夢ノ三 心無き骸《イ》
涼やかな風が夏の暑さを押しのける仲秋。
朝晩はだいぶ過ごしやすい季節になった。
勤番長屋でも蚊帳はすっかりお役御免で、薄い掛物一枚では肌寒く感じるときもある。
暑さを引きずった昼間を通り過ぎ、夕刻になれば緩やかな風も寒々しく感じられた。
義一郎は、ゆっくりと永代橋を渡る。
何気なく川の方に目がいって、欄干の上に肘をついた。
寒さを感じるのは肌だけではない。
心の中までも寒々しい風が吹いているように、冷たい。
江戸に来てからというもの、この風はやむことを知らないままだった。
古河藩士である真壁義一郎は、半年前に勤番で江戸に来た。
古河藩は規模としては小さいが、かの徳川家康も北の要所として重要視していた土地だ。
古河公方として、いつの時世も将軍家の信頼厚い大名が入報している。
義一郎の主君である古賀藩主土井利里はこの時、奏者番から寺社奉行を経て京都所司代を仰せつかり、後は老中格を待つばかりと噂されていた。
故に開府当初から古河藩の江戸幕府への忠義は堅い。
それは下層の藩士に至るまで染み渡っている。
義一郎もその例に漏れず、古河藩士であることを誇りに思っていた。
勤番が決まった時は、江戸に来ることを心待ちにしていた。
しかし来てみると、思っていたのとは、だいぶ違っていた。
初めのうちは見るもの聞くものが真新しいものばかりで、心が浮足立った。
そんな義一郎が最初に行ったのは、日本橋だ。
真っ直ぐに長く伸びた広い道の両脇には立派な大店が軒を連ねる。
大通りは見たこともない数の人で溢れていた。
古河の城下町とは比べ物にならない人の海だ。
その光景を興奮気味に眺めながら、義一郎は一軒の呉服屋に入った。
店の中はとても広く、多くの客が反物を片手に手代と話をしている。
目に映る総ての人がとても上品に見えた。
目を輝かせて店内を眺めている義一郎の元に、一人の若い手代がそそくさと寄ってきた。
手代は義一郎の姿を上から下まで舐めるように何度も確認すると、眉を顰めた。
「お武家様、どういった御用向きでございましょうか」
義一郎は、胸を張って大きく頷いた。
「うむ。反物を見だいんだが、いぐつか見繕ってくんねぇべか」
言葉遣いを聞いて、手代の眉がぴくりひきつった。
「お武家様は、どちらの御国元からこの御府内へ来られたのでしょうか?」
義一郎は更に反り返るように胸を張る。
「儂は古河藩士・真壁義一郎ど申す。勤番で江戸に来たんだ」
尻上がりの田舎訛りで胸を張る義一郎に、手代はあからさまに態度を変えた。
「お武家様、こちらのお品は京より取り寄せました下りものでございます。お武家様の手持ちではお買い上げいただくのは難しいかと存じます」
早口に冷たく言い放つと、帰れとばかりに頭を下げる。
義一郎は憤慨し顔を赤くした。
「んなもんは見でみねぇとわかんねぇべ。一体ぇいぐらすんだ」
他の買い物客が、ちらちらと二人を見ながら、こそこそと何か話している。
手代は困った顔で義一郎に近づくと、そっと耳打ちした。
「!」
手代がこっそり告げた値段に、義一郎は仰天した。
逃げるように店を飛び出した。
「ああ、驚いた。結城紬だって、あんなにしねぇべさ」
興味本位で入った店だったが、とんでもない恥をかいた。
自分も悪かったとは思うが、手代の言葉や態度の冷たさに義一郎の虚栄心は傷付いた。
次に一悶着あったのは、蕎麦屋だ。
古河藩下屋敷は深川猿江町にある。
この辺りは呑屋や食物屋が豊富に出ている。
勤番の侍たちは自炊も多いが、屋台や店で飲み食いする時もある。
食は、彼らの楽しみの一つでもあるのだ。
この日、義一郎は長屋周辺の散策も兼ねて、少し離れた蕎麦屋まで歩いた。
「蕎麦ど、酒を一本付けてくれねぇべか」
義一郎の無遠慮な大声が店内に響く。
周りにいた客が、ちらちらと振り返り、すっと店の中が静かになった。
店内の雰囲気などまるで気にしない義一郎に、近くで飲んでいた若い男たちが笑い出した。
「随分と、でっかい声だなぁ。それに酷ぇ訛りだ。一体、どこの郷の出だぃ」
揶揄われて、義一郎は、かっとなった。
「儂は古河藩士・真壁義一郎だ。御国の言葉を馬鹿にすんでねぇ」
男たちが、更に大笑いする。
「下総の勤番かぃ。とんだ田舎者だなぁ」
「浅葱裏か、それじゃあ仕方がねぇや。しかし、ちったぁ他の客に気が遣えないもんかねぇ」
「馬鹿にすんでねぇ、だってよ。はっはっは」
酒が入っているせいか、男たちは執拗に義一郎に絡む。
義一郎は、顔を真っ赤にして怒り出した。
「この言葉の、どごがおがしいんだ。それに儂は、誇り高い古河の藩士だ!」
憤慨する義一郎を、男たちは一層に可笑しそうに睨む。
「何が誇り高いだ! この田舎侍が!」
大笑いする男たちに、遂に堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけるんじゃねぇ! 表さ出ろ!」
義一郎は男の一人に掴みかかると、外に向かって思い切り投げ飛ばした。
「け、喧嘩だ!」
店の主人が、大声で叫んだ。
頭に血が上っている義一郎は、その声も全く耳には入らない。
勢いで外に出ると、転がっている男に掴みかかった。
すると、後ろから他の仲間たちが義一郎に向かい匕首を振りかざした。
すかさず避ける。体を捻って相手の籠手を打ち、匕首を落とす。
「くっそ」
「来んならこい。相手してやっがら」
義一郎は、神道無念流免許皆伝の腕前である上に、柔術にも長けている。
鋭い眼光で睨み据えると、男たちは震え上がって一目散に逃げていった。
「ふん、口程にもねぇ」
ふと気が付くと、辺りには人だかりが出来ていた。
店の方に目を向けると、主人と目が合った。
主人が、すこぶる迷惑そうな目で義一郎に向かい首を振り、頭を下げる。
「頼むから、もう帰ってくだせぇまし」
小さな声が聞こえた。
流石にもう、店に戻って蕎麦を食える雰囲気ではない。
義一郎は主人に蕎麦と酒の分の銭を払うと、何も食わずに店を出た。
(儂の言葉は、そげにおかしいのか?)
しかし自分には何がおかしいのか、さっぱりわからない。
虚しい気持ちと、もやもやした憤怒が胸に広がる。
義一郎は、とぼとぼと長屋へ帰っていった。