7. 意図的な現実変更能力(Intentional Reality Alter)
七月中旬の空気は、夜といえども、暑かった。
現地についたとき、心海の全身は火照っていた。
ジャージの前は空けていたけれど、背中に汗がつたうのを感じていた。
ジャージの自分さえこうなのだから、よそ行きの恰好をしてきた真知ならなおさらだろう、と思っていたのに、真知は涼しい顔をしていた。
「真知は暑くないの?」
そうたずねると、真知は首を横に振った。
「いや、すごく暑いです。もうヘトヘト」
「その割には涼しい顔をしてるけど」
その額には汗すらにじんでいない。
「あんまり、汗とかはかかないタイプなんです」
あっそ、とは、さすがに口には出さなかった。
天は二物を与えず、というけれど、少なくとも真知に関していえば、天は何物あげても満足しなかったらしい。
宗助の案内でたどり着いたその場所は、ほぼ、ストリートビューで見たとおりだった。
両脇は立派なビルが建っている。
だがその土地だけむき出しの地面で、奥には鉄骨で出来た、二階建てのビル程度の高さがある、鉄骨の骨組みがある。
土地と道路の境には、立ち入り禁止、とビニールの垂れ幕がかかったバリケードが立っている。
だが単管パイプで出来たそのバリケードの中には、簡単に侵入が出来る。
宗助が先に立ち、その土地の奥へと進む。
建設中に放棄された建物の土台までたどり着くと、鉄骨の骨組みの下は、コンクリートで固められているのがわかる。
周囲を眺めながら、この鉄骨の強度はどの程度だろう、と心海は考える。
戦いの足場に使えるかもしれない。
あるいは、崩れることで、真知や宗助の身に危険が及ぶかもしれない。
後で確かめておかなければ。
やはり周囲に人気はない。
オフィス街ではあるが、左右のビルに電気もついていない。
警備員ぐらいはいるのだろうか。
それとも今どきは、機械警備まかせなのか。
意外だったのは、その場所が思ったよりも明るかったことだった。
宗助は今回も照明を持ってきたらしいけれど、どこまで効果があるのかはわからない。
それよりも、空に浮かぶ満月と、街の周囲から届くらしい人口の光で、十分に周囲は明るい。
すでに真知はゴソゴソと準備をはじめている。
現地では、真知の準備はお手軽にすむ。
基本的には、ボディバッグをつけるだけだ。
その中には、大量の棒付きキャンディが入っている。
普段なら合流したときに、すでにボディバッグが腰に装着されているが、なぜか、今回はリュックサックで持参していた。
ボディバッグ――キャンディさえ身につけてしまえば、後はマスクとサングラスをつけるだけ。
ボディバッグまでつけおえた真知は、屈伸などをはじめている。
彼女はたぶん、素の運動神経からしていいんだろうな、と考える。
IRAの恩恵を受けている自分とは違い、身体能力的には、真知は普通の人間とほぼ同じだ。
なのに身のこなしはいい。
IRAなしなら、たぶん、かけっこでも真知に負けるだろう。
人生は不公平だ。
そんなことを考えながら、心海は自分のショルダーバッグから猫耳カチューシャを取り出していた。
素の身体能力なら、真知にはかなわない。
だけどこれをつけたわたしなら、話は別だ。
IRA。
意図的な現実変更能力(Intentional Reality Alter)。
同じ力は二人として発動しない、不思議な力。
なぜそんな条件で、その力が現れるのか、そのメカニズムさえ明らかではない。
ただそうなる、というだけ。
血中にIRA因子を持つ者のすべてにその可能性はあるけれど、発動条件を見つけられる人間すらまれである。
大した条件もなく発動する人もいれば、生死を掛けた極限状態でしか発動しない人間もいるらしい。
なぜその違いが生まれるのかもわからない。
そして自分の力の発動条件は、大したものではない。
ただこんなものをつけるのは可能な限りゴメンだ、というだけで。
猫耳カチューシャをつける。
ただそれだけで、心海には、オリンピックの全競技を鼻歌交じりで制覇できるほどの、驚異的な運動能力が与えられる。
いつものように、カチューシャをつけ、ピンで髪に固定する。
その作業を、目ざとく見つけていた真知が、笑顔を浮かべて言ってくる。
「今日もよく似合ってますよ、ネコミミさん」
ネコミミ、というのは、この恰好をしたときだけの愛称だ。
名前は真知が勝手に決めた。
そんな真知自身の愛称は、ロリポップ。
はじめ、宗助が投稿していた動画のチャンネル名は、『或る少女の戦い』なんていう、ミもフタもないものだったらしい。
だけどこの、『ネコミミとロリポップ』と彼女が名付けてから、宗助も喜んでその愛称を使っている。
動画の撮影中にお互いを呼び合うのも、その名前だ。
大体いつも、心海が猫耳カチューシャをつけたあたりから、呼び名が切り替わる。
なかなか、心海は慣れないけれど。
だけど真知は喜んで、その名前を使っている。
敬称付きで、『ネコミミ』の愛称で自分を呼ぶ。
自分もやむなく、真知の名前をネットにさらけ出すのを避けるために、『ロリポップ』の愛称を用いている。
まあ例え口をすべらせたところで、宗助が編集で消すだけなのだけれど……。
固定した猫耳カチューシャがズレはしないか、何度か確かめてから、心海は真知に言った。
「真知、わたし、あの鉄骨を確かめてくる。足場に使えるか、それとも、崩れてきて危ないか」
「気をつけて、ネコミミさん。あと、もう私はロリポップです」
「わかってる」
そう言い捨てて、心海は夜の空に跳んだ。
七メートルほどの高さがある鉄骨の上までは、軽々と届いた。