序
歌舞伎でお馴染みの四谷怪談。夜な夜な皿を数えるお菊がおどろおどろしい番町皿屋敷や本所の七不思議。ろくろ首の噂や尾が二股に分かれた猫又の集会。
江戸の人達は幽霊や妖怪の話が大好きだ。
夏場になれば、百物語なんてものも流行る。狭い裏長屋の一室にぎゅうぎゅうに集まり沢山の蝋燭が仄かに顔を照らす中、物語に背筋を凍らせる。一話終わるごとに吹き消される灯、最後の蝋燭が消えたその時—――。
何もないとわかっていても、この瞬間が楽しいのだ。
安堵し笑う人々は、本当は感じ取っていたのかもしれない。妖怪たちが、ほんの僅かに残す気配を。
茶屋の看板娘、寺子屋の先生、棒手振りの男、蕎麦屋の主人。もしかしたら今しがた一緒に怪談話に興じていた隣の男ですらも、人のようで人でないモノかもしれない。
妖は様々な姿をして人の間に紛れ、人の郷で暮らしている。当たり前すぎて誰も気づかない所に、思いもよらない姿でひっそりと、だが確実に彼らは存在している。
本所の夢見長屋にもまた、変わり者が住んでいた。
人に紛れて暮らす人の形をした人でないものである。
歳の頃二十は過ぎているであろうが、どこか色香の漂う女が、布団から煙管に手を伸ばす。
凜は大欠伸をしながら起き上がり、胡坐に頬杖をついた。
気怠そうに吹き出した煙が、もわりと顔を覆いつくしても全く気にする素振りがない。
「凜さん、起きていますかぃ!」
長屋の戸が勢いよく開き、威勢の良い声が飛んできた。
凜は気にも留めず、呑気に煙草を燻らせている。
「ああもう、夜着のままじゃないですか」
優太が、ずかずかと部屋に上がり込む。勝手知ったる体で長持の中から着物を取り出した。
「これに着替えてください」
無気力な手から煙管をとりあげて、着物を握らせる。
凜は、また大きな欠伸をした。
「もう昼も九つですよ。しだらない格好はよしてくださいね」
「あぁあぁ、煩わしいねぇ。大概にしとくれよ、小童」
「おいらが来ないと着替えも出来ないのでしょ。それに、おいらの名は小童じゃぁなく優太ですよ。大概にしてくださいね」
言い捨てて布団を上げる優太の背中を、恨めしく睨ける。
凜の恨めしい目など優太は気にも留めない。てきぱきと部屋の掃除をし始めた。
凜は観念して着替えに立ち上がった。
だらだらと着替えているうちに、部屋はすっかり綺麗になった。握り飯と沢庵の乗った膳まで準備されている。
「相も変わらず、手際がいいねぇ」
手を合わせ、握り飯を頬張る。
「早く食べてくださいね。すぐに仕事を始められるように揃えておきますから」
飯を食う凜の隣に、優太が手早く仕事道具を並べる。
「常とはいえ、あんたは忙しないねぇ。一緒に食うかい?」
沢庵を摘まんで差し出すと、優太がぷいとそっぽを向いた。
「おいらはいりません。さっさと済ませて、仕事してくださいな」
優太が、童に似つかわしくない笑みを向ける。
凜は、ぐっと飯を詰まらせた。
茶で何とか流し込み、漸く一息つく。
「そうは言っても、病の者がなければ医者は用無しだろ」
凜の生業は医者だ。勿論相手は人、とそれ以外も含む。
こう見えて勉学好きなので漢方やら蘭学やらと知識の幅は広い。
医者としての腕は悪くないが、如何せん本人にやる気が無い。長屋の住人を、ちらほら診る程度だ。
「商いが繁盛してくれなけりゃ、親父様に合わせる顔がないのですよ」
優太が戸外を指さす。年季の入った看板が、風に吹かれて、からんころんと揺れていた。
「そいつはまぁ、ぼちぼちと」
気のない返事をして、凜は煙をふかす。
「こんにちは」
若い娘の黄色い声が風に乗って舞い込んだ。
お春がいつもの人懐っこい笑顔で、戸外に立っていた。
「近頃、また夢見が悪くってさ。前みたいに、お願いできる?」
「早速、お客様ですね」
にっこりする優太に、凜は苦笑いした。
「あんたは商売繁盛の神の使いだったね」
ぼそりと零して、お春に向き直る。よく見れば、お春の目が窪み、深いくまができていた。
「ひどい顔だね。そねぃに悪い夢かぃ?」
お春が頷く。
「夢は、よく覚えていないけど、毎晩怖くて目が覚めるんだ。そのあとは寝付けない。もう三日も、まともに眠れていないんだ」
煙草盆に灰を落とした凜は、煙管の先を部屋に向けた。
「どれ、確かめてみようかね」
お春が部屋に上がり、仰向けになって目を瞑る。凜は、お春の額に手を翳すと、くるりと円を描いた。
「こりゃぁ、また大きな夢の種が埋もれているねぇ」
お春の額に指を立てる。凜の指は、すぅっと額に吸い込まれた。くりっと捻じって指を抜く。黒いガラス玉のような種を引っ張り出した。
「ほれ、取れたよ」
目を開いたお春が、凜の手の中の種を見て、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「前と同じだ。取ってもまた、できるの?」
眉を顰めるお春に、凜は笑った。
「そりゃ、そうさ。これは夢種といって、人が寝る間にみる夢の元だ。夢種ができない人間なんざ、いねぇのさ。人には心があるからね」
お春が、眉間の皺を深くした。
「それなら、皆、私みたいにお凜さんに種をとってもらうようだろ」
凜は首を振った。
「平素なら夢種は夢をみれば消える。だが稀に、消えない種があってね。種が残ると同じ夢を毎晩繰り返す。消えずに残る夢種は悪夢が多いんだ。怖い思いをしたね」
凜は、お春の頭をふわりと撫でた。
「あんたはどうやら夢種が残り易い質のようだ。困ったら、またおいでな」
「悪夢が残る質なんて、嫌だよ」
凜は、くすりと笑む。
起き上がったお春の手に、金を握らせた。
「夢種は珍品だ。また買い取らせてもらうよ。あたしの法で取り出せば、あんたの体に害はない。小遣い稼ぎだと思えばいいさ」
凜の顔を見上げたお春が、ふっと表情を緩めた。
「そうだね。痛くも痒くもなかったし、またできたらお願いするよ」
お春の背中を見送りながら、凜は煙草を燻らせる。
凜は、獏という妖怪だ。だから難なく夢種を取り出せる。
だが、お春を始めとする長屋の住人たちは、治療と信じて疑わない。
それだけ江戸には、不思議な病が多かった。
黒い夢種を陽に翳し、凜は目を眇めた。
「人というのは、本に色々な夢をみるもんだ」
凜自身は、夢をみない。お春のように常々夢をみる人という生き物を時々不思議に思う。
それと同時に面白いとも思う。
「夢買屋の仕事が一つでも入って安堵しましたよ。お凜さんがもっと早くに起きていれば、もっと仕事があったかもしれないのに」
ぶちぶちと小言を続ける優太から顔を逸らし、凜は耳を塞いだ。
お稲荷さんの狐である優太は、凜の商い仲間だ。昔馴染みで共に商売をしている。しっかり者で頼りになるが、凜には鬱陶しい相手でもある。
「ごめんくださいまし」
戸外で声がして、優太がくるりと振り返った。
「はい、どちら様でしょう」
期限の良い声で戸を開く優太に、ほっと息をついた。
「まったく、商売繁盛だねぇ」
煙管をくわえて、くすりと笑む。
次はどんな夢の種がみられるかと、僅かに胸を躍らせた。




