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62. はじまり その⑤

 朦朧とした意識の中で、どうしてこうなったんだろうと、宗助は考えていた。

 見知らぬ若い男の目を見たとき。

 その瞬間に、宗助は、何かを感じた。

 まるで男の瞳の中の世界に連れ込まれるような。意識が吸い寄せられ、閉じ込められるような。


 そうして、曖昧な、夢の中にいるような感覚で、できるのは自らの行動をぼんやりと感じ取ることだけだった。

 男たちに囲まれながら、階段を下りて店の中に入り、妙な匂いの煙を嗅ぐ。

 知識はなかったが、体に悪いものだ、ということだけはわかった。

 たぶん良くないクスリの類だ。

 そうはわかっても、店から――男たちから、逃げ出そうとは思わない。

 体も意識も、自由には動かせない。


 店内に入り、宗助は男たちよりも一段高いところに昇った。

 体がそのように動いていた。

 そうして、周囲を囲む男たちの視線を受ける。


 頭痛がする。

 男たちの放つ視線に圧力を感じる。

 彼らは言葉を発さない。

 だが彼らから目をのぞきこまれるごとに、自分の中で声がする。


 ――彼だ。

 ――探していたのは、彼みたいな人。

 ――もっと、強く、その力を。

 ――いつまでも、閉じ込められていた。

 ――誰とも会えず、誰にも聞こえず、誰からも見つけられず。

 ――やっと、見つけた。


 声が頭に満ちる。

 ぼくは――いや、わたしは――なぜ。


 ぼくは今日はじめて機材を使って動画を撮影していたはずだけれど、わたしはただ幸せに暮らしたかっただけなの。

 それなのに。

 いいや、どうして、こんなところに。

 ダメだ、これじゃ。

 ぼくはぼくだ。

 だがわたしにもなれる。

 違う。

 このままじゃ、ぼくは。


 物音が聞こえたのはそのときだった。

 誰かが騒々しく、入り口の扉を開いて現れる。

 その人物は、周囲を囲む男たちの頭上を軽やかな動きで飛び越え、ステージにいた宗助の前方に降り立つ。


 店の薄暗い、ピンク色の照明に照らされたその人物は、奇妙な容貌をしていた。

 とてもオシャレとはいえない、大きなサングラス。

 そして頭の上には、黒い猫耳カチューシャ。


「だいじょうぶ、宗助?」


 自分の体を縛る不思議な力から解き放たれたのは、彼女が宗助のすぐ目の前に立ち、男たちの視線を遮ってくれた瞬間だった。

 どこか耳慣れた声を出す、この謎の人物は誰だ。

 その疑問に意識の焦点が絞られたとき、宗助はやっと、自分が自分に戻った気がした。


「姉ちゃん?」


「あんた、こんなところで何してるの」


 姉ちゃんこそ、と問い返す余裕はなかった。

 戸惑いの中で周囲に目を向けると、店内にいた男たちと再び視線が合いかけ、慌てて宗助は姉に目を戻す。


「……正直、自分でもよくわからないんだ。なんだか、わけがわからないうちに、こう……」


 意識が奪われて。

 宗助がその言葉を口に出す前に、心海がさえぎる。


「なに、それ。とりあえず、さっさと逃げるよ」


 話もロクに聞いてくれず、心海は背後、ステージの下へと目を向ける。

 こっちだって色々聞きたいことはあるんだけどな。

 そう思いつつ宗助も、決して男たちの目は見ないように、あたりの状況を把握する。


 いま、ステージは取り囲まれている。

 そこにいる男たちには、何やら奇妙な雰囲気が満ちていた。

 突然現れた心海に、彼らは一言も言葉を発さなかった。

 ただ、たたずんでこちらの様子をじっとうかがう彼らには、敵意のようなものを感じる。

 あるいは、怒りを。


「……でも、なに、こいつら。気味悪いな」


 彼らが普通じゃないのは、宗助にははじめからわかっていた。

 出会ったときから奇妙だったし、いま見せている反応も、同じ人間のそれとは思えない。


 そうして宗助は、つい先ほど、頭の中で鳴り響いていた声を思い出す。

 彼らにも、あの声は聞こえているのだろうか?


 だが、それを確かめる方法もないうちに、男たちのうちの一人が、不意にステージへと上がってくる。

 その動きは、やはり不自然だった。

 警告すら発さず、無防備に近づいてくるその動作は、どこか機械的だ。


 そのまま、つかみかかろうと手を伸ばしてくる男を、心海はひょいっと体を逸らして避ける。

 何の躊躇もなく行われる暴力。

 宗助はドキリとするが、心海には特に動じた様子もなかった。

 相手に鋭い目を向け、心海が言う。


「何するのよ、あんた」


 しかし、相手はじっとこちらを見返すだけだった。

 ただ、その体の全身から立ち昇る雰囲気は、このまま穏便にコトが収まることを否定している。

 ちらりと宗助を見て、心海がささやく。


「なに、コイツ。ヤバすぎ」


 心海のその感想と、宗助の考えは少し違った。

 ヤバいのはコイツだけじゃない。

 たぶん、本当にヤバいのは、自分たち以外の、ここにいる全員だ。


 ステージの上の男がモノも言わず拳を握り、そして心海に右手を大きく振るう。

 心海はこれも難なく避ける。

 宗助が違和感を覚えたのは、そのときが最初だった。


 やけに反応がいい。

 必死に避けた、というより、最小限でかわした。

 そんな余裕すら感じる。


 心海の運動神経はいい。

 もちろん、それはよく知っている。

 だけどその『良さ』の基準は、しょせんは高校二年生になったばかりの女子にしては、だ。

 その心海が、二度、三度と立て続けに振るわれる拳を、まるで熟練のボクサーのようにかわし続ける。

 そして四度目の拳をダッキングで避け、心海は男と体を入れかえる。

 男が宗助に背を向ける格好になり、こちらに顔を向けた心海が、軽く首をかしげながら男に言う。


「次にやったら、反撃するからね」


 だが、男は動きを止めなかった。

 体をひねり、右手を心海にまっすぐ突き出そうとしたそのとき、――心海の左の平手が相手の頬をとらえていた。

 力感はなく、タイミングをとらえただけの、いわゆるビンタ。

 だがそれを受けた男は、足を軽くよろめかせ、そのまま横倒しに床へと倒れる。

 そのまま、男は立ち上がらなかった。

 心海は自分の左手を少しのあいだ見つめ、それから顔をしかめてつぶやく。


「……こっちもヤバいな」

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