夢ノ四 茜色の夕焼け《ハ》
「母さん見て! お日様が、あんなに大きい!」
お優が指さした方を、母が見上げる。
「本当ね、朱色に輝いて、とてもきれい」
母が幼いお優に笑いかける。
その笑顔が嬉しくて、繋いでいる手を、ぎゅっと握りしめると、母も優しく握り返してくれた。。
お優は温かい気持ちになって、繋いだ手を振りながら歩き出した。
けれど、すぐに夜がきて、周りは真っ黒な闇に染まる。
暗闇に吐き出される、鮮やかすぎる真っ赤な血。
「はっ、はぁ……、げほっ……」
激しく咳き込む声がして、お優は慌てて母に近づいた。
「母さん、大丈夫?」
背中を擦りながら顔を覗きこむ。
母は苦しそうに胸を掻き毟っていた。
咳のせいで声も出せない口元からは、一筋の血が流れている。
血を拭おうと懐紙を母の口元に近づける。
母が咄嗟に、優の手を振り払った。
「この血に、触れては……だめ」
荒い呼吸の合間に何とか言葉を絞り出して、お優を睨みつける。
「離れなさい」
声に力はないが、鬼気迫った声音と表情が幼い心に突き刺さる。
お優の胸を突き飛ばして、遠くに追いやった。
「母さん」
お優は、泣きながら母親に近づこうとする。
「だめ……。くるんじゃ、ない」
ぎろりとお優を見た顔は、まるで般若の形相だった。
お優はぞっとして、動けなくなった。
母は一層酷い咳をしながら、また大量の喀血をして、その場に倒れた。
「母さん!」
手を伸ばすが届かない。
母は倒れたまま、動かなくなった。
「母さん! 母さん!」
お優は泣きじゃくりながら、母親に必死に手を伸ばす。
手を伸ばせば伸ばすほど、母親の姿は遠くにいってしまうようだった。
「……う。お優」
誰かが眠りの淵から優を誘う。
こっちだよ、と手招きされる方に、優の意識は浮上した。
「お優」
瞼を開くと、目の前に平吉の憂い顔があった。
「平吉さん……」
泣いていたらしく、涙が邪魔して平吉の顔が良く見えない。
ごしごしと乱暴に腕で涙を拭いて、顔を確かめた。
「うなされてたけど、大丈夫か」
お優が布団から手を伸ばす。
平吉は当然に、手を握りしめた。
平吉の手の温かさを実感して、お優はやっと胸を撫で下ろした。
逞しい腕に引き上げられて、体を起こす。
「またあの夢、みていたのか」
お優は無言で頷いた。
平吉が布団に半身起こしたお優を、そっと抱きしめた。
「大丈夫だ、俺がいるから」
背中に回った手がお優を静かに撫でる。
平吉の優しい手が背中をなぞる度に、お優の心に安寧が広がる。
「平吉さん、ありがとう」
お優も手を回して、平吉を抱きしめる。
何にも変えがたい大切な人がくれる温もりに、寄り添った。
富岡八幡宮近くの茶屋には、太一と平吉が好きな団子が売っている。
団子を買い求めた帰り、同じ長屋の辰吉に声を掛けられた。
「お優さん、遣いかい」
辰吉が相変わらずのすっきりした笑顔で、お優の手元を見た。
「帰りだよ。うちの人と太一が好きな団子なんだ。深川八幡近くの茶屋でね」
辰吉が閃いた目で頷いた。
「看板娘がいる茶屋だろ。名は確か……」
「お花ちゃん」
「そうそう」
と、二人は頷き合う。
「へぇ。あすこの団子は美味いのかぃ。今度、行ってみるかな」
顎を擦る辰吉に、お優は悪戯な笑みを浮かべた。
「団子なんて言って、お花ちゃんが目当てなんじゃないのかぃ」
「そねぇに別嬪な看板娘がいるんじゃぁ、一度は拝んでおかねぇとな」
辰吉が、にっと爽やかな笑みを見せる。
お優もつられて笑っていると、辰吉がふと表情を変えた。
「そっちの袋は、薬かぃ?」
お優は、はっとして手元を隠した。
「あ、あぁ。最近、風邪をひいてね。お花ちゃんが、葛根湯を分けてくれたんだ」
たどたどしく言い訳めいた説明をする。
辰吉が、ふぅんと鼻を鳴らした。
お優は咄嗟に笑って見せた。
「寒くなってきやがったからなぁ。体、大事にするんだぜ」
辰吉が手を振って、部屋に帰っていった。
ふう、と大きく息を吐く。
お優は、ほっと肩の力を抜いた。
空風が足元を抜けてゆく。
長屋の狭い路地の吹溜りに、木の葉が、からからと音を立てて舞っている。
お優はしばらくの間、ぼうっと眺めていた。




