夢ノ四 茜色の夕焼け《イ》
ぽん、と軽く背中を叩かれて、お優は開けていた肌を隠し着物を直した。
「さ、いいよ」
凜が手を洗って立ち上がると、戸棚の中から薬袋を取り出す。
「いつもとは少し変えてある。咳が酷くなってきたようだから、咳止めの作用が強い生薬を加えてあるからね」
手渡された薬は、ずっしりと重い。
いつもながらの重さに、優は顔を顰めた。
「ねぇ、お凜さん。いつもこんなにもらえる程のお代は払っていないんだ。これは多過ぎるよ」
返そうとするお優の手を、凜が目で制した。
「何も、御上が使うような上等な薬を渡しているわけじゃぁないんだ。貰うもんは貰っているんだから気にしなさんな。それより滋養のあるもんを食べて、ゆっくり体を休めなよ」
優しく微笑む凜に、お優は頭を下げた。
「いつもありがとう。お凜さんに診てもらえて、本当に助かるよ」
「やめとくれよ。あたしは仕事をしているだけ、なんだからさ」
奥に目をやると、優太が籠を両手に抱えていた。
「お春さんに頂いたんですが、食べきれないので持っていってください」
籠の中には艶やかな卵が沢山入っていた。
「こんなに沢山? 卵なんて豪華なもの、もらえないよ」
「うちは二、三個あれば充分だからさ。腐らせるほうが、勿体ないだろ」
凜の隣では、優太はさっさと卵を風呂敷で包む。
お優は戸惑いながらもそれを受け取り、また深々と頭を下げた。
「本当にありがとう」
凜が、ぎょっとする。
「だから、やめとくれ。余りもんを流しているだけなんだ。大したことじゃぁ、ないだろ」
お優の顎に人差し指をあてて、くいと持ち上げる。
不意に上げられた顔に、なんだか可笑しくなって笑みが浮かぶ。
凜も、同じように微笑んだ。
「さてと。それじゃぁ、あたしは煙草を吸うからね。病人は、さっさと帰んな」
しっし、と払いのけるように手を振ってみせる。
ふと外を見ると、もう夕刻だ。
そろそろ旦那が仕事から帰ってくる。
そんな動作にすら凜の優しさが垣間見えて、心がほっこりする。
お優は荷物を持って立ち上がった。
「次は十日後。悪くなったら耐えずに、すぐ来るんだよ」
煙管に煙草を詰めながら凜が念を押す。
「わかったよ」
と返事して、一礼すると、お優はようやく帰って行った。
〇●〇●〇
お優の後姿を見送って、優太は憂いた表情をした。
「お優さん、悪くなっていますね」
秋口にはあまり聞かなかった咳も、冬の空風が吹くこの頃は湿った重いものに変わりつつあった。
「労咳は人にとって不治の病だ。悪くなっても良くなりはないだろうね」
凜が煙草に火を付け、煙を吸い込む。
「……」
優太が悲しそうに俯く。
横目でちらりと覗くと、凜は小さく息を吐いた。
「どんな生き物にも寿命ってのがある。長いか短いかはそれぞれさ。それが世の理ってもんだ」
「……お凜さんだって、悲しいと思っているくせに」
ぼそりと呟いて、優太が凜を、じっと見詰める。
「人の生死に、あたしらみたいな存在が逐一心を動かしていたら、身が持たないよ。……ただね」
凜は部屋に一つしかない小さな障子窓を開けた。
乾いた冷たい風が流れ込んで、部屋の中に冬の空気が広がった。
「ただ、残った生を大事に生きて欲しいと、そう思うだけさ」
凍った息と共に吐き出された声は風に乗って消えた。
それを追うように煙草の煙が外に流れる。
優太の目が、ぼんやりと消えゆく煙を追いかけていた。




