、トクリトクリと温かい音がした。


「お……り、ん……さ……」


 薄らと目を開けて、お優が浅く意識を取り戻した。

 ひゅうひゅう、と音を立てて苦しそうに息をする。

 お優の背中を支えながら抱き上げた。


「今、布団に寝かせてやるから」


 優太が素早く布団を敷き、その上に優を移す。

 手を離そうとする凜の腕を、優が力なく掴んだ。


「たいち、が……」


 か細い声に耳を近づけて聞き取る。


「た、いち、が……どこか、に……」


 凜は目を見開き、優太に目配せした。

 優太が、一つ頷いて部屋を出る。


 しっかりと外から戸を閉めると、大きな声で長屋の皆に呼びかけを始めた。


「みなさーん、助けてくださーい!」


 長屋のあちこちから、わらわらと住人たちが出てきた。

 あっという間に優太を取り囲んだ。


「何だい、大声出して」

「優太ちゃんじゃないか。どうしたんだい?」


 口々に問う長屋の住人達に、優太は潤んだ瞳で俯いた。


「実は、お優さんが風邪で寝込んでいて、その隙に太一ちゃんが居なくなっちゃったんです。探すのを手伝ってくださいませんか」


 うっう、と泣きながら懇願する優太に、皆が慌てだした。


「そういえば、姿を見ていないね」

「太一は、まだ小せぇじゃねぇか。一人でどこ行きやがったんだ?」

「お優さん、体を壊しているのかい? ちょぃと……」


 斜向かいに住んでいるお(かね)が部屋を覗こうとする。

 優太が全身で遮った。


「お優さんは、お凜さんが診ているから大丈夫です! それより太一ちゃんを!」

「お凜さんが診てるのかい。なら、安心だね」


 心配そうにしながらも、お兼がほっと手を引く。


「そういう事情なら、お優さんはお凜さんに任せて、俺たちは太一を探そうぜ!」


 長屋の人々は方々に散っていった。

 優太が、ふうと一息吐いて、部屋に戻る。

 戸をぴっしり閉めると、凜に向かい、にっと笑って見せた。

 優太に頷いて、凜は布団に横たわるお優の赤い口元を懐紙で拭い取った。


「そういうことだから、太一は大丈夫だ。あんたは、ここで休んでいな」


 お優が虚ろな瞳で小さく頷いた。


「ありがとう……」


 凜は、お優の目の上に手をかざした。

 暗くなった視界に誘われるようにお優の瞼が下がる。

 吸い込まれるように眠りに落ちた。

 汚れた畳の上をしゃきしゃきと綺麗に掃除し終えた優太が、間を置かずに、すっくと立ち上がった。


「それじゃ、お凜さん。おいらも太一ちゃんを探しに行ってきます」

「ああ、頼んだよ」


 優太が出て行くのを見送って、凜は優の寝顔に視線を落とした。


「なんでもかんでも、一人で抱えられるもんじゃぁ、ないんだよ」


 お優のひんやりした青白い額に、そっと手を添えた。

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