夢ノ三 心無き骸《ホ》
それからの義一郎は毎日、茶屋に通うようになった。
仕事のある日は勤めが終わってから、たとえ短い時間でも茶を飲みに行った。
初めのうちは「御武家様」と呼んでいたお花も、いつの間にか義一郎のことを名前で呼んでくれるようになった。
そうなると仲良くなるのは早いもので、義一郎とお花は色々な話をするようになった。
この茶屋は自分の祖父の店であること。
今は二人で切り盛りしていること。
両親は飢饉の流行病で亡くなってしまったこと。
今は近くの長屋で祖父と二人で暮らしていること。
どんなに些細な事実も知れば知るほど、お花への親しみが湧いてくる。
義一郎も、自分の仕事や故郷のことなど沢山話したが、郷元に置いてきている妻子のことは、どうしても話せなかった。
初めは特に意識していたわけではなかった。
だが、お花との仲が深まれば深まる程に、それは話しづらくなった。
やがて、離れている時間をもどかしく思う気持ちが大きくなるにつれ、話す気もなくなった。
その頃からだろうか、お花の夢を頻繁にみるようになったのは。
お花が眩しい笑顔で義一郎の名を呼んでいる。
小走りに近づいてきて義一郎の前で立ち止まると、上目遣いに見上げる。
その顔が何とも愛らしい。
初めは、そんな程度だった。
なのに、夢は段々と程度が増してゆく。
義一郎の前で立ち止まった花が、胸に飛び込んできた。
突然のことに驚いて空を彷徨っていた手は、戸惑いながら花の肩を抱く。
嬉しそうに義一郎の胸に頬を寄せるので、義一郎も力強く花を抱きしめた。
するとお花は、義一郎の腕の中でそっと顔を上げ、ゆっくり目を閉じた。
義一郎は、どきりとしながらも、ぷっくりとした赤い唇に自分の唇を重ねた。
柔らかく温かい感触が唇を伝って全身を巡る。
何とも幸せな心持ちだった。
その後は、そっとお花の体を横にして帯を解く。
袷を開くと、お花は恥じらった顔で義一郎を見詰める。
その目が誘っているようで、いやに艶っぽい。
露わになった白い肌に指を滑らせると、色っぽく可愛らしい声が漏れ、肌が淡く色付いた。
声を聞いてしまったら、もう止められる筈もない。
義一郎は狂ったようにお花を抱いた。
お花も義一郎の首に腕を回して、これ以上ない位に可愛らしく善がる。
義一郎は夢中になって、何度も何度も花を抱く。
そんな夢を、毎晩みている。
今朝も、同じ夢を見て目が覚めた。
「う……」
下半身に違和感があった。
(やっちまった)
どろり、と生温い感覚が右手を汚す。
枕元の懐紙を下に挿し込み、それを拭った。
深い溜息を吐いて、義一郎は起き上った。布団の上に胡坐をかいて俯く。
妻子があるとはいえ、義一郎もまだ二十六だ。
江戸に来て半年、そういうこともない。
こう毎晩、あのような夢をみていては、かえって生殺しである。
しかも、実際にお花に会うと夢のことを思い返して、思わず抱きしめたくなる。
最近は暴走しそうな欲求を抑えるのに必死だった。
こんなことなら会わないほうが良いと思い、茶屋に行くのをやめた日もあった。
しかし、夢は毎晩みる。
夢の中のお花は自分に従順に体を開いてくれる。
だが、所詮は夢だ。
何度も夢をみる度に、本物のお花に会って話をしたくなる。
我慢するのも苦しくて、結局会いに行く。
いつか夢の通りにお花に手を出してしまいそうで、そんな自分が恐ろしかった。
義一郎の気持ちなど露と知らないお花は、いつも通りに声を掛けてくる。
「義一郎さん、どうしたの?」
今日も茶屋に来ていた義一郎は、自分を呼ぶ声に呆けた顔で振り返った。
気が付けば、心配そうな顔をしたお花が立っていた。
「なんだか、ぼぉっとしているみたい。熱でもあるの?」
額に華奢な指が触れる。義一郎の肩が、ぎくりと強張った。
「熱はないみたい。何か、あったの?」
近い距離で顔を覗き込むお花に、義一郎は思わず仰け反った。
「いんや、なんでもねぇ」
本物のお花を見る度に夢の中の顔を思い出してしまう。
義一郎に抱かれて恍惚な表情をしている、あの顔を。
思わず顔を背ける義一郎に、お花は不思議そうな顔をした。
「義一郎さん?」
隣に腰掛けると、お花はそっと義一郎の手に触れた。
「何か悩み事があるのなら、聞くわよ」
どきり、と心ノ臓が大きく跳ねた。
徐々に、とくとくと早くて静かな鼓動に変わる。
もう、お花の声は耳に入らなかった。
ただお花の触れる手が、どんどん熱くなる。
それは義一郎の理性を飛ばすには充分すぎる熱だった。
花の手を握り返し、その腕を引く。
前屈みになったお花の体を、思いのままに抱きしめた。
途端にお花の体が強張り、貧窮した手が胸を必死に押し返した。
「やっ……!」
耳元で小さな悲鳴がして、はっと我に返る。
「や、めて」
お花の声が震えている。
夢の中とは違い、彼女は怯えていた。
義一郎は、咄嗟にお花の体を引き離した。
改めて良く見ると、お花は体を小刻みに震わせて、目に薄らと涙を浮かべている。
心の底から、じわりじわりと後悔の念が湧いてきた。
耐えられなくなり、義一郎はお花の体を突き飛ばすと、脱兎の如くその場を逃げ出した。
走って走って、とにかく走った。
お花の目は、信じられないものを見たような目だった。
今までの無垢な笑顔は微塵もない、恐怖だけを帯びた瞳。
夢の中で微笑み受け入れてくれた顔は、現では義一郎を完全に拒絶していた。
わかっていたことだ。
どんなに仲を深めたとしても、最近見知った男に突然抱きすくめられたら怯えもする。
当然のことだと思うのに、お花が咄嗟に放った言葉が義一郎の胸を締め付けた。
『やめて』
少しくらいは、喜んでくれるかもしれない。
夢の通りに受け入れてくれるかもしれないと思う気持ちが、心のどこかにあった。
お花も自分と同じように自分を好いてくれているかもしれないと。
しかし、現実は違った。
お花に存在を否定されたような気さえしてくる。
受け入れてもらえなかった状況が、只々辛かった。