夢ノ一 鬼に嫁いだ娘《イ》
桜の花も蕾が膨らみ始めた初春の頃。
江戸は漸く雪が解け、突風が早い春を連れてきた。
ひと風吹くごとに空気が和らぐ季節だが、凜の部屋ではまだ火鉢に炭団が入っている。
炬燵は優太に片付けられてしまったが、これだけは死守した。
火鉢から熱燗をひょいと取り上げて猪口に酒を注ぐと、くいっと一気に飲み干した。
「んん。堪らんねぇ」
滅多にありつけない酒に舌鼓を打ちながら、また酒を注ぐ。
飲み続けているうちに、あっという間に酒は底をついてしまった。
「ん? なんだい、もう空かい」
徳利を振りながら独り言ちていると、部屋の戸が、すぱんと開いた。
「お凜さん。あ! 昼間から酒なんか飲んで!」
戸口で指さしながら優太が、どかどかと上がり込んできた。
「あぁあ、五月蠅いのが来た」
ふう、と溜息を吐くと優太は凜の手から徳利を取り上げる。
「もう無いじゃないですか! 飲んでなんかいないで真面目に働いてください!」
優太の小言に心底嫌そうな顔をしながら、凜は耳を塞いだ。
「聞こえない、聞こえない」
優太は、きりきりと目を吊り上げて、大きく息を吸いこむ。
「じゃあ、もっと大きな声で言いましょうか! まーじーめーにー」
耳元で大声を出されて、凜は堪らず立ち上がった。
「ああもう! 五月蠅いっての!」
そんなやり取りをしていると、控えめに長屋の戸を叩く音がした。
「お! 優太、客だ! 客!」
優太は、むすっとした顔で仕方なく部屋の戸を開ける。
そこには、裏店の溝板長屋には大凡似つかわしくない、身綺麗な女人が立っていた。
「もし、こちらは夢買屋さん、でしょうか」
顔を隠すように俯き加減に部屋の中を覗きこむ。
優太は満面の笑みで「はい」と返事をすると、女の手を取った。
「汚いところですが、どうぞ中へ」
びくりと肩を震わせて手を引いたものの、女はそっと部屋に入りそそくさと戸を閉めた。
その辺りに転がっていた徳利だの猪口をさっさと片付けて、優太が部屋へ促す。
「……」
女は躊躇っていたが、意を決したように腰を下ろした。
手際よく出された茶を一瞥して、凜に向き合う。
「貴女様が、夢買屋の御主人で、ございますか」
女の姿を流し見ていた凜は、胡坐の上に頬杖をついたまま気怠そうに返事した。
「そうだけど、夢の用向きかぃ? 困っている風にも、見えねぇが」
ぴくり、と頬を引きつらせて女が言葉を飲む。
身綺麗にしてはいるが、よく見れば目尻には細かい皺が見て取れる。
所作や言葉遣いからして武家の奥方だろう。
疲れた肌に不似合いな強い視線が、それを裏付ける。
女人は小さく一つ息を吐き、今度は深々と頭を下げた。
「御察しの通り、困っているのは、私ではございません。どうか、私の娘の悪夢を、買い取ってくださいませんでしょうか」
目とは裏腹の震えた声に、凜は眉を顰めた。
「病かと思い、何人もの有名なお医者様に診ていただいても、一向に良くなりません。こうなっては、もう頼るところがないのです。どうか、どうか」
その姿に優太が、慌てて身を乗り出した。
「あ、あの、落ち着いて。頭を上げてください」
女は頭を上げず、それどころか畳に額を付けるようにして懇願し続けた。
「お願いします、お願いします」
ふう、と息を吐く。凜は気怠げに問う。
「それだけじゃ、わからないねぇ。本気でどうにかしてぇなら、ちゃんと話しな」
女人は引き攣った顔を上げて、凜を見据える。
「お引き受けくださるのですか」
凄みをきかせる声音に、同じ目のまま告げる。
「だから、わからねぇっての。話を聞いてから、考えるさ」
斜に眺める凜に強い視線を返しながら、女はすっくと体を起こす。
居住いを正し、改めて手を揃えて小さく頭を下げた。
「名乗りもせず、大変失礼を致しました。私は徒組頭山本創吾の妻、栄と申します」
上げたその瞳は静かに凛として、如何にも武家の妻の顔であった。
しかしすぐに瞳は影を帯び、俯き加減に栄は話を続けた。
「実はこの度、私共の一人娘である佳世が、とある殿方に見初められ、夫婦の申し出を受けました。その方は、表右筆の旗本清水家御長男でございます」
「それは良いお話ですね! 娘さんも御家も安泰じゃないですか!」
御家人である山本家にとってすればこの上なく良い縁談である。
「清水様は、こと娘を気に入られて、私共としましても本当に有難いお話なのです。ですが……」
栄の顔が一層に曇った。
凜は何も無言で、栄を横目に見ながら、次の言葉を待った。
「縁談が持ち上がった頃から、もうひと月になりましょうか。娘が、眠りから覚めなくなりました」
「眠りから、覚めない?」
優太の不思議そうな声に、栄がこくりと頷く。
「全く目を覚まさないのです。眠り続けて、ずっと魘されております。きっと何か悪い夢を見ているのだと。お医者様にも診ていただきましたが、体に悪いところはないと言われました。祈祷師にお願いもしましたが何とも……。私共も、もう打つ手がなく、そんな折、この夢買屋の話を聞きました。それで、藁にも縋る思いで、ここへやって参りました」
言葉通り縋るような目で凜を見詰める栄に、大きな溜息を返す。
凜はぼりぼりと頭を掻きながら呻った。