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夢ノ三 心無き骸《ハ》

 人の流れに逆らわずに歩いていたら、どんどん数が増えて、気が付いたら人混みに流されていた。

 どうやら、いつの間にか深川八幡の境内に入っていたらしい。


 深川八幡とは名の通り、深川にある富岡八幡宮の通称である。

 この季節、江戸に社の多かった他の八幡宮でも祭りは行われていたが、一番大きな祭りは、この深川八幡祭だ。

 江戸の人は祭り好きなので、この祭りも多くの人を呼び込んだ。


 義一郎が訪れた時分は、帰りの客と行きの客が混じって、とんでもない人出であった。

 そんなものだから、境内は人ばかりで、なんの催しが行われているのかも、よくわからない。

 出店が出ているようだが、近づくことすら難しかった。

 人に流されながら歩いていると、近くから鳥の羽音が聞こえてきた。

 見上げると、人々の歓声とともに何羽もの雀が、ばさばさと飛んでいった。


(江戸は雀も多いんだなぁ)


 これは放生会という祭りの催物で、江戸では多く八幡神社で行われる。

 殺生を戒める意味で亀や鳥や鰻を放つものだ。 

 深川八幡祭では多くの雀を放つのだが、それを知らない義一郎は、ぼんやりと大空を舞う雀の群れを眺めていた。

 突然、大きく人混みが動いて義一郎は流れ流され境内の外に追いやられてしまった。

 何とか人と人をかき分けて、流れから抜け出る。


「ふう、人だらけだぁ」


 結局、何をしに来たかわからないような結果になった。

 がっかりした心持ちで息を吐いた。


(江戸は、儂の住む土地じゃねぇな)


 改めてそんなことを考えていたら、どっと疲れが押し寄せてきた。

 きょろきょろと辺りを見回すと、疎らになった通行人の向こうにぽつりと佇む一軒の茶屋が目に入った。

 義一郎は、一先ずその店で休むことにした。


「いらっしゃいませ」


 茶屋の娘が元気な声で出迎えてくれる。

 長椅子に腰掛け、ほっと息をつく。


「茶と、なんか甘いもんを……」


 顔を上げて、息を飲んだ。

 注文を取りに来た娘の笑顔が、きらきらと輝いて見える。

 娘は可愛らしい笑顔を義一郎に向けていた。


「お茶と甘いものですね。じゃあ、お団子はいかがですか?」


 屈託のない笑顔に鈴の鳴るような声。

 言葉の意味など理解する前に頷いていた。


「お待ちくださいね」


 注文を受けたと思った娘はすぐに奥に入って支度を始める。

 義一郎の目は無意識に娘を追っていた。


(江戸には、あんなに可愛らしい女子(おなご)がいんのか)


 呆然と娘を眺めていると、ふと目が合った。

 はっと我に返って、目を逸らす。

 すると娘は、顔色を変えて義一郎に駆け寄った。


「御武家様、怪我していますよ」


 娘の視線が左腕に注がれている。

 自分の腕を確認すると、擦り切れて血が出ていた。


「これぐらいは、掠り傷だから」


 傷口を舐めようとする義一郎を、娘が慌てて止める。


「駄目です。今、手当てをしますから」


 一度奥に戻ると、娘は桶と手拭を持って戻ってきた。

 義一郎の前に屈み、濡らした手拭で丁寧に傷口を拭き取る。

 俯く娘の顔に、義一郎の視線は釘付けになった。

 滑らかな白い肌に、ぷっくりと血色の良い唇。

 丸いくりっとした瞳と伏した長い睫毛、ほのかに色付く頬。

 華奢な指が腕に触れて、顔が熱くなる。

 胸の高鳴りは、どんどんと大きくなっていく。


「痛くないですか」

「あ、ああ」


 突然問われて、思わず声が上擦ってしまった。

 娘は丁寧に包帯を巻き終えると、


「はい、終わりです」


 満面の笑みを義一郎に向けた。

 それはまるで天女のように美しく見えた。


「……ありがとう」


 義一郎は俯きながら小さな声で、なるべく抑揚がつかないように呟いた。


「今日は人出が多いから、気を付けてくださいね」


 言い添えて、娘は仕事に戻っていった。

 義一郎は団子をかじりながら、娘の働く姿を眺めていた。


「おーい、お花。これ運んでくれ」

「はーい」


 娘は客と楽しそうに会話しながらも、てきぱきと良く動く、とても働き者だった。


(お花、って名なのか)


 西の空に陽が傾いて鴉が山へ帰って行く刻限になるまで、義一郎はお花から目が離せなかった。

 漸く重い腰を上げて、帰り支度をする。

 気が付いたお花が、そそくさと歩み寄った。


「ありがとうございました」


 お花の顔を直視できないまま、俯き加減に勘定をする。


「また来てくださいね」


 団子と茶だけで随分と長居した義一郎に、お花は屈託のない笑顔を向けた。

 義一郎は一礼だけして、足早に店を去った。

 心の臓が耳元で大きな音で鳴っている。

 けれど嫌な動悸ではない。

 江戸に来て、初めて受けた親切が素直に嬉しかった。

 義一郎の胸は、長屋に着くまでずっと早鐘を打っていた。

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