夢ノ三 心無き骸《ロ》
訛りはその後も、何かにつけ馬鹿にされた。
その度に義一郎は憤慨し、反比例するように口数が少なくなっていった。
極めつけは、吉原だった。
幕府公認の遊郭である新吉原は、一度は行ってみたい憧れの場所だ。
妻子を郷に置いてきている義一郎も、少しの後暗い気持ちはあるものの、男の性として興味はある。
「小見世の昼でも、儂らにゃ無理だろうなぁ」
勤番武士は銭がない。
義一郎は仲間たちと、昼間に素見しに行くことにした。
大門をくぐると、そこはまるで見たことのない国のようだった。
二階建ての建屋が両脇に軒を連ね、真ん中の広い通りには男女交々人が歩いている。
吉原は遊郭だが、女人が入ってはいけないという決まりはない。
特に桜の名所としては有名で、春先など隆盛な桜を見物しに来る観光客も多い。
最近は滅多に無いが、花魁道中がある時などは見世に上がらない人々が美しい花魁を一目見ようと、どっと集まる。
日本橋とは違った一種異様な艶めいた雰囲気の中を、義一郎たち勤番侍は束になって、ふらふらと歩いた。
仲ノ町と呼ばれる通りには大見世があり、張見世からゆっくりと煙が立ちのぼる。
何かと覗いてみると、花魁が煙管で煙草を吸っていた。
ゆったりとした仕草は妖艶で、半開きの目と艶やかな唇が薄ら笑っている。
じっと見詰めていると、その中の一人の女郎が、こちらを向いて笑った。
思わず笑い返すと、中からくすくすと小さな笑い声が聞こえてきた。
女たちがこっちを見て笑っているのだ。
「安っぽい着物」
「浅葱裏よ」
「臭い、臭い」
義一郎は自分の耳の良さを呪った。
確かに吉原の花魁は美しい。
古河の女郎とは比べ物にならない器量良し揃いだ。
(儂らは、商売女にまで卑下されんのか)
酷く惨めな心持ちになった。
花魁たちの言葉と笑い声が、今までの出来事を走馬灯のように思い出させた。
見目、訛り、誇りに思っていた肩書までもが馬鹿にされる材料になる。
ひと月ほど前にも、飲んだ帰り道に一人の侍に絡まれた。
肩をぶつけられた挙句『銭のない浅葱裏』と馬鹿にされた。
(江戸っちゃ、こんなとこか)
義一郎は仲間たちから離れ、一人ふらふらと大門を出た。
どれくらい歩いただろう。
ただ歩いているだけでも、町行く人々が振り返って笑っているような、何かを言われているような気がしてしまう。
『変な訛り』
『田舎臭い』
『浅葱裏』
今までに投げられた言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
耳にこびりついた声を拭い去るように、義一郎は走った。
やがて辿り着いたのは、永代橋。
気付かぬ間に随分と遠くまで歩いてきていたようだ。
歩き疲れて、義一郎は橋の欄干にもたれかかった。
橋の上を吹き荒ぶ風が、妙に冷たい。
まだ然程、季節は深くない筈なのに、川風は容赦なく義一郎の頬を叩いていった。
自然と下がった視線の先に、船が見えた。
一艘の簡素な船は、襤褸を纏った人々を乗せて進んでいく。
「ああ、囚人船が行くね」
誰とも知らない道行く人の声が聞こえた。
永代橋の麓は、島流しの船が出る。
罪を犯した人々が、八丈島に送られるのだ。
彼らが再び江戸の土を踏むことは恐らくない。
義一郎は、小さくなっていく船を、只々眺めていた。
ぱさ…と、何かが落ちる音がした。
足元を覗き見ると、財布が落ちている。
振り向くと義一郎の後ろを童が一人、走っていった。
咄嗟に財布を拾い上げると、童を追いかける。
「そごの童、これ落どしたど」
声を掛けると、童がくるりと振り返った。
はっ、とした顔で小走りに近寄ってくる。
「これ、お前ぇのだろ」
屈んで童に目線を合わせ、財布を差し出す。
童は驚いた顔で義一郎を見ていたが、すぐに笑顔になって深々と頭を下げた。
「これはご丁寧に、ありがとうございます。大変、助かりました」
童とは思えぬしっかりとした言葉遣いで礼をされ、義一郎は小さく笑った。
「しっかりした童だな。もう落どすんじゃねぇぞ」
童の頭を撫でてやる。
すると後ろから、一風変わった雰囲気の女が歩み寄ってきた。
「何しているんだぃ、優太」
童が振り返り、女を見上げた。
「お凜さん、この人が落とした財布を拾ってくださったんです」
凜と呼ばれた女が、義一郎に小さく頭を下げた。
「あたしの連れが世話になったね。礼を言うよ」
「いんや、たまたま拾っただけだがら」
義一郎は立ち上がって照れたように笑った。
優太が小さな頭を下げて、凜の着物を引っ張る。
「お凜さん、急ぎましょう!」
走り出した優太に、凜が怠そうに声を掛ける。
「走ると、また落とし物をするよ。気を付けな」
優太が「早く早く」と急かす。
凜が欠伸をしながら仕方なしに歩き出した。
「急がなくとも、祭りは逃げやしないよ」
「祭り?」
義一郎の呟きに、凜がちらりと振り返った。
「この先の、深川八幡の祭りさ。毎年大層賑わっているから、行ってみるといい」
ふっ、と小さな笑みを残して凜が優太を追いかける。
その笑みが、やけに意味深に義一郎の瞳に残った。
二人の後ろ姿を、じっと見詰める。
(江戸にも、ちゃんと礼を言う人があるんだな)
十人十色、人はそれぞれ違う。
江戸の人間という括りで十把一絡げにするのは間違っていると思うが。
嫌な思いをすることが多かったせいか、些細なことで感謝されたことに驚いた。
心が、ほんの少し温度を取り戻した気がした。
「祭り、か」
古河の秋祭りを思い出し、懐かしい気持ちになった。
尤も郷元の祭りと江戸の祭りでは、規模も人出も違うだろうが。
思いを巡らせているうちに、深川八幡の祭りに興味が湧いてきた。
空を見上げると、陽はまだ高い位置にある。
夕刻まではまだ間がありそうだ。
義一郎は、深川に向かって歩きだした。