5. やるじゃん、ロリポップ
その日も、古堀真知の夕食は控えめだった。
母は健康志向で、あまり多くの夕食を作らない。
サラダと、鶏肉のソテーがメインで、炭水化物、つまりご飯は少な目。
たまに、高校での新しい友人が自分の生活ぶりをたずねてきたとき、その話をすると、実に微妙なリアクションが返ってくる。
社長令嬢は毎日松坂牛やら、キャビアやら、ウニやらイクラやらを食べていると思われているらしい。
実際は真逆だ。
そして真知自身は、長くその生活で暮らしてきているため、そういうものだと思っている。
朝は納豆と豆腐とつけもの。
たまに外食するとき、ランチメニューの中心に載っているのは、オーガニック野菜だ。
その日も、夕食の席に父親の姿はなかった。
父はいつも忙しい。
世間の人間が口癖のように言う『忙しい』ではなく、本当の意味で、常に忙しいらしい。
それが普通なのかどうか、真知にはわからなかった。
何しろ、社長として、経営者として働いている他の父親を知らない。
お金は結構あるんだから、家族との時間を大切にすればいいのに、なんて一般論として考えたところで、真知は父親の会社の経営状態を知らない。
ただ父親が子どもの頃の自分に言ったことはよく覚えている。
『父さんの会社はいつも借金をしていて、そのお金を使って大きな利益をあげている。だから、父さんが大失敗したら、今あるお金がなくなるどころか、急に貧乏になっちゃって、地獄へ真っ逆さまだ』
思い返してみても、幼い娘に聞かせる話か、と呆れるけれど、それはおそらく事実なのだろうと真知は思っていた。
ただ、もう十年も前の話で、今ではどうなのかはわからない。
今でもギリギリのところでやっているのかもしれないし、もうそんな状態は脱して、借金に依存しない経営体制に変わっているのかもしれない。
いずれにせよ、真知にはわからなかったし、たまに会う父にもそんなことは聞けなかった。
そして真知は、幼い娘に借金の話を聞かせる、そんな父のことが好きだった。
真知には兄弟も姉妹もいない。
食事を終えた後は、いつものように、母親と二人で海外ドラマを見た。
母親は映画やドラマが好きで、家事をやりながらでも、何かしらの映像を見ている。
夕食後、母親はいつも、軽めのお酒を飲みながら、気になるドラマを流しはじめる。
海外ドラマだから、結構きわどい描写もあったりする。
高校生のカップルが、日本ではありえないほどあっさりとくっつき、そしてカジュアルに夜を過ごした結果、妊娠が発覚したりする。
そんな展開を見終えた後で、母親は苦笑しながら真知に目を向け、こんなことを言う。
「別世界の出来事みたいね」
まあ、ドラマの中のことだから、実際そうなのだけれど。
だけどドラマには現実の一部も反映されているはずで、アメリカの高校生にはそんなこともあったりするのだろう。
軽く首をかしげてみせると、母親は軽く笑みを浮かべ、そうして真知にたずねてくる。
「もし真知が、ああなったら、どうする?」
答えは、すぐに出てきた。
「考えられない」
「彼氏は、まだいないんでしょう? 好きな男の子は?」
真知はゆっくりと首を横に振った。
それは、事実だ。
彼氏はいない。
好きだと思う男子もいない。
たまに好きだと言われることもあるけれど、そういう気になれない。
「我が娘ながら、あなたはものすごく可愛いと思うんだけど」
酔いはじめてきたとき、時折、母はそんなことを言う。
それに対する真知の答えは、いつもきまっていた。
「母さんに似て?」
「……まあ、そうね」
機嫌よさそうに笑ってから、母親は言葉を続けた。
「もし真知がさっきみたいなことになったら、すぐに母さんに相談してよね。私はあなたの味方をするから。どんな事情があってもね」
「わかった」
素直に真知はうなずき、それから、心の奥で考える。
もし本当にそうなったら、母さんはどうするのだろう。
昔から、母さんは、結構厳しい方だった。
お菓子だって制限されていたし、友達と遊ぶ時間だって約束を守らされたし、勉強もしっかり教え込まれた。
それに不満を覚えたことは、ないでもない。
だけど結局のところ、自分は物分かりのいい子どもだったし、母も理不尽に、思うがままに娘を押さえつけるモンスターというわけではなかった。
母の行いの多くには納得していた。
母の愛も感じていた。
もし自分が、高校生のうちに妊娠し、母に相談したのなら、母はきっと正面から受け止めてくれるだろう。
そして多くの選択肢を検討して、真知自身が一体どうしたいのかを、確かめようとしてくれるだろう。
そう、母さんはいつも自分を理解しようとしてくれる。
ただ一つのことを除いては。
ちょうどドラマが一区切り終えたところで、真知はリビングの時計へと目を向けた。
午後八時を回ったところだった。
集合時間まで、あと一時間か。
真知はソファーから立ち上がり、母親に向けて言った。
「じゃあ、少し早いけど、お休み」
「本当に早いわね。もう寝るの?」
「眠れればね。何か、最近、疲れがたまってる気がして……高校生活の疲れかな」
「そうなの?」
母親は小首をかしげて、それから真知に言った。
「母さんの印象は、少し違うけど。高校にあがってから、真知はなんだか、楽しそう」
さすがに、母さんは鋭い。
真知は笑顔を浮かべてみせる。
本当のことは言えっこないけど。
「そうかも。実際、楽しいから」
「高校生活、青春の日々が楽しいなんて、いいことよ。それじゃ、お休み」
うなずいて、真知はリビングを出る。
母は鋭いけれど、私のウソには気づかない。
今はまだ。
ウソなんか、つかなくてよければいいのに。
でもたぶん、本当のことを言うと、母は拒否反応を示すだろう。
昔からそうだった。
IRAだけは、ダメなのだ。
二階にある自分の部屋に向かって歩きながら、真知はふと、三船家のことを思う。
そしてふと、苦笑を漏らしてしまう。
三船心海。
そして宗助。
家庭内に二人も特殊な力、IRAを使える姉弟がいる。
しかも強い力だ。
国とか、公的機関に目をつけられてもおかしくないぐらいの。
それなのに、三船家の両親はその事実を受け入れているらしい。
それどころか、食卓を囲みながらみんなで動画を見て楽しんでいるらしい。
はっきりいって、異常だ。
でも、羨ましく感じる。
もし自分が、混ざれるのなら混ざりたいぐらいだ。
あの動画を誰よりも楽しんでいるのは、自分なのだから。
だけどさすがの三船姉弟も、両親にさえ真知――ロリポップの正体を伝えていない。
それは自分がお願いしたことだ。
できるだけ、誰にも正体がわからないようにしたい。
自分の家族には決して知られず、長く今のような活動を続けていたい。
部屋に戻った真知は、クローゼットの扉を開ける。
今日の衣装は、すでに用意をしていた。
たぶん心海は、いつものように、ダサい黒ジャージだ。
だから自分は白がいい。
そう考えて、今回は白いキュロットを履くことにした。
上は、前回の動画で好評だったのもあり、薄いベージュのノースリーブシャツにする。
男性ファンは、やっぱり、露出度高めが好きらしい。
一通り着替えてしまってから、クローゼットの床に置かれていた、二つの箱に手を伸ばす。
フタを空けて中を確かめると、つい、笑顔を浮かべてしまう。
あの邪魔でダサい感染防止用マスクとは、これでおサラバだ。
サングラスとも。
母は生活態度には厳しい代わり、金銭的には真知を締め付けはしない。
だから同年代に比べて結構お小遣いはもらっている方なのだけど、さすがにコレは高かった。
なんたって、オーダーメイドだ。
ただ、その箱の中のモノのせいで、普段よりも荷物がかさばる。
普段は使わない、白いリュックをクローゼットから取り出し、準備物を入れる。
箱から取り出したモノが二つ。
戦うときにつける、小さなランニング用のボディバッグ。
そして心海で言う猫耳カチューシャのような、自分の商売道具も中に入れる。
百円ショップで買った、プラスチックケース。
その中に入っているのは、包み紙をすでにとってある棒付きキャンディだ。
自分の名前の由来でもある、ロリポップ。
白い、短いストローのようなプラスチックの棒の先に、丸い、球形のキャンディがついている。
様々な種類の味があるそのキャンディは、真知の大好物でもある。
準備物をすべてリュックにしまうと、真知はベッドの上を整えた。
毛布の形を整え、掛布団の中に丸みを作り出す。
それから、カーテンを開け、電気を消す。
外は満月らしく、窓ガラスの向こうからは、淡い月光が差し込んでくる。
リュックを背負い、一つだけ取り出していた棒付きキャンディを口に含む。
クローゼットに隠してある、出番用の外靴を手に取る。
そうして真知は、窓ガラスをあける。
引き戸の下レール部分に足をかけ、外へと飛び出す。
真知の部屋のすぐ外の庭には、芝生が敷かれている。
バランスは、その日も崩さなかった。
地面が迫ってきたそのとき、IRAを使い、ふわりと体を浮かべる。
芝生に静かに着地したとき、口の中にキャンディはもうない。
その日もIRAは問題ない。
「やるじゃん、ロリポップ」
闇の中で、真知は微笑み、独り言をつぶやく。