夢ノ三 心無き骸《チ》
それからのことは、よく覚えていない。
あの後、すぐにお花の祖父と岡引きが二人の元に駆け付けた。
義一郎は番所に連行された。
連れて行かれる直前、もう動かないお花の傍で祖父が泣き崩れているのを見た。
それでも義一郎の心には、なんの感情も湧いてはこなかった。
義一郎の中に残っているのは、お花の、あの目の色だけだ。
(なんで、あんな目で見んだ。お花、なんでだ)
ぼんやりとそう考えながら、義一郎は牢に入った。
殺人は死罪である。
武士ならこの場合、斬首が妥当である。
だが、義一郎に下った罪刑は違った。
勤番の下級武士が江戸で殺しを犯した一件は秘密裏に藩主の元にも届けられた。
古河藩主・土井利里の動きは早かった。
奉行所に手を回し件の全貌を確認すると、まず殺しの事実を隠蔽した。
あくまで強姦罪として、真壁義一郎の身柄を古河藩に送るよう指示したのである。
しかし奉行所は、江戸で起きた殺しとして義一郎を小伝馬町の牢に留め置いた。
奉行所は南北とも土井利里と全面対決の姿勢を示したのである。
ところが土井利里も一歩も引かない。
老中・田沼意次に掛け合って、何とか義一郎を古河に送るよう嘆願した。
困ったのは田沼である。
田沼は両方の見解を聞き入れ、苦渋の決断で真壁義一郎に遠島の罪刑を下した。
奉行所はこの決議を渋々と受け入れた。
田沼の下した決定であるから、土井利里も異論を唱えるわけにはいかない。
京都所司代までを務め上げ、老中格を目前としている土井利里からすれば、末端の些末な事件で今後の人事に悪影響があっては困る。
田沼の機嫌を損ねるわけにはいかない。
その為、土井がこれ以上ごねることもなく、渋々ながら双方納得した形でこの件は幕引きとなったわけである。
そのような上層部のやり取りを全く知らずに、真壁義一郎は遠島の日を迎えた。
永代橋の袂から出る遠島の船は、恩赦があっても帰れない罪人を乗せる。
その中に義一郎の姿があった。
空には厚い雲がかかり、冷たい北風が遠くの木々の葉を舞い上がらせた。
秋がすっかり深まっていることを、義一郎は今になって、ようやく身に染みていた。
岸には遠島になる罪人の家族が集まり、涙を流している。
義一郎には、見送りの身内の姿はない。
(古河に残してきた儂の家族は、どうなるんだべ)
別れを惜しむ人々を見て、ぼんやりとそんなことを考えた。
次に浮かんできたのは、お花の笑顔だった。
(あれは、幻だったか)
今の自分の身に起こっている事態が現のものとは思えず、どこか夢のように感じる。
お花の笑顔も、最期に見た蔑んだ目も、死んだのも、総てが夢のようだ。
(夢……)
夢をみなくなれば、総てが巧くいくと思った。
(これなら夢をみていたほうが、ましだったかもしれねぇ)
ふと自嘲するような笑いが零れた。
同時に義一郎の目から、つうと涙が流れ、頬を伝った。
「なして、こげなことにっ……」
溢れる涙を止めることができずに、義一郎は両手で顔を覆った。
義一郎の憂いに構わず、船は伊豆大島に向けて定刻通りに出港した。
〇●〇●〇
沖へ向かい小さくなってゆく船を、凜と優太は橋の上から見送っていた。
「結局、選別になっちゃいましたね」
船の上で涙を流す儀一郎を、優太が見詰める。
「夢の中で生きていた方が、幸せだったんでしょうか」
優太が、ぼそりと呟いた。
「さぁね。どっちでも、同じだったかもね」
吹き荒ぶ風に流れる髪を押さえて、凜は水平線に消える船を眺める。
「夢を売ろうと売るまいと、気が付かなけりゃいけない大事な間違いに手前ぇで気が付けなきゃ、おんなじだ」
優太が悲しげな顔で俯いた。
「財布、拾ってくれたのにな」
そういう気持ちを持っている人間だからこそ、賭けてみた思いでもあったが。
数々のきっかけは、儀一郎に自分を振り返らせるだけの材料とはならなかったらしい。
「周りが何をしようと、己で気が付かなけりゃ、どうにもならんさ。あとは精々残りの生で、よっくと振り返って生きること、くらいだろうねぇ。時はいくらでも、あるんだからね」
船が見えなくなっても、凜と優太は川の先を眺めていた。
突然、吹いた木枯らしが二人の間を吹き抜ける。
突風はまるで、見えなくなった船を追うようであった。




