朧
毎日のように夢に現れるのは、川の畔に立つ彼女の姿だった。細い肩にかかる黒髪が月影に濡れ銀に煌めく。月が明るすぎるせいだろうか、その表情は陰に飲まれて窺えない。もう冬はとうに過ぎ去ったというのに、夜の川辺は嘘のように冷え込んでいた。にもかかわらず、彼女が身にまとうのは薄手のワンピース一枚で、それが反射する白が妙に冴え冴えと目についた。
若草の茂る河原を並んで歩く。草木を踏みしめる音も、川のせせらぎも、夜の帳に吸い込まれたかのように何も聞こえない。静寂だけが僕たちを包んでいた。不意に立ち止まる彼女。逆光で見えないはずの双眸と、確かに目が合った気がした。
「ねえ、白井くん」
張り詰めた夜をそっとほどくような、穏やかな声色。月光を弾く川面が光の帯になって流れる。あの春の夜の情景も、らしからぬ冷たい空気も、すべて今ここで起きているかのように、鮮明にここにあるのに。
「――……」
どうしてだろう。彼女の顔だけが、そこにないままだった。
§
じっとりと嫌な汗をかいて目を覚ました。ひどく怠い体に、湿ったシャツが張り付いている。革張りのソファからゆっくりと体を起こすと、窓から見える景色は夕暮れの気配に満ちていた。夜勤明けにそのまま眠り込んでしまったらしい。体が異様に重たいのは、慣れない仕事の疲れだけが原因ではないように思えた。時計を見ると、午後六時を少し回ったところ。もう出かける時間が迫っていた。
さっとシャワーを浴び、寝室にかけてあるスーツに袖を通す。仕事柄日頃あまり活躍の機会のないそれを身にまとった姿は、まるで自分ではないかのように感じられた。浅黒い肌に張り付くような白いワイシャツ。その上から、肌よりずっと黒いダークスーツを羽織り、夜闇のように真っ黒なネクタイを締める。きつく締めすぎてえずきそうになるのを何とかこらえた。ひどい顔だ。両の目の下には、日々の不毛さを示すようにくっきりと隈が刻まれていた。
家を出るころにはすでに日は落ちきっていて、春の夜特有の匂いに満ちていた。若草の匂い立つような、そんな夜だ。あの日と同じ。
叶がいなくなってからちょうど一年が経とうとしていた。どうして彼女がいなくなってしまったのか、僕は知らない。今となっては知る由もない。早くに両親を亡くした彼女は、高校を出た後はアルバイトを掛け持ちながら一人暮らしをしていた。僕が大学を卒業したら一緒に暮らそう、なんて話をしていた矢先のことだった。彼女は何も残さずに消えてしまった。アルバイトは退職していた。住んでいた部屋も解約されていて、そこに残っていたのは、彼女の不在だけだった。
彼女がいなくなる前日、あの春の夜にも、僕はこうして一人川辺を歩いていた。特別何か理由があったわけではなく、本当に気まぐれから起こした行動だった。だからだろう。そこでばったりと出くわした叶は、なんだか妙に焦っているようにも見えた。今でも毎日、あの光景を夢に見る。あの日二人で歩いた淡い春の夕闇から、僕は一歩も進めずにいた。
あの日から毎晩、僕はこの河原を訪れるようになった。ここに来れば、また彼女に会えるような気がしたからだ。……いや、ここに来なければ、もう二度と彼女とは会えないような気がした、からかもしれない。足元に茂った雑草を踏みしめて歩く。目に映る景色はあの日と何も変わらないのに、彼女がそこにいないだけで何もかもが空虚に思えた。河川敷に備え付けられたベンチに腰を下ろすと、石造りの座面がひどく冷たかった。春らしからぬ底冷えする夜だ。ネクタイをぐっと締めなおす。
まさかあの何気ない会話が最後になるとは思っていなかった。彼女が手紙一つも残さずに消えてしまうだなんて、夢にも思わなかった。だからだろうか、夢に見る彼女との会話は、いつもあの最後の夜で。それなのに、どうしてか僕は彼女の最後の言葉を思い出せずにいた。
「白井さん」
俯いた僕の頭の上から声がする。顔を上げると、そこには制服にコートを羽織った少女がいつものように立っていた。
「また来てたんですね。その恰好、寒くないですか?」
「そうでもないよ。スーツってのは意外と暖かいからね。でも、確かに今日は冷えるね」
僕の返事を聞きながら、彼女――松葉は僕と人ひとり分の距離を空けて、ベンチの隣に腰かけた。
「そうですね。こんな寒い日くらい、家にいたらいいのに」
「そういうわけにはいかないよ」
へぇ、と興味なさげな返事をする松葉。彼女と出会ったのは二か月ほど前のことだった。自転車の鍵を落としたとかで河原を探し回っていた彼女を手伝ったのがきっかけだ。それ以来彼女は、毎日とは言わないもののかなりの頻度でここに来るようになった。
「結局、なんでいつもここにいるのか教えてもらってないですよね」
「人に話すような理由はないから。聞いても仕方ない話だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「そっか。それより聞いてくださいよ、パパがほんとにやばくって……」
松葉はいつもこの調子で、自分の話をすることが多かった。あまり踏み込んだ話をしたくない僕にとっては、その距離感がちょうどよかった。そうでなければ、もっと冷たくあしらっていただろうし、ここに来ないようきつく言い放っていたかもしれない。正直な話、彼女には少し救われていた。帰ってこないかもしれない人を待つというのは、自分で思っていたよりもずっと精神を参らせるらしい。ここにいる人間が一人ではないということは、少なからず心が軽くなっていた。
「ところで、お葬式の帰りですか?」
「え?」
「いや、今日はネクタイも黒いから」
「ああ、そうじゃないけど……。一周忌、かな」
「そうだったんですね。なんかごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げる松葉。揺れた茶髪に月明かりが落ちる。叶の黒髪とは似ても似つかぬそれは、ただただ叶の不在を色濃く思わせた。
いなくなる、ということが、何もかもなくなるということだったなら、どんなによかっただろう。かつてあったものがなくなるということは、欠けたままの状態がただただ続くということだ。そこには叶の代わりに「不在」が残り続けている。何も元通りにはならない。
あの日、彼女は最後に何を言っていたのか。逆光で隠れた彼女の表情が、どんなものだったのか。それを思い出さないと、彼女は帰ってきてはくれないのではないだろうか。……いや、本当は。
「白井さん?」
心配そうな顔をしてこちらを覗き込むようにして窺う松葉。大きな両目が僕の虚ろな顔を写していた。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。ごめん」
「……あの、私」
松葉が不意に立ち上がる。ベンチから離れると、川に背を向けてこちらを見た。満月にほど近い月光が、彼女の表情を隠す。
「私、ずっと言ってなかったことがあって。あの、白井さん、私……」
俯きがちに語る松葉。冷ややかな風が首元を撫でる。心臓を鷲掴みにされたように、胸のあたりが痛んだ。その先を、聞いてはいけない気がした。
「私、白井さんのことが――」
「松葉」
立ち上がり、遮るように名前を呼ぶ。
「松葉。……ありがとう」
僕の隣には、未だに叶の不在が残り続けていた。松葉が自分に好意を寄せていることは、薄々気づいていた。若さ故のものだろう。だからこそ、自分なんかにその気持ちを向けるべきではないと思ったし、気持ちを受け止められるほど、今の自分には余裕がなかった。
「……そうですよね。忘れてください」
表情を隠したまま、震えた声で松葉が言う。これでいい。不用意に気持ちに応えようとするより、よほど。
「ごめんなさい。私、帰りますね」
ベンチに置いたままだった荷物を拾い上げ、小走りで立ち去る彼女の後ろ姿を見送る。彼女の背中が見えなくなってから、小さくため息をこぼした。
冷えたベンチに腰掛けたまま、一人俯く。酷く惨めだった。月明かりが茂る若草に降り注ぎ、青く浮かび上がらせる。川の水が月光を砕き輝くのをぼうっと眺めていると、まるで世界にはこの夜しか存在しないかのように思えた。
松葉の姿を思い返す。彼女には、きっともっとふさわしい人がいる。少なくとも、僕よりはふさわしい人が。彼女の言葉を反芻していると、不意に視界が晴れたような気がした。
「ねえ、白井くん。――ごめんね」
そうだった。叶は、泣いていたんだ。何も言わずにいなくなってしまったと思っていた叶。彼女は、あの日僕に、しっかりと別れを告げていて、そして。
僕は立ち上がり、川岸へと歩みを寄せた。忘れていたのは、目を逸らしていたからだった。僕は怖かったのだ。エンドロールを迎えることが。だから席を立つこともできずに、ずっと忘れたふりをして、最後の場面を繰り返して、ここに立ち止まったままでいた。
川面にはほんの少し欠けた月が揺れている。手を伸ばしそっと掬い上げると、琥珀色のそれは指の隙間を抜けて零れ落ちていった。視界が滲む。僕はようやく、叶が二度と戻らないことを悟った。