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万象森羅公式小説  作者: 真柴 亮
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命の祝歌(ほぎうた)

万象森羅が生み出した、緑の国・水の国・地の国を舞台とした小説です。



 緑の国の女王は、その地を離れることなく永久に国を憂い、見守り続けるアラウレナの一族である。

 アラウレナは、その死に際し、涙を流す。

 叫びとも慟哭とも聞こえるその音を聞いた者全てを(ともがら)として、死へと(いざな)う悲哀の一族。その音を聞いて生き残ることができるのは、女王が遺したたった一株の娘だけ―――



 仄かに光を帯びた水鏡の前で、二人の女王が今、重苦しい会談を終えたところである。

 エレーン、と海の中の発音ではそうとしか呼べない緑の国の幼き女王は、話が終わると、その蒼く強いまなざしを水面へ向けた。

 あの水面には潮がない。波もなく、延々と広がる水平線もない。ただ泉と呼ぶ小さな彼女の住処であることを、水の国の女王は知っていた。

 とはいえ、水晶に映る今代の女王と実際に相まみえたわけではない。彼女は、海にすむ種族の中で最も長命のドラゴンである。彼女が女王の座に着くまでの、比較的自由の身だった折りに、友好国だった緑の国に遊びに行ったことがあるだけだ。その頃の女王の面影がたしかに眼前に映る少女にも残っているが、種の多様性がないアラウレナだからだと言われればそうかもしれないとも思う。

 いかんせん、少しばかり遠い記憶に過ぎるのだ。ドラゴンは長寿。対してアラウレナは短命である。まだ未熟だった己に優しく親切にしてくれた当時の女王のことは覚えているが、それがはて何代前の御世だったかは正確に思い出せなかった。

 とはいえ、今となっては、そんな自分の(おぼろ)な思い出話は意味もないことになった。目下、両国間にあるのは、友好国という間柄では済まされない緊張したものである。

 たった今も、豊かな地下資源を求めて侵攻を繰り返してくる地の国への迎撃に手を貸してほしい、という血腥(なまぐさ)い頼みを、この女王の口から聞いたばかりであった。

「返答は、もう少し待ってほしい」

 我ながら芸のない台詞だと、脳裏をかすめながら、水の国の女王が応えを返した。

 緑の国の女王は、国を統べる者らしく、鷹揚(おうよう)に頷く。

 まだ、ほんのりと(いとけな)さが残る女王は、ドラゴンの身からすれば、がんぜない子どものようなものである。それでも、落胆も批難も見せずに頷くだけの度量があった。それは、彼女を一国の(おさ)と仰ぐ民にとっては僥倖(ぎょうこう)であり、天涯孤独を強いられた少女としては悲運なことだろう。

 だが、緑の国の女王エレーンは、毅然と彼女の運命を受け入れている。民を守るために、何もできない(やわ)い稚魚のようなか細い身体で、全霊をかけているのだ。

「わたしは、女王として生まれたのです」

 己と彼女の間にある差異について、誇り高きドラゴンが思考を向けたとき、それまで国の長として立っていた少女の口元が、小さく笑みの形に変化するのを見た。

「わたしを最初に掬い上げてくれたのは、まだ小さく、けれども温かな手でありました」

「エレーン?」

「水の国の女王様。わたしたちアラウレナの一族の最期をご存じですか?」

 海に住む女王が首を傾げ、水面に住む女王は、微笑みながらそう問いかけた。

 毅然とした態度を崩さなかった彼女が、笑うともっと幼く見えることに気づいたのはこのときが初めてのことだった。

 柔らかな女王の微笑みに反して、その問いかけは重い。幼き日、彼女が女王にならざるを得なかったのだろうその日を、まざと見せつけられたような気分になるのは、きっとドラゴンが長命すぎるからだ。事実、問いかけを重く感じているのは、海の女王だけである。幼い顔に浮かぶのは、母を亡くした子の憂いではなかった。

「知識としては知っている。その……亡くなるときに叫ぶのだ、と」

 その叫びが、全ての生きとし生ける者の命を奪う、とも。

 ここ数十年ですっかりと馴染みになった地下図書の居候は、嬉々として知識を吸収しながら、たまに訪れる己の女王にもその知識を享受させることに熱心だった。お陰で、目の前に映るアラウレナの種族についてもいくばくかのことは知っている。

 言い淀んだ言葉は、逸らした眼から伝わったらしい。彼女は頷くことでそれに首肯(しゅこう)し、まっすぐに鏡になった水晶を見た。

「ですが、それは歌なのです」

「歌?」

「少なくとも、アラウレナには」

 (いぶか)しむ海竜に、彼女は静かに首肯を返す。少女の声は、不思議に揺れる特別な音に聞こえた。

「その叫びの中、アラウレナの次代、子株のみが生き残る。私はそう聞いたのだけれど」

「ええ。けれどもそれは、ほんの少し、間違っているのです」

 耳の後ろについたヒレが、そわりと動くのを自制しながら、水の国の女王は清聴を選んだ。

 好奇心がくすぐられなかったわけではない。長く生きていると、己の認識と違う真実は思いがけないものになる。

 それが、語ることの少ない種族のものだとすればなおさら。

 もしも、希少種であるアラウレナから語られた真実を、海の底の巨大図書館に住みつく賢者が聞いたならば、狂喜乱舞して水晶にかじりついただろう。

 しかし、話の内容と場の雰囲気がそれを許さなかった。話を始めた方も、騒がしい反応などを求めてはいないだろう。

「あれは、歌なのです。未だ眠りから醒めぬ子株を起こすための、歌。その歌を聴いて初めて、わたしたちアラウレナは目を覚まし、この世に生まれるのです」

「まぁ、では……貴女はお母様のお顔を知らないの……?」

 そう問いかけたのは、同情か好奇心か、定かではない。だが、悲しみの色を纏わせた顔を見返した幼い女王の顔は、きょとんとさらに幼い表情を見せた。

「いいえ? 親株の情報は、子株に全て引き継がれますから」

 だから目覚めていないときでも、母親の声も、顔も温もりの全てを覚えているのだ。瞬きをした女王の困惑は、わずかに漏れ出た彼女の素顔なのだろう。それが、年嵩の竜が見せた素顔に引きずられてのことだと、双方の女王は気が付いていなかった。

 ややあって、海の底の、長命な女王が、己を気遣ったのだと思い至った幼い女王が、ほんの少し頬を染めた。ありがとうございます、と微笑んだ少女に、曖昧な笑みが返る。

 緑の国の女王が気を取り直すように目を閉じ、ゆっくりと開いた青い目に、水の句の女王の心は縫い留められてしまった。

「わたしは、彼らを、守らねばなりません。わたしを、慈しみ、愛し、育ててくれたこの国の民を、護ることが、唯一わたしにできることなのですから」

 秘匿する情報ではないのかもしれない。けれども、おそらく知られていないだろう真実を口にした少女に、どのような思惑があったのか、腹の底を探るのは、無粋なのだろうと美しい海竜は思った。

 そんなものを探らなくとも、否、探る必要などないほどに、彼女はひたむきに、民を愛し、民を慈しんでいる。

「ですが、それは水の国の女王様も同じことでしょう。わたしは、願います。祈ります。民の命が、無情にも散らされることのない世界を」

 彼女の小さな白い手が、海の中にはない祈りの形に組み合わされた。甲に浮き上がる蓮の花の紋章が淡く光を帯びているのが見える。

 お返事、お待ちしていますね。

 そう微笑んだ女王は、長命な女王が頷くのを待って水晶での通話を切った。





 目の前の水晶が映し出す女王の姿が己のものに変化した後、水の国の女王は深く息を吐いた。

 海の上の情勢は、港に住む者たちからも聞いていたが、緑の国の女王自らが頭を下げに連絡を取ってくるほどだとは思っていなかった。

 気の遠くなるほどに連綿と続く海の中の平和も、脅かされようとしている。この連絡はまるでその狼煙(のろし)のようだ。そう思いながら、女王は美しく艶めく尾を振り、脳裏によぎる恐ろしい未来を振り払った。

 女王である自分が浮かない顔をしていたら、周囲の民をさらに不安にさせてしまう。それでなくても、最近曇り顔を見せるようになった勝気な妹は、姉の憂いを敏感に感じ取ってしまうのだから。

 しかし、と彼女は窓の外を見上げた。

「そうも言っていられないのでしょうね……」

 海底に聳えたつこの場所からは、無数の魚たちが泳いでいる姿が見える。その後ろに広がるのは、百万年という永い永い間、絶対不可侵の平和を享受し続けた愛すべき海の青だった。

 似た瞳を知っている―――と、水の国の女王は思う。

 緑と共に生き、育つ、かの地の女王は、彼女を生かす泉の水面よりも、なぜか海の青に近い色の瞳を持っていた。

 その慣れ親しんだ色を宿す瞳が見せる、つよい色を、知っている。

 己を見、何かを考えこんだ顔で、窓の外の海原を眺める妹が見せる、憂い顔の中に浮かぶほんの一瞬のそれだった。

 緑の国の女王の持つ海の瞳とは真逆の、緋の瞳に浮かぶ剛い色に似ているのだ。

 嗚呼、と目を閉じる。赤い瞳が隠れ、海の中でも艶めく碧の髪が宙を撫でた。

「そう、願わくば、争いなどない世界を、この手で……」

 繋ぎ留めなければならないのだ。

 それが女王という者の役割なのだから。

 彼女の指はいつしか絡まり、海の中の祈りの形を(かたど)っていた―――。

海の中で長命の女王が息を吐いた頃、水面に浮いた蓮の葉の上に立っていた可憐な女王もまた、緊張で固まった(ぬる)い息を吐いていた。

 袖に隠れた手が震えていたのは、見透かされていなかっただろうか。

 己の母の、そのまた母の、さらにまた上の母のときに、一度だけ遊びに来てくれたことがある、若くて美しい海竜の姿を、少女は知っていた(・・・・・)。

 親から子へと受け継がれる「記憶」が彼女の中にあるからだ。

 永い間女王として広大な海を統べている彼女から見れば、自分などまだ生まれたばかりの雛鳥と同じだろう。けれども、同じ国を統べる女王として助力を請わねばならなかった。できうる限りの背伸びをして、最大限の虚勢を張って、立派で対等な「女王」でいなければならなかったのだ。

 今こうしている間にも、地の国からの攻撃は続いている。

 先代女王だった母に毒を盛ったのも、おそらくは地の国の者だろう。刻一刻と時は迫っている。外交として開戦を宣言していないだけのこの状況が、なんの慰めになるというのだ。

 またひとり、またもうひとりと民の命が潰えているというのに。

 だから、非情を知りながら、彼の国に救いを求めた。

 そうすることでしか、もはやこの国を護れる手段がない。

愛蓮(あいれん)様」

 通信が終わった頃合いを見計らって入室してきた男が声をかけた。女王の一の側近である。見目は怖いが、皆に慕われている温かな人だった。

「ありがとう。行きましょう」

 大柄な犬獣族の兵士長が声と同時に腕を伸ばす。泉の水面に浮く蓮の葉の上から下りられないアラウレナが、唯一移動できる手段は、柔らかな葉でくるみ、抱き上げられることである。

 女王を抱き上げ、王座に座らせる栄誉を与えられたのは、今代では彼だけだった。

 今となっては厚い筋肉と毛で覆われた、かつての少年を思う。

 生まれたばかりの彼女を最初に抱き上げた、汗で湿った、温かな手。その手は涙に濡れた甲をズボンで拭い、まだ柔らかだった肉球でそうっと涙を拭ってくれたのだ。

 死で埋め尽くされた王宮で、一番初めに「大丈夫だよ」と言って抱きしめてくれたその人は、大きくなった今でもずっと、一番傍で守ってくれる人になった。

 柔らかかった肉球は、剣を振ることで堅くなり、兵士長に下賜(かし)される黒い手袋に隠れてしまっているけれど、この身を抱き上げてくれるときの優しい手つきは変わらない。

 女王と呼ばれることを(いと)幼子(おさなご)に、誰もいないところでならと愛称を呼んでくれるあの少年がいたからこそ、彼女は女王でいることができるのだ。

「どうか、しましたか?」

「いいえ。貴方が、お母さまの歌を聴かなくて良かったと思っていたの」

「私は、先代のときにはまだ子どもで、女王のお歌を聴かせて貰えるほど、お傍にはいませんでしたからねぇ」

 大きな体が快活に笑う。それにつられて微笑みながら、緑の国の幼い女王は、本当に言いたかったことを胸のうちにしまい込んだ。

 おのれの命を引き換えに、アラウレナの一族は娘をこの世に送り出す。

 あの叫びは、歌だと、この心優しい獣は知らない。

 あれは歌。蕾の中で眠る愛娘を優しく揺り起こし、陽の当たる場所へと誘う歌である。

 けれども、もしも、母の祝歌(ほぎうた)を彼が聴いていたならば、彼はいまここにいて、自分を優しく抱き上げてはくれないだろう。

 彼にとって、それは死を呼ぶ呪歌(まじないうた)だから。

 だから。

「ねえ、あのね。わたし、いつか歌を歌うわ。その時は、聴いてね。あなただけは、聴いていてね」

「愛蓮様が歌うんですか? それじゃあ、念入りに毛繕いして聴かなきゃなりませんねえ」

 道連れの、呪いの歌と詰る声も知っている。

 けれども、それは、アラウレナにとって、一番最初に聞かされた最愛の歌なのだ。

 あの叫びは、歌。

 他のものを死へと誘う死の歌。

 けれど、唯一無二の娘にとっては、産まれ落ちる時に母から聴かされる最愛の歌。

 そう、それは、愛しみに満ちた、誕生を寿ぐ歌。

 アラウレナの最期にしか歌えない、一番最初の愛の歌。


はじめて書かせていただいた小説が、公式認定されました!

少しでもお楽しみいただければ幸いです。

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