前編: 本性の置き場所には細心の注意を
――今日もちゃんと、「完璧な夫婦」を演じられた。
夜会を抜け出してきたセレスティーヌは、思わずほっと息をつく。
三階のベランダに彼女以外の人影はない。
無数の貴族に囲まれて身動きの取れなかった先程までとは、うって変わった静けさだ。
やましいことがある身としては、無駄に目立つ自分たちの容姿を呪わずにはいられない。
国でも有数の力を持った公爵家の出身というだけでも目立つのに、婚約者のマクシムは理想の貴公子の名をほしいままにしており、セレスティーヌに至っては「妖精姫」などという大層な二つ名までつけられてしまっている。
二つ名の元となったのは、彼女の長く艶やかな金髪だ。その細い金糸は、光の具合によっては銀色にも見えるほどに淡い。
自慢の髪ではあるが、これのせいで夜会の度に肝を冷やすことになっているのだと思うと、いっそこんなものはいらなかったと言いたくなる。
ともかくその見栄えの良さから完璧な夫婦などと呼ばれている二人は、しかし実は未だ婚約者同士で、正確には夫婦ではない。
別に最近婚約したという訳でもなく、またマクシムの方は既に二十四歳という結婚適齢期ギリギリの歳となっているのだが、結婚が遅れているのには理由がある。
何を隠そう、マクシムの度重なる浮気だ。
彼は、理想の貴公子の名が聞いて呆れるクズ野郎だったのである。
しかし現在、とっくの昔にそれを咎めて離縁なりしているはずのセレスティーヌは、あろうことか彼の浮気が周りにバレないよう手伝っている。
――婚約期間中の浮気は結婚後の浮気よりも軽く扱われることが多いから、結婚は出来るだけ遅らせた方が良いと言ったのはセレスティーヌ。
――新事業が忙しく、盛大に結婚式を挙げられる状況にないのだという言い訳を考えたのもセレスティーヌ。
もちろん彼女はこれを進んで行っているのではなく、事情あっての苦渋の選択だ。
彼女が嫁ぐことになっているバルデュール公爵家には現在、マクシム以外にまともな後継者がいない。
浮気がバレてマクシムの評判に傷がついたとしても、公爵家にはそれでも彼を当主に据える以外に選択肢がないのだ。
だがそんな無理を通せば、巡り巡って領民に迷惑がかかること必至。セレスティーヌはこれを良しとしなかった。
――マクシムの背信行為がセレスティーヌ本人にバレるのはまだいい。本当に回避しなければならないのは、世間様にバレること。
彼女はこれを信条に、これまで婚約者への協力を惜しまずにきた。
……彼が自分の初恋だったことは、忘れることにした。
とはいえこんな倫理に背く行為も、残念ながらというべきか、五年と続けていると慣れてくる。
セレスティーヌは自分でも驚くほどに凪いだ心で、ベランダの外に身を乗り出した。
ここにやってきたのは身を休めるためではない。
マクシムが目当ての令嬢と密会をしている間の見張りを務めるためだ。
階下の庭園で、彼はご令嬢との束の間の逢瀬を楽しんでいる。
マクシムは皮肉にもセレスティーヌを信用しきっているのか、周囲を警戒する様子はない。
彼の吐く甘ったるい言葉が今にも聞こえてきそうだ。
セレスティーヌは冷めた面持ちで、手に持ったワイングラスを行儀悪くくるりと回した。
危険を察知したらこのワイングラスをベランダから落とし、下のマクシムに知らせる手筈になっているのだが、彼を焦らせるためだけに落としてみたい衝動を抑えるのに苦労してしまう。
相手の令嬢は、歴代の浮気相手たちと全く同じ表情を浮かべていた。
かの妖精姫を差し置いて選ばれたことへの優越感と、酔いしれずにはいられない背徳感のたっぷり混ざった表情だ。
彼女はまだ、逢瀬の現場をセレスティーヌに見られていることを知らない。
わざわざこのような勘違いをさせておくのは無駄に骨の折れる作業なのだが、マクシムから最初のうちはそうしておきたいとの要望を受けているのだ。
セレスティーヌに隠れて会っているのだと思った方が浮気相手たちは興奮するということを、彼はよく分かっているのである。
そして、そんな気色の悪い要望にも応えてしまうほどに、セレスティーヌはマクシムの言いなりになってしまっている。
彼が彼女の知らないところで暴走することのないよう手綱を握っておくのが目的であるとはいえ、我ながら至極滑稽な有様だ。
セレスティーヌは思わず、自嘲気味な笑みを漏らした。
これまで様々なもっともらしい理由をつけて自らの行動を正当化してきたが、本当は自分の自信のなさがこの状況の一因になっていることが分かっている。
初めて彼の浮気に気づいた時に、もうやらないで欲しいと訴えてみれば良かったのだ。
物分かりの良いふりをしてしまったのは、当時彼はもう十九歳だったのに対し、セレスティーヌはまだ十三歳だったから。
彼にとって自分は異性として魅力的に映っていないことを敏感に感じ取っていたが故に、彼を縛るような言葉はとても吐けなかった。
浮気を隠すのが下手な彼をどうにか手助けし続けて五年。やっと大人になれたときにはもう、かつて望んでいたような関係を構築できる段階にはなかった。
……セレスティーヌの方が彼のことを、受け入れられなくなっていた。
様々な女性と大きな声では言えない関係を持ち続けたマクシムの思考はもう、歪みきってしまっている。
例えばちょうど今彼が愛を囁いている令嬢だって、選んだのは純粋に気に入ったからではない。
彼女、ヴァイオレット・ローゼングレンは、先日マクシムの機嫌を損ねたアルベリク・フォートリエ公爵令息の新しい婚約者なのだ。
年も爵位も近いアルベリクとは、マクシムもセレスティーヌも浅からぬ縁がある。
特にマクシムとは同性で、ぶつかり合うことが多かった。
マクシムの本性を知った後だと意外だが、彼らの不仲の原因は基本的にいつもアルベリクの方にあった。
彼もこの浮気常習犯と同様に、どうにも貴族離れした奔放な性格の持ち主なのだ。
……いや、マクシムと同列にするのは流石に少し酷かもしれない。彼にはただ、忖度という概念がなかっただけなのだ。
最高位の貴族のくせして、表面を取り繕ったり年上の人間に花を持たせたりといったことがてんで出来ない、というかする気がないのである。
加えてタチの悪いことに、彼は頭の回転が速く視野が広い方で、その指摘はいつも的を射ていた。
そんな訳で彼は一部の誇り高い貴族にとっては耐え難い存在だったに違いない……というか、少なくともマクシムはダメだった。
アルベリクはマクシムより四歳年下で、しかもマクシムが公爵家の次期当主なのに対してアルベリクは家を継げない次男という立場。
にも関わらず彼は生意気な態度を崩さず、それが貴族的思考の強いマクシムの不興を買った。
……無論マクシムの方は、そんな心の内をあからさまに顔に出すようなことはしなかったが。
しかし先日久しぶりに顔を合わせて、とうとうマクシムに我慢の限界が来てしまった。
正直今回に限ってはセレスティーヌとしても、マクシムの方に同情の余地があると言わざるを得ない。
アルベリクと長らく会っていなかったのは、彼がつい最近まで隣国へ留学に行っていたからだ。
それこそ国王に優秀さを買われた末の、国費での留学である。
そこでどんな影響を受けたのかは知れないが、結果的に彼は、セレスティーヌの目から見ても態度が悪くなっていた。
……いや、態度は元々悪かったのだが、その方向性が少し変わっていたのだ……悪い意味で。
彼は帰国してすぐに、マクシムとセレスティーヌの住まうバルデュール公爵家に挨拶をしにやって来たのだが、そこでの彼が酷かった。
初めて渡った異国なのに現地でこれだけ稼げただとか、統治の仕方には色々言いたいことがあったけれどこの国よりは幾分かマシだったとかいう上から目線の報告に始まり、こんなところに留まっていたら培う経験にも底が知れるなどとも真正面から言ってきた。
そして挙げ句の果てにはセレスティーヌたちを扱き下ろそうという明らかな意図を持って、現地で見つけた年上の婚約者について惚気てきた。
「――ある夜会で僕はちょっと外の空気を吸おうと外を出たことがあったんだ。そしたら偶然、体調が優れなくて夜会に少し遅れていた彼女に出会ったんだよね。こんなところで美人さんと二人きりになれるなんて運命だと思って話しかけてみたんだ。そしたら、お淑やかそうに振る舞う彼女の口からぬいぐるみが好きだなんて言葉を聞いてきゅんと来ちゃって! 後日うさぎの編みぐるみをプレゼントしたらすごく喜んでくれたんだ。可愛かったなぁ……」
ヴァイオレットをわざとらしく渾名で呼んでうっとりと微笑んだのち、彼は芝居がかった仕草で本棚を一瞥した。
「あ、マクシムは婚約者様の好きな物、知らないみたいだね」
あくまでもにこやかに笑うアルベリクに、出鱈目を言われたと思ったマクシムは青筋を立てた。
しかし一方で図星をつかれたセレスティーヌは、ごくりと唾を飲みこむ。
彼女の唯一の趣味と言えるのが、推理小説を読むこと、そして書くことだ。
マクシムの浮気を今の今まで世間から隠し通せているのも、その趣味によるところが大きい。
アルベリクは彼女と初めて会った時から彼女の趣味を知っているのに対し、マクシムは何も知らない。
マクシムから本を贈られたことは一度もなく……家の本棚に推理小説が並ぶこともない。
パーティーでセレスティーヌと数回話したことがあるだけのアルベリクでさえ知っているようなことを、この家の人間は全く知らないのだ。
セレスティーヌの方も、聞かれてもいないのに言うほど婚約者との会話を望んではいなかった。
とはいえアルベリクが二人の関係を疑っていること自体は、別に驚くべきことではない。
鋭い彼はきっと昔から、「完璧な夫婦」がその仮面の下に隠した冷え切った空気を正確に感じ取っていただろう。
問題は彼がそれをわざわざ口にする選択を取るようになったことだ。
彼は自分が婚約者を手にした途端、世間体に踊らされる二人の滑稽さを嗤ってきたのである。
ただ忌憚のない意見を発しているだけだった彼が、留学先でよほど煽られたのだろう、高慢な自惚れ屋に成り下がっていた。
能力は確かなだけに救えない。
以前の彼の生き方が、弱気な自分とは正反対のようで密かに憧れていたセレスティーヌとしては、怒りよりも喪失感を覚えた。
そして、このような背景があるからこそ今回のマクシムの行動には、一応合点の行く部分がある。
アルベリクの愛する婚約者を秘密裏に奪うことで、彼は溜飲を下げようとしているのだ。
それも趣味の悪いことに、アルベリクから聞かされた馴れ初めとほぼ同じシチュエーションで。
現在、隠れて逢瀬を重ねることに興奮しているのは浮気相手というより、マクシムの方なのである。
……セレスティーヌの周辺には、彼女自身も含め、少しずつ頭のネジが飛んだ人間しかいない。
いずれ結婚することになる婚約者の醜態を見つめながら彼女は、ため息を飲み込んだ。
――確かにアルベリクの振る舞いは、素直で正直ではありながら、貴族として賢明であるとは到底言えない。
しかしだからと言って表面的には波風を立てず、裏でとんでもないリスクを取るマクシムのやり方は賢いと言えるのだろうか。
これでも一応、セレスティーヌは反対した。
アルベリクは絶対に、敵に回して良い相手ではないのだ。
彼を欺き通せると考えることほど愚かなことはない。傲慢さを備えた今の彼なら尚のこと、バレた日にはどんな目に遭わされるか分からない。
セレスティーヌはこの十年近くで彼の人並外れた才覚を思い知ったつもりでいるし、マクシムも同じだと思っていた。
しかし彼女の期待とは裏腹に、彼はヴァイオレットを手に入れることに頑なな姿勢を見せた。憎悪に狂っているのだ。
彼女の知らないところで勝手にやられたら敵わないと、最終的には手伝うことを了承したが、彼女は未だ不安を拭いきれていない。
……例えば現在、セレスティーヌが目を利かせているマクシムたち周辺は安全かもしれない。しかしセレスティーヌが今いるベランダに誰かが来たらどうだろう。
いや、たまたま来ただけの人なら足音で分かるだろうし、セレスティーヌが一人でいることについては夜風に当たりに来たとでも言っておけば良い。
だが逆に言えば、万が一こっそりと忍び寄られて、彼女が誤魔化す間もなく浮気現場を目撃されてしまったら――
「――やあ」
「……っ!?」
背筋がびくりと震え、危うくワイングラスを落としかける。
現実を受け入れたくなくて振り向けずにいると、話しかけてきた男がセレスティーヌの隣にやって来た。
ベランダの柵に手を置き階下を気だるげに見つめたのは、彼女が恐れた通りの人物。
アルベリク・フォートリエだった。
夜を溶かしたような黒髪が夜風に靡く姿は、状況を鑑みなければ幻想的とすら言えそうな程に絵になっている。
「僕の婚約者と、君の婚約者だね」
「……そうですね」
「あららぁ、熱々なことで」
マクシムとヴァイオレットの抱擁を目の当たりにした彼は、しかし余裕ありげに軽口を叩く。
彼の表情からは、何も見えない。
愛しの婚約者を奪われて悲しいのか悔しいのか、それともこの状況を面白がっているのか面倒くさがっているのか、セレスティーヌには全く読み取れない。
ここで彼女は初めて気づいた。
普段自然体を貫く彼は基本、感情を隠すことをしない。
でもいざ隠すとなれば彼は、マクシムやセレスティーヌよりも上手くやれるのだ。
隠しているという事実こそが彼の余裕のなさを示しているのかもしれないが、それすらも確実とは言えないほどに、彼の表情には何の感情の浮かんでいなかった。
「……いつからお気づきで?」
「マクシムの浮気に? それともセルがその手助けをしていることに?」
アルベリクは昔からセレスティーヌのことを、セルと渾名で呼ぶ。
彼なりの距離の詰め方に過ぎないのだろうが、彼にも子供の頃から変わらないものがあると気付かされたようで、不覚にも少し安心してしまった。
それを悟られないよう、セレスティーヌは努めて堅い口調を保つ。
「……どちらもです」
「前者に関しては留学前から薄々勘付いてたかな。後者については前回お宅に訪問したとき、直前までマクシムの相手をしてたらしい浮気相手の子を偶々見つけちゃって。その子から聞いて初めて知ったよ」
「……彼女にはアルベリク様がいらっしゃっている間、部屋で静かに待機しているよう伝えていたはずなのですが」
「うん。見つけたのは部屋にいた彼女だよ。マクシムのふりをして扉を開けてもらったんだ」
「……え?」
混乱するセレスティーヌに、アルベリクは愉快げな笑みを浮かべた。
「トイレを借りたとき、セルのものとは違う香水の匂いがしてさ。それがまだ残っているということは、香水をつけた女性がトイレに入ってからさほど時間は経っていないはずなんだけど、僕が訪問して以降屋敷を出た女性はいなかった。つまりその人はまだ中に残ってるはずで。その時点でマクシムの浮気相手なんじゃないかと疑ってたから、こっそり窓から入ったことを想定して一階、かつ外の門から最も近いところにある部屋にこっそり入ってみると、かくしてそこには美しく着飾った令嬢がいた訳だよ」
「……なるほど」
トイレの匂いまで疑われたのではどうしようもない。
セレスティーヌは一周回って呆れた面持ちで、降参の合図とでもいうように小さくため息をつく。
「すごい?」
「……すごいです」
その悪戯っぽい表情が昔と寸分も変わらなくて、彼の性格が変わったことを忘れてしまいそうになる。
セレスティーヌは思わず目を逸らした。
○
アルベリクと初めて会ったのは八年前。
セレスティーヌは十歳で、マクシムと婚約して二年が経っていた。
まだ浮気には気づいていないながら、初恋の人に興味を持たれていないことに悶々としていた、そんな時のことだった。
セレスティーヌは高位貴族の集うお茶会に参加させられていたのだが、幼かった彼女に興味を持って話しかける貴族は皆無だった。
成人を済ませていたマクシムも、そんな婚約者をわざわざ連れて歩こうなどとは考えなかった。
暇を持て余した彼女は息をひそめるようにして、庭園の隅の木にもたれかかる。
とはいえ、そこまで陰鬱な気分でいた訳でもなかった。
こんなことは日常茶飯事となっていたので、彼女は懐に暇つぶしを忍ばせてきていたのだ。
手元の紙に書かれていたのは、セレスティーヌの構想した推理小説の内容のメモ書き。
この場で筆を取り出して書き足すようなことは流石に出来なかったが、トリックに抜け目がないか確認するくらいなら大人たちに眉を顰められることも無かった。
……というかセレスティーヌなどよりずっと目立つ存在がいたので、彼女の挙動が誰かに注目されること自体まれだった。
もちろん、その存在こそがアルベリクだ。
今より更に自由に振舞っていた当時の彼はその時も、ビスケットを一枚ずつ重ねて限界まで積み上げようとしていて、父親に咎められていた。
食べ物で遊んでいた彼に思わず顔をしかめていると、視線に気づかれたらしく、彼の方もこちらを見てきた。
何となく気まずくて目を逸らすが、彼は新しいおもちゃを見つけたような顔で構わず近づいてくる。
「セレスティーヌ・ヴィオネ公爵令嬢だっけ?」
「……はい。ごきげんよう、アルベリク様」
セレスティーヌのよく慣らされた挨拶に、アルベリクはそんなに堅くする必要はないと断ったのち、彼女から視線を外す。
「ねぇセレスティーヌ、建物の入り口の方を見てみて」
にやにやと笑うアルベリクの指差した先には、一組の男女がいた。
「アベル様に、フィリア様?」
マクシムの双子の弟であるアベル・バルデュール公爵令息と、フィリア・ジスカール伯爵令嬢。
二人は少し急いだ様子で建物の裏側に入っていったが、あそこには何もなかったはず……
セレスティーヌが微かに首を傾げると、アルベリクは彼女の耳元に手を添え、周りに聞こえないよう囁いた。
「――絶対浮気だよ、あれ。怪しいと思って試しにみんなの注意を僕の方に向けてみたら、案の定こそこそ抜け出しちゃってさ」
「……え?」
「笑っちゃうよね。アベルの婚約者様、かなり気が強そうだったから派手な修羅場になりそう」
「……あの、もしかして浮気するよう仕向けるためにあんなバカな真似を?」
「いや、まあそうだけど。思いの外はっきりバカって言うじゃん」
「あっ、ごめんなさ――」
「いいよいいよ、それくらいの方が面白いから」
言葉に違わない朗らかな笑みを浮かべる彼にしばらく放心したのち、ようやく事態を飲み込む。
アベルはマクシムの縁者で、マクシムはセレスティーヌの縁者。
アベルの失態はセレスティーヌにとって……死活問題では?
「浮気がバレた時って、どんなことに……」
「うーん。法律で禁じられてる訳じゃないから捕まりはしないけど、社交界の反応はすこぶる悪いだろうね。それを恐れた実家に切られて路頭に迷うくらいはあり得るかも。由緒正しい公爵家様だしね」
「そんな……」
隣の少年に思わず少々お門違いな、非難じみた目線を向けてしまう。
「まあまあ、あそこはそんなことで潰れるような弱小貴族じゃないし、弟がいなくなることでマクシムの後継者としての立場が盤石になるんじゃない?」
「……それは、そうかもしれませんけど」
「大丈夫だよ。どうしてもダメそうだったらセレスティーヌは僕が貰ってあげる」
「え……」
「露骨に嫌そうな顔するの止めて?」
若干顔を引き攣らせるアルベリクに飽くまでも曖昧な笑みを返したセレスティーヌは、彼に新たな疑問を投げかけた。
「そういえば、最初に怪しいと感じたのは何故だったのですか?」
推理小説を嗜む身としては流せないところだった。
しかしアルベリクが見せたのは、もはや推理の余地もないあからさまな証拠。
彼はポケットから小さな紙切れを取り出した。
――問題ありませんわ。
逢瀬の刻を想い高鳴るこの胸の音が、今宵も霊妙な月に在られるアルテミス様のお耳に届きませんことをお祈りするばかりです。
「……うわ」
「こんなの見ちゃったら、確かめてみるしかないでしょ?」
「確かに、好奇心をそそられる……」
想像していたより熱烈だった恋文に、思わず淑女には許されない類の呟きを漏らすセレスティーヌ。
そんな彼女を、アルベリクは面白がる様子で説明を加える。
「フィリア譲がこれをアベルに渡すところを見てたんだよね。もらったアベルはそれを確認した後、迂闊にもそのままポケットに入れたままにしてたからこっそりくすね――じゃなくて、たまたま落ちてたのを拾ったんだ」
わざとらしく偶然を装うアルベリクに、セレスティーヌは苦笑いを浮かべた。
「……仮にも公爵令息様が、スリ紛いのことを」
「いや、僕は仮にもじゃなくて正式に公爵令息様だけどね? いつの間にか消えている愛の手紙、これもまた儚くてロマンチック。僕は彼らの燃え上がる恋に手を貸してあげただけだよ」
世にも無理やりに自らの行いを正当化したアルベリクは、今度はセレスティーヌの手元に視線を落とした。
「あれ、君もお茶会で恋文持ち歩いちゃうタイプ?」
「ち、違いますっ!」
「流石にないかぁ。じゃあ何もってるの?」
「それは、その――あっ……」
初めて自分の趣味について他人に興味を持たれ、どう対応すべきか決めかねている隙にメモをひったくられてしまう。
……今思えば本当は誰かに見てもらいたくて、わざと抵抗しなかったのかもしれないが。
「これは、小説の流れみたいなもの?」
「……推理小説が書いてみたくて」
「へぇ。最後は密室を作るのに使った糸を持っていたメイド長が犯人、と……ん? でもこれ、最初に自殺した執事が持ってた合鍵がまだ使えるんじゃない?」
「……確かに」
穴を指摘されたセレスティーヌは、思わずじっくりと考え込む。
「合鍵……やっぱり密室の中にある状態にしておくのが定石ですが、執事かなり早期の段階で死なせておかないと――あ、それならいっそのことそこも他殺にしてしまって、被害者を犯人にしてしまえば……! 合鍵という動機だって出来るし、殺害場所にも説得力が出て……でもそうすると被害者から疑いの目を逸らしておく必要が……」
「第一発見者をメイド長の妹にしておけばいいんじゃない? 姉とよく似た容姿をしている設定だから、考察のしがいが出そう」
「あー、それいいですね!」
「……ん? うん……」
これでもかと言うほど目を輝かせ、初めて年相応の笑顔を浮かべるセレスティーヌ。
突然に距離を詰められたアルベリクは、飄々とした振る舞いを保つのも忘れて面食らった顔をした。
「アルベリク様?」
「……なんでもないよ。それよりこれから、セルって呼んでもいい?」
「え? えっと、いいですけど……」
婚約者にすら渾名では呼ばれていないことに多少の引っかかりを覚えながらもセレスティーヌは、断る理由を持たない。
「ありがと、セル」
「……」
なんと返すべきか迷っていると、お茶会の方から怒声が聞こえてきた。
「――おい、なんだこれは! フィリア!?」
今度は本当に地面に落ちてしまっていた、もう一方の手紙が見つかっていた。
読み上げられた内容は、「愛しのフィリアへ。今夜零時、湖を望む庭園で落ち合おう」。
アルベリクの予想していたままだった。
両親に詰問されたフィリアは、すぐにアベルの名前を漏らしてしまう。
……彼らは当分、社交界には戻ってこられなそうな雰囲気だ。
「僕がわざわざ現場を作り出すまでも無かったね」
「そうですね……」
セレスティーヌは自分よりずっと年上の二人の、絶望的なまでの危機管理意識の低さに閉口した。
彼女の呆れ顔にくすりと笑ったアルベリクは、手に持っていた方の手紙をこっそりと近くの木の下に置く。
手紙を見つけていたのにも関わらず報告しなかったことを責められないようにするため、何も知らなかったことにするのだ。
セレスティーヌは動かぬ証拠となってしまった紙を眺めながら、内心で呟く。
……自分が浮気するとしたらせめて、食べ物にメッセージを書いたりして跡が残らないようにするのに。
「せめて暗号とかにしておけばバレにくかったのにね。いや、隠語の方が望ましいか」
「あー……」
アルベリクの案に、確かにそういった単純な方法でも問題なかったなと考えていると、彼が彼女の方に向き直った。
「――セルはどう思う?」
「え? えっと……」
セレスティーヌは反射的に言葉に詰まってしまう。
その頃の彼女は、意見を求められるのが苦手だった。
その度に家庭教師たちの言葉が、母親の言葉が思い出されてしまうのだ。
――淑女たるもの、常に主人を立てて支えること。
――主導権を一人に集中させることで、組織は上手く動くものなのですよ。
――美味しいスープを作るのに、コックは一人で十分よ。
――無駄な言葉で主人を混乱させる女など、論外ですわ。
気づけばセレスティーヌは、男性の行動に異を唱えることが出来なくなっていた。
今は言っても良いときだということは分かっている。
浮気をした二人は明らかに間違っているし、そもそも目の前の少年はそんなことを咎めるような人ではない。
それでも。いや、だからこそ。
「……私は意見を言う立場にはありません」
ここで答えたら、淑女を名乗れなくなってしまうような気がした。
それは女の身で意見したから……ではなく。
婚約者がいる身で、目の前の少年の方に惹かれてしまうような気がしたからだ。