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中編: 恋と愛と謀り事の優先順位は明確に

 アルベリクはベランダの柵に寄りかかりながら、顔だけ彼女の方に向ける。

 磨き抜かれたサファイアの如き輝きを秘める双眸が、全てを見透かしてくるようだった。

 

「なぜこんなことをしてるのかは、まあ、だいたい想像がつくけど。これ以上マクシムの悪癖に付き合う必要はないよ」

「……このままで良いのです。私は納得しているので」

「セルが納得してるしてないの問題じゃないし、第一、君の意見は聞いてないよ?」

「え?」

「――君は『意見を言える立場にはない』んでしょ?」

「……っ!」


 アルベリクは意地の悪い笑みを浮かべながら、大昔の会話を掘り返してきた。

 こういう性格の悪さは本当に、昔のままだ。


 しかし淑女かどうか以前の問題な行いを繰り返してきた過去を持つ今のセレスティーヌの方は、昔のままではない。


「確かに、かつて私は自分の立場についてそのように申し上げました。ですがそれは、私が常に他人の言うことを聞くことを意味しませんよね」

「ははっ、なるほどねぇ。進んで揚げ足を取りに行くその胆力、不貞の手伝いをしてるだけあるよ」


 セレスティーヌの成長を認めるアルベリクはされど、その程度の歯向かいで黙ることはなかった。


「でもさ、僕にバレちゃったことについてはどうするの?」

「……え?」

「さっきも言ったけど、僕にセルの気持ちを尊重する意思はないよ? セルに動くつもりがないのなら、それはそれで僕は得た情報を有効に活用させてもらうだけ」

「……」


 絶句するセレスティーヌを尻目に、アルベリクは柵に頬杖をついて思案する。

 

「そうだなぁ……手始めにバルデュール公爵家には、莫大な口止め料を要求させてもらおうかな。そうでなくともこっちは婚約者を奪われた立場だしね」

「……っ、それは」


 浮気をしているという点ではマクシムもヴァイオレットも同罪だが、バルデュール家はマクシムを切れないのに対して、アルベリクはヴァイオレットを失っても別の婚約者を見つけてくれば良いだけ。

 政治的な面に限って見れば、二人の関係がバレて困るのは圧倒的にバルデュール家の方なのだ。

 

「バルデュール家にとって、それを払ってまでマクシムを守る意味ってあるのかなぁ?」

「……っ」


 わざわざ煽ってきた、いや、()()()()()()()アルベリクに、セレスティーヌはその真意を見て口籠もる。

 

 こんな言い方ではあるが彼はまだ、彼女に考え直させることを諦めていないのだ。

 世間に公爵家の醜態を晒してでも彼女は逃げることを選択すべきだと、そう訴えているのである。


 覚悟が揺らぐのを自覚して、あからさまな行動と分かっていながらアルベリクから目を逸らしてしまう。

 見下ろした先ではマクシムたちが、彼女の葛藤を嘲笑うかのように濃密なキスを交わしていた。


「あーあー、大胆だなぁ……自分でこの状況を作っておいて気持ち悪くなってきちゃったよ」

「ん、自分で作った?」


 聞き捨てならない言葉に、セレスティーヌはアルベリクを凝視する。

 しかし見つめられた当人は、彼女が何に引っ掛かっているのかよく分かっていない様子で微かに首を傾げた。


「え? いや、だって僕の目線で考えてみてよ。マクシムとヴァイオレットが浮気することにメリットしかなくない?」


 メリットしかないからと言って平然とやるのは倫理観が致命的に欠如しているし、まず浮気をするよう仕向けるとはどういうことなのかという疑問もあるが、それら以前に見過ごせない問題がある。

 

「……あなたは、あんなにまで溺愛していた婚約者を取られて何とも思わないのですか……?」


 化け物を見るかのような眼差しで見つめられたアルベリクは、心外そうに目を細める。


「心底引いた顔するの止めてもらえる? あの時の惚気は演技だから」

「え、演技……?」


 何となく事情を察してきたセレスティーヌは、アルベリクのめちゃくちゃな計画に巻き込まれていた事実に顔を引き攣らせる。

 

「政略結婚が災いして、最近ヴァイオレットと上手くいってなくてさ。彼女の勝気な性格も鑑みるに、そろそろやりそうだとは思ってたんだ。それにマクシムの方も、昔から単純なところがあるからね。ちょっと煽ったら寝取りを狙ってきそうだなぁって」

「……私の婚約者があなたの想定通りに動いたことを、私は悔しがるべきなのでしょうか」


 そういえば彼はここで、自分の婚約者をレティと愛称で呼ぶことをしていない。

 あれもマクシムを煽る上での即興だったのだろう。


 女性を渾名で呼ぶのが癖ではないとすれば、セレスティーヌだけセルと呼ばれていることに多少の引っ掛かりを覚える。

 が、これ以上考えると良くない結論が出そうだったので一旦頭から消し去る。


 アルベリクの、セレスティーヌを逃がしてやりたい思いはきっと本物だろう。しかしここまで来てセレスティーヌが簡単に頷くはずがないことも分かっていたはずだ。

 それでもマクシムとの明確な敵対を選んだのは、彼のことだ、他にも利益が望めたからに違いない。


 アルベリクはやはり、婚約者の寝取りをネタにしたマクシムに対する脅迫を実行するつもりだろう。それこそ先ほど言っていたように口止め料の請求はするだろうし、他にも様々な要求をしてくるはずだ。

 こうすることでセレスティーヌを追い込むこともできるから、一石二鳥であるとすら言える。


「悔しがることないよ、マクシムが直情的すぎるだけだから。流石の僕も、ここまで思い通りになったのは久しぶりだよ」

「それは普通に腹立ちますね……」

「なら今のうちに逃げ出せば? そうすれば腹が立つのは今回だけで済むよ?」


 試すように口角を釣り上げた彼は、良くも悪くも、昔と少しも変わっていなかった。

 ……不必要に高飛車な態度を取るだけの自惚れ屋になってしまった訳ではなかった。


 セレスティーヌは思わずほっとする。

 彼の留学に伴う見せかけの変化に、実は責任を感じていたのだ。


 ……彼が留学という形で他国へ行くよう仕向けたのは、他でもないセレスティーヌだから。


 ○


 この国の成人年齢は十六歳。

 アルベリクが成人したのは、今から四年前のことだ。


 彼は父親の補佐という形で公爵領の経営に携われるようになって数ヶ月もせずに、その抜きん出た才覚で確かに貴族社会を震撼せる。

 彼が特に適正を見せたのは、意外にも他の貴族との連携の架け橋になることだった。


 昔から年上の貴族には好かれにくい彼だったが、商談となると話は変わった。

 相手の欲望と期待を精確に刺激し、アルベリクに対する個人的嫌悪感を無視させる。

 いや、その嫌悪感でさえ半分は彼の優秀さから来るものだ。彼の「共犯者」になれると思えば、誰もが乗らずにはいられないのである。


 フォートリエ公爵家はアルベリクの尽力により、時に自領の生産品を他領で優遇させて儲け、時に連携の仲介組織となって儲けた。


 あまりの力量に、一時は長男を差し置いてフォートリエの次期当主にする話まで上がったが、本人が「儲け」より「家の存続」を優先しなければならない立場になりたくない、というただのワガママを押し通したことで無かったことになった。

 ……単純に兄の反感を買うのが面倒だっただけらしいという噂もあるが、その真偽は定かではない。


 ――そんな、アルベリクの好調があらゆる貴族を震え上がらせていたある日のこと。彼の目はついに、バルデュール公爵家を見据えた。


 直々に家を訪問してきたアルベリクの対応を任されたのは、マクシムとセレスティーヌ。

 年齢が近いから話しやすいだろうとのことだったが、実際は当主がアルベリクに様々な面で遅れを取る屈辱を味わうことから逃げただけである。

 実に面倒なことだが同じ公爵家ともなると、貫かねばならないプライドもあるのだ。


 しかし、バルデュール家の面々の恐れとは裏腹に、アルベリクの提案は至って平和的なものだった。


 フォートリエ公爵家傘下のフォリス伯爵家が広大な土地を持っているため、そこで綿の生産を行い、バルデュール家にその製品化を頼みたいというものだ。

 バルデュール家は綿の優れた加工技術で有名で、ついでに言えばフォートリエ家は商業のノウハウに詳しく、その販売を受け持つことが出来る。


 特に受けない理由のない、十分な利益の見込める話だった。

 ……が、この時、マクシムとセレスティーヌには、簡単には首を縦に振れない事情があった。


 今回提携を打診されたフォリス伯爵家には、アイリスという娘がいた。そして彼女はマクシムとの間に、現在進行形で男女の関係があったのだ。

 マクシムもセレスティーヌも、今後協力して事業の調整を行っていく中でアルベリクの目を誤魔化しきれる自信を微塵も持てなかった。

 

 アルベリクが鋭いというのもあったが、何よりアイリスに、情勢を見て適切に行動する能力がなかった。

 ……平たく言えば、空気を読む頭がなかったのだ。

 関係を隠させること自体にすらセレスティーヌが苦戦を強いられていたのに、そんなところにアルベリクを加える訳にはいかない。


 マクシムは仕方なく辞退を申し入れたが、その時どうしても、多少の動揺が滲んでしまった。

 

 そこで細められたアルベリクの目は明らかに、提案を蹴られて機嫌を損ねた故の反応では無かった。

 

 ……あれは確かに、疑いの目だった。


 そんな決定的な日を境に、アルベリクはあからさまにバルデュール家について探るようになった。

 家の要人にコンタクトを取ってくるようになったのはまだ序の口、肝が冷えたのはセレスティーヌによる経費の誤魔化しが気取られた時だ。


 マクシムとて、あらゆる令嬢がより取り見取りとはいかない。正義感の強い令嬢を落とす際には、その弱みをつく必要があるときもあった。

 そういう時に最も利用しやすいのがお金だ。令嬢の失敗を揉み消すため、令嬢の窮地を救うために、セレスティーヌは何度か公爵家の財源を用いた。

 

 無論別の経費に偽装したが、国は誤魔化せてもアルベリクは誤魔化せなかった。どのようなルートでバルデュール家の財務報告書を入手したのかすら定かではないが、それを聞き出そうとすれば墓穴を掘ることになるので、未だ真相は闇の中だ。


 アルベリクはバルデュール領で観光地として栄えている地域に向かい、その施設を見て回った。

 ……そこの施設は、セレスティーヌが改修したものとして経費に計上していたものだった。


 結果的には偽装の確証を得ることが出来なかったのか、アルベリクが何か言ってくることは無かった。

 しかしその一件は、セレスティーヌに最大限の警戒をさせるに足りた。


 もう少し隠蔽を厳重にするための時間だけでも稼ぎたかった彼女は、数年で良いのでアルベリクに国を出てもらいたいと考える。


 幸いにしてアルベリクは、経営における優秀さでその名を轟かせている有名人。

 足がつかぬよう懇意にしている令嬢を挟んで、国王にアルベリクの留学を勧めさせるのは容易(たやす)いことだった。


 あとはアルベリクが話を受けてくれるかという問題が残っていたが、彼の了承は肩透かしな程にあっさりと得られた。


 彼が留学を引き受ける根拠にしたのは、「この国は面白くない」という認識。

 綿工業の企画が意味もなく頓挫したことについて言っているのは確かだったが、自分の思い通りにならなかったからという幼稚な理由で言ったとは思えない。


 セレスティーヌは、バルデュール家が話を断った理由を全て見透かされているような、そんな不気味さを覚えた。


 ○


 ――夜も更けた現在。

 辺りを照らすのは純白の外灯だけ。

 その小さな光を反射して、今だけ銀色に輝くセレスティーヌの金糸を、アルベリクは静かに眺めていた。

 

 ……彼女が混乱を解くまでの僅かな時間、彼は美しく成長したあの日の少女に見惚れていられる。


 彼女の心にこれ以上無用な負担をかけるまいと表情の奥底にしまい込んできた想いが、ほんの少しだけ熱を持った。


 ○


 彼女と初めて会った八年前のお茶会で、物語を考えながら目を輝かせる無邪気なその姿に、アルベリクはどうしようもなく惹きつけられてしまった。


 しかし彼女の目は常に、その完全無欠の婚約者に向けられていた。

 マクシムを恋い慕うその表情さえも魅力的に感じてしまったアルベリクには、初めから勝ち目などなかった。


 セレスティーヌと歳の近いアルベリクは、元々彼女の婚約者候補に含まれていた。

 結果的にマクシムが選ばれたのは、ひとえに彼が公爵家の長男だったのに対し、アルベリクは次男だったから。


 仕方がなかったのは分かっている、政略結婚とはそういうものだ。

 ただ、ほんの少し運命が(たが)えば彼女は自分のものになっていたのかもしれないと思うと、やるせなさに溺れてしまいそうになる。


 だから彼はせめてもの抵抗として、自分も彼女もまだ子供であることを言い訳に、彼女を愛称で呼ぶようになった。


 風向きが変わったのはそれから四年が経って、マクシムとセレスティーヌに共同事業の話を持ち掛けたときだ。

 フォリス伯爵家の参加を提案した途端に歯切れが悪くなったマクシムに、アルベリクは初めて違和感を覚えた。


 そこでバルデュール家を嗅ぎ回ってみることに決めたのは、同じ公爵家の弱みを握って優位に立ちたかったからかもしれないし、初恋の少女が苦しんではいないか確かめるためだったかもしれないし……あるいは、彼女を傍に置ける可能性を見出してしまったからかもしれない。


 とにかく自分でも驚くほど精力的に探り回った彼は、最終的に国の財務を取り仕切る人間を懐柔するに至った。

 酒に酔った男は、バルデュール領で何故か施設改修費が嵩んでいるらしいと話してくれた。訪れてみれば、確かに該当施設には新調された部分があったが、使われた金額に対しては微々たる変化だった。


 やはり別のところにお金が使われているらしいと結論づけたアルベリクは、賄賂の存在を疑いの、今度は周辺の貴族の財政状況を調べてみた。


 結果的にあからさまな金の動きを見つけることは出来なかったが、その代わり各地で奇妙なことが起こっているのを知った。


 重い病気を患っていた元侍女が急に元気になったり、親子仲の悪かった貴族が団欒するようになっていたり、顔を隠した女性が、高価な宝石を買いに来ていたりしていたのだ。


 関係した貴族にはいずれも若い娘がいたことに気づいたとき、アルベリクはマクシムの複数回にわたる浮気をほぼ確信した。


 ……しかしここから彼は、長きに渡って深い悩みを抱えることになる。

 

 自分の気づいたことを、セレスティーヌに伝えて良いものか迷ってしまったのだ。


 セレスティーヌは間違い無くマクシムに惚れ込んでいた。こんな現状を知らせたら、傷つくに違いなかった。

 それにもしもアルベリクがマクシムの浮気を白日の元に晒して、それで二人が別れれば、バルデュール公爵家の評判は地に落ちるだろう。

 そうなればセレスティーヌは、少なからず自責の念を抱くことになる。セレスティーヌは何も悪くないのだが、繊細な彼女は、自分がマクシムを繋ぎ止めることができなかったせいで領民の生活が悪化するのだという思いに苛まれることだろう。

 ……この時の彼は、セレスティーヌが全てを受け入れて浮気の隠蔽に協力するという、並の精神力によらない選択を取る可能性を微塵も考えていなかった。

 

 ともかくアルベリクには、彼女に領民の生活苦の責任を背負わせるようなことをしてしまっても良いのか分からなかった。


 少なくともマクシムは上手くやっていた。なにせアルベリクでさえ完全な証拠を掴めてはいない。

 それに、セレスティーヌはまだ十四歳だ。全てを知るにしても、もう少し後でも良いはず。

 

 アルベリクは最終的に、口を閉ざすことを選んだ。


 彼女を想った末の決断とはいえ、手を伸ばせば届く距離にいる彼女をただ見つめているだけの立場は、想像以上に苦しいものだった。


 彼女の気持ちに寄り添わない選択をしてしまいそうになる度に理性の全てをもって衝動を抑えるということを何度も繰り返していたアルベリクは、国から留学の話が来た時、救いの手を差し伸べられたような気分になった。


 もちろん、これ以上浮気について嗅ぎ回られたくないマクシムの仕業だろうことは百も承知。人でなしの思惑通りに動くことになると分かっていながら彼は、これ幸いと留学を引き受けた。


 セレスティーヌとは簡単には会えない場所に逃げ込んだ彼は、ようやく一息つけた。

 

 ……セレスティーヌ同様、彼にも大人になるための時間が、全てを諦めるための時間が、必要だった。


 ○


 長い沈黙の後、セレスティーヌの薄桃色の唇がゆっくりと開かれる。


「……婚約者が決まる前に留学をした結果、あなたは反りの合わない方と婚約する羽目になりました。私はどう申し開きをすれば良いのでしょうね」

「ん……?」


 彼女が何を言っているのか理解出来ず、アルベリクは首を傾げる。

 

「セルが謝る必要はないよ? 確かに僕の留学を画策のはマクシムだろうけど君は――え、あっ……」

「……申し訳ございません。マクシム様のなさっていることが明るみにならないよう、手強いあなたを他国に締め出したのは私です」


 目を伏せながら告白するセレスティーヌにアルベリクは、喉の奥がからからに乾くような錯覚に襲われた。


 そこまでして遠ざけられたことに傷つきは、まあ、少しはしたが、問題はそこではない。


 かつてアルベリクが気遣った十四歳の少女は、彼の想定とは異なり、その時には既に裏切られたことをよく分かっていたのだ。なんならもう協力までしていた。

 幼かった彼女にとって初恋の人の浮気がどれほど苦しかったか、自分には想像もつかない。


 ――最愛の婚約者に嘘をつかれていたと知って、どう感じただろう。


 ――自分の背後で知らない女性とキスを交わす婚約者を見て、どう思っただろう。


 その時はまだ、幼さゆえの潔癖性も備えていたに違いない。

 ……感情の訴える違和感を捨てきれぬまま、理性で自分を納得させて秘密を貫く過程で、若く純粋だった心はどれほど歪められてしまっただろう。


 彼女が初恋の人との婚約の末、浮気されて、しかもそれを手伝う羽目になっていた間、アルベリクはというと。

 沈黙しているのが辛いというだけで、留学の打診を口実に逃げてしまっていた。


 留学になど行っていないで彼女の近くにいるべきだった。

 彼女を死んだことにして匿うとかしてしまった方が、まだマシだった。


「いよいよ幻滅されましたか?」


 押し黙るアルベリクの心情を間違った方向に解釈したセレスティーヌが、自嘲気味な笑みを浮かべる。


「いや、違っ……」

「――それにしてもヴァイオレット様は綺麗なお方ですね。あなたも意外と面食いですか?」


 弁解しようとするアルベリクに被せるようにして、セレスティーヌが話題を変える。

 彼が発言しにくそうにしているのを察しての気遣いだ。アルベリクとヴァイオレットが政略結婚であり、互いに顔で選ぶ余地などありなかったことを、セレスティーヌは既に知っている。

 

 尤もそのような気回しは勘違いを正しかった彼にとっては不要なものであり、いくら彼女の好意でも彼は話題転換に乗る訳にはいかなかった。

 ……だが奇しくもセレスティーヌの放った他愛無い軽口は、全くもって軽く流せるものではなかった。

 

「……面食いじゃないよ」

「声が小さいですね」

「うっ……」


 部分的にではあるが、セレスティーヌの指摘は確かに正しかったのだ。


 ――ヴァイオレットは、アルベリクが留学先で出会った高位貴族の令嬢。野心が非常に強く、彼女は大国の公爵家の子息であるアルベリクとの婚約を強く望んだ。

 しかしアルベリクもアルベリクで、偏執的なまでに自由を愛する変人。セレスティーヌへの未練が多大に残っていたこともあり、簡単には頷かなかった。

 だが少しあしらわれた程度で引き下がるヴァイオレットでもない。最終的に彼女はアルベリクの実家までもを味方につけ、かなり強引に結婚の計画を推し進めていく。

 

 アルベリクとしても家の後継になるのを断った手前、実家に対してはあまり強く出られない。外堀から埋めていくヴァイオレットの作戦は、彼女の想定よりも強い効果を発揮した。

 結局ヴァイオレットの家との関係悪化を恐れた実家からの圧力に押される形で、アルベリクは彼女との結婚を決めることになる。


 ……しかしここで疑問となるのは、本当に他にやりようは無かったのかということだ。

 

 結論から言えば、やりようはあった。

 

 アルベリクの交渉力を以てすれば、ヴァイオレットの失礼な態度について公的手段を以て彼女の家を訴えて、実家にとって有利な結果を引き出すことなど造作もなかった。

 婚約などせずとも、ヴァイオレットの家に対して強い立場を保ち続けることは可能だったのだ。


 ……それでもアルベリクが婚約を選んだのは、ヴァイオレットが偶然、淡い金髪と碧い瞳の持ち主だったから。はっきりとした顔の造形も、どことなくセレスティーヌと似ていた。

 彼はセレスティーヌへの未練を断ち切りたくて、言わば見た目だけで、婚約者を選んでしまったのである。


 そんな考えがあったことを自覚している彼は今、セレスティーヌの代わりを探そうとした罪悪感と、彼女が苦しんでいる間に自分は全てに目を瞑って無かったことにしようとした後ろめたさとで、彼女を直視できない。


「……まあ、結果的に上手く行ってない時点で僕は何も言えないよ」


 それでも面食いを認めるのはプライドが許さず、アルベリクは論点をぼかすような形で話題から逃げた。

 

「あれ、でも浮気はそろそろやりそうだと思っていただけで、実際にやられたのは今回が初めてですよね?」

「……いやまあ、それはそうだけど。浮気以外は何でも許せるみたいな思想、多分一般的じゃないよ」

「そうなのですか……」


 彼の指摘にピンと来ていない様子のセレスティーヌに、アルベリクはどんな顔をすれば良いか分からなくなる。

 とりあえず沈黙を埋めようと、自身の寒々しい婚約生活について語り出すことにした。

 尤も、話すことは多くなかったが。


「態度からしてヴァイオレットは僕のことが好きそうだったけど、僕の実態を知って百年の恋も冷めたんだろうね」

「どんな実態ですか?」

「ちょっと完璧すぎて弱点がない、っていう実態?」

「うわ……」


 あまりの傲慢さに閉口するセレスティーヌに、アルベリクはくつくつと笑う。


「彼女の中で夫婦とは支え合うものだったみたいなんだよね。まあそれは僕も間違ってないと思うけど、いかんせん僕の方に、彼女を頼らなければならない瞬間がなかったんだ」

「……はぁ」

「加えて彼女は年下の僕にちょっと依存されたかったみたいで。幼さのようなものを求められてたんだよね。ほら僕、顔も口調も可愛いから」

「う、うーん……」


 彼の自己評価に、納得はいかないが否定も出来ない様子のセレスティーヌは曖昧な相槌を打った。


「要は優秀すぎて可愛くない上にプライドを傷つけられたってこと。……まあ単純に、僕が女の子の扱いを苦手としすぎてるところも大きかったんだろうけどね」

「……弱点あるじゃないですか」

「揚げ足は取らなくて良いんだよ!?」


 アルベリクは不満げな顔をしてみせるが、セレスティーヌが空気を軽く保とうとしてくれたことは分かっている。

 ……彼女には敵わない。


 彼は、大人たちとの交渉を得意としているのにも関わらず、感情の駆け引きとなると急に察しが悪くなることを自覚している。

 これまでの人生で唯一好きになった女の子の機嫌を損ねることがないか、本当は今も不安で足がすくんでしまいそうなのだ。

 表情の制御に慣れていることに、今ほど感謝したことはない。


 アルベリクには基本的に、女性の考えていることがよく分からない。


 彼女らの目的はほぼ例外なく、社会的地位の高い旦那を見つけることだ。

 これまで有能な公爵家の息子として積極的な令嬢たちの標的になり続けてきたアルベリクには、殊更そういう風に見えていた。


 結婚が究極的ゴールなのは明らかなのに、彼女らはなぜか、丁重に扱われるとか特別扱いされるとか、結婚以外のものを求めてくる。

 それがどういった基準によるものなのかが、アルベリクにはさっぱり分からない。

 そして、理解出来ていないのにも関わらずその場をやり過ごすために適当なご機嫌取りをすることを、彼は自分に認められなかった。


 ヴァイオレットの気持ちが自分から少しずつ離れていくのを感じながらもアルベリクは、それでも彼女を()()気持ちにはなれず、そのまま放っておいてしまったのだ。


 ○


 微かに物憂げな表情を浮かべたアルベリクに、セレスティーヌは内心狼狽えていた。


 ……いや、理由は大体分かっている。

 ヴァイオレットと上手くいかなかった原因が自分にあったのかもしれないと考えているのだろう。


 セレスティーヌが動揺しているのは、単純に、それまで一度も彼のそんな表情を見たことがなかったからだ。


 彼はいつも自信に満ち溢れたような振る舞いをするから、心のどこかで、彼はいつも前を向いているものだと思っていた。

 彼にも人並みに悩み事があるということを、全く想定していなかったのだ。


 とんだ勘違いにセレスティーヌは思わず反省の念を抱くが、やはり化け物じみた精神力を持つ彼のこと、気持ちの切り替えは恐ろしく早かった。


「君に『天才』とまで言われて留学の推薦まで受けた僕は、実際は婚約生活もままならない能無しだったみたいだね」

 

 アルベリクの自嘲が混じった軽口に、セレスティーヌはどうにか何事もなかったかのように微笑を浮かべ、かぶりを振る。


「そんなことはありませんよ。婚約生活の方が難しすぎるのです。なにせ『妖精姫』ですらまともにやれないのですから」

「自ら名乗るなんて、よっぽどその二つ名が気に入ってるんだ?」

 

 からかうような彼の言葉に、セレスティーヌは分かってない、と首を横に振る。

 

「二つ名はそんなに良いものでもありませんよ」

「そうなの?」

「私の価値を示していたはずの二つ名は少しずつ、私の価値そのものになっていくのです」

「……どういうこと?」

「二つ名がついたことで、婚約者からの見る目が変わったということですよ」

「あー……」


 何となく理解した様子のアルベリクが、苦い顔をする。

 軽く愚痴りたいだけのつもりだったのだが、深刻そうな顔をさせてしまった。少し申し訳ないが、ここまで来たら全て話してしまおうと考える。

 

「これでも当初、初恋の人が私を見てくれなかったことには納得していたのですよ? 年が離れているので、私が彼にとってまだまだ子供なのは分かっていましたから。……でもようやく大人になれたと思った頃にはもう、私は『妖精姫』になってしまっていたのです」

「……それは、やりきれないね」


 ……マクシムの中で、妖精姫の名の価値があまりにも大きくなって、それが一人の人間としてのセレスティーヌの価値を霞ませてしまったのだ。


 同情を隠さないアルベリクは、しかしここで違和感に気づく。


「……あれ、じゃあセルって一応妖精姫としてはマクシムに愛されてたの? あの様子だから、何も無いものだとばっかり……」


 なぜか若干顔をしかめるアルベリクに内心で首を傾げつつも、セレスティーヌは口角をあげた。

 

「そうですね。愛されていたかもしれません。

 ――浮気を手伝った『ご褒美』に、手ずから服を脱がされることを愛と呼ぶのでしたら」

「……っ!? それは……」


 初めてあからさまな動揺を見せたアルベリクに、不謹慎ながらもセレスティーヌはくすりと笑ってしまった。

 ……無論、当時は全然笑えなかったが。


「ふふっ、ご安心ください。ちゃんと抵抗しましたから」

「そういう問題じゃないんだけど……」


 気遣わしげに眉尻を下げるアルベリクに、セレスティーヌは場違いにも少し救われたような気持ちになった。

 やはり婚約者とはいえ、マクシムのやったことは間違っていたのだ。

 数年越しに、自らの行動を客観的視点で認めてもらえたような気がした。


 ――十六歳で成人したとき、社交界からの高い評価も相まって、セレスティーヌには自信がついてきていた。

 密かに、今ならマクシムも自分を見てくれるかもしれないと思っていた。


 ……しかしマクシムは、彼女の期待とは裏腹に、彼女に冷たく当たり続けた。

 事あるごとに見られたのは、セレスティーヌという誰もが認める高嶺の花よりも更に上の立場で、支配する立場でいたいという欲望だ。


 マクシムはある日突然部屋に連れ込んだかと思えば、強引に服を脱がそうとしてきた。

 それまで浮気の隠蔽に関する話以外ほとんどしてこなかったにも関わらず、である。

 

 自分の価値が、その体にしか無いように思えた。

 湧き上がってきた嫌悪感に、セレスティーヌはマクシムの手を振り払い、浮気を手伝う代わりに自分には手を出さないよう強く要求した。

 

 ……実はセレスティーヌには、ある程度成長した時点で、浮気を支援する以外に一つ別の選択肢が生まれていた。

 マクシムとの子をさっさと作ってしまうという選択肢だ。


 後継さえ出来れば、たとえマクシムの不祥事がバレても、ある程度穏便な形でバルデュール家の存続が可能となる。

 幼い子供が公爵を名乗って働けるようになるまでに一度、バルデュール公爵家の運営が一族の手を離れてしまうという懸念はあったが、二十年程度であれば信頼して任せられる者は何人かいた。

 

 ……彼女がその道を選ばなかったのは、ひとえにその夜覚えた、マクシムに対するどうしようもない嫌悪感によるのである。


「何もなかったんだね?」

「ええ。――確認しますか?」

「……!」

 

 セレスティーヌの冗談が持つ意味に、アルベリクは心底驚いた様子で目を見開いた。

 顔を引き攣らせながら、震える声で注意をする。

 

「……言葉には、気をつけた方がいいよ」

 

 彼女の発言は確かに淑女として……以前に女として論外だった。

 しかし彼の言いたいことはそれだけではなさそうだと、セレスティーヌは直感的に思った。


 顔に熱が集まりそうになるのを淑女の矜持でぐっと堪え、余裕の笑みを演出してみる。

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