夢ノ三 心無き骸《ニ》
長屋に帰って布団に入ってからも、義一郎はずっと呆けた顔をしていた。
お花の笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
際立って見目が良いわけではない。
だが、可愛らしい笑顔やくるくる変わる表情、よく通る声がとても印象的だった。
何より、自分のことを馬鹿にするでもなく親切に接してくれた。
それが一番嬉しかった。
(江戸にも、親切な人がいんだなぁ)
手当てしてもらった左腕を見詰める。
あの時のお花の真剣な表情を思い返す。
何故だか照れた心持ちになった。
(もう一度、会いたい)
ぼんやりと考えながら、久方ぶりに温かい気持ちで義一郎は眠りに落ちていった。
柔らかな光の中に、一人の娘が立っている。
ゆっくりと振り返ったその顔は、お花だ。
お花は義一郎に向かって、柔らかく微笑んだ。
「義一郎さん。また、会いに来てくださいね」
そっと義一郎の手を握ると、上目遣いに顔を覗き込む。
お花の恥じらうような表情がたまらなく可愛らしい。
頬を薄紅色に染めて微笑む顔に、義一郎は戸惑いながら手を伸ばす。
「……」
手を空に向かい伸ばした状態で、義一郎は目を覚ました。
いつの間にかお花の姿はなく、目の前には最近漸く見慣れてきた天井があった。
「……夢か」
伸ばしていた手を、ゆっくりと降ろす。夢の内容を反芻した。
「お花……」
目を閉じれば、あの笑顔はすぐそこにある。
「会いにいくべ」
義一郎は勢いよく飛び起きると、支度をして勤番長屋を出た。
今日は、たまたま非番だった。
とはいえ、江戸勤番の仕事など月に何日もない。
ほとんどは暇を持て余している。
勤番侍たちは長屋で俳句を楽しんだり皆で飲んだり、工夫して余暇を過ごしていた。
物見遊山の暇は山ほどあるので、江戸見物をする者も多いが、如何せん銭がない。
だから、ほとんどが素見になる。
結局それが、浅葱裏と馬鹿にされるきっかけにもなるのだ。
外に出るのが嫌になりかけていた義一郎だったが、昨日のことが気持ちを変えてくれた。
お花に会いたい一心で、義一郎は深川に向かった。
深川八幡の鳥居の少し手前に、その茶屋はあった。
昨日は祭りで酷い混み具合だったからわからなかったが、茶屋は富岡八幡のすぐ側だった。
茶屋の中を遠くから覗く。
お花は今日も昨日と変わらず、しゃきしゃきと働いていた。
ごくり、と生唾を飲み込み意を決して茶屋へ向かう。
人影に気付いたお花が、ふわりと振り返った。
「いらっしゃいまし。あ、昨日の御武家様」
明るい笑顔に、義一郎もぎこちない笑顔を返す。
自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「怪我は、大丈夫ですか?」
腕の包帯を見詰めて、お花が心配そうな顔をする。
「大した怪我では、ねぇから」
照れ笑いしながら、義一郎は長椅子に腰掛けた。
「今日は、何にしますか?」
夢の中と同じ、柔らかい笑顔でお花が義一郎に声を掛ける。
ただ注文を取っているだけなのに、胸が高鳴る。
「茶と、団子を……」
義一郎は、なるべく訛りが出ないよう抑揚のない口調で答えた。
「はーい、お待ちくださいね」
お花が奥に引っ込むと、
「ふう」
義一郎は大きく息を吐いて、呼吸を整えた。
ほんの少し会話を交わして顔を見ただけで、心がとても温まる。
ちらりと奥に目をやり、お花を覗き見る。
一所懸命に働く姿は、本当に健気で可愛らしい。
お花の姿に見惚れていると、義一郎の前を一人の女が通り過ぎた。
女が店の奥に声を掛ける。
「こんにちは」
声に気が付いた花が、顔を出した。
「はーい。あ、お優さん」
お優と呼ばれた女は慣れた様子で団子を注文すると、お花と話をし始めた。
「いつも、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう。うちの子と旦那が、ここのお団子大好きでね」
話の途中で優が、何度か湿った咳をした。
「お優さん、体が悪いの?」
お優は苦しそうな顔で笑顔を作り、「違うの」と手を振った。
「風が少し冷たかっただけよ。最近は、随分涼しくなったものねぇ」
礼と共にお優が団子を受け取る。
心配そうな顔で聞いていたお花が、
「ちょっと待っていてね」
と、奥に戻っていった。
少しして出てくると、手に薬袋のようなものを持っている。
「これ、葛根湯。煎じて飲んで」
お花の差し出した袋を見て、優は慌てて手を振った。
「いいよ、いいよ。本当に大丈夫だから」
話す先から、お優の咳は止まらない。
「病は悪くなる前に養生しないと。ね、持っていって」
懇願するようなお花に根負けして、お優は葛根湯を受け取った。
「すまないね、お花ちゃん。いつも気遣ってくれて、ありがとう」
「いいのよ、お互い様なんだから」
お優は頭を下げて帰っていった。
後姿を見送ったお花が、そそくさと義一郎の所にやってきた。
「遅くなっちゃってごめんなさい。お茶とお団子です」
ぺこりと頭を下げるお花に、義一郎は「いやいや」と微笑んだ。
「待ってなんかいねぇよ。今の人は、どこか悪ぃのけ?」
お花は眉を下げて、こくりと頷いた。
「よくうちに来てくれるお客さんなんですけど、少し前から咳が酷くて。大丈夫って言うけど悪くなってるような気がして、何だか心配なんです。私にできることなんてあまりないけど」
「お花ちゃんは、優しいんだな」
義一郎の素直な言葉に、お花が頬を赤らめた。
「そんなことないですよ。でも、ありがとうございます」
照れたような表情で微笑む花に、義一郎も微笑み返す。
穏やかな時が流れていた。
「おーい、お花」
店の奥から呼ぶ声がして、「はーい」と返事をする。
「ゆっくりしていってくださいね」
と言い置いて、花は店の奥に戻っていった。
(可愛らしいだけでなく、心も綺麗な娘だな)
義一郎は満足げに温めの茶を啜った。