21. じゃ、卵サンドで
男はその夕方も駅前に来ていた。
最近――といっても、もうずいぶんと長くなるその日課は、男にとってはさほど苦ではなかった。
男の今の自宅は、すぐそばの、駅前に建つ高層マンションだ。
面倒なのは多少なりとも身支度を整えなければならないことで、それだって、手早くやれば五分もかからない。
むしろ、それまでは外出しない日も多かった男にとっては、今の生活にある、朝と夕方に訪れるその機会は、どちらかといえば貴重なものだった。
日々にメリハリを与えてくれる。
外の空気を吸い、体を動かす。
実際のところ、悪くないと思う。
ただ、その時間に現れるスーツ姿の大人たちを見ると、どことなく、うんざりとはする。
彼らは朝早くから、人によっては夜遅くまで、いたくもない場所にいて、やりたくもないことをしているのだろう。
そう考えてから、いや、それは人によるか、と思い直す。
そして結局のところ、自分自身だってある意味では、そう変わらない生活をしているのだ。
ただ、男はあまり時間に縛られてはいなかった。
やるべきことをやるだけで、そしてまた、やってはいけないことをやらないだけだ。
当面のところ、やるべきことには、この朝夕の日課も含まれていた。
男はマンションのエントランスを出ると、徒歩で駅前に向かう。
駅は周辺地域に比べても発達しており、隣接したビルの中だけでも、衣料品や食料品、電子機器や各地の名産品まで買いそろえることができる。
ビルの一階にあるコーヒーショップは、すぐ手前の路地にカフェカウンターを設置している。
そのカウンターに男は足を運ぶ。
カウンターの前で、男がしばらくメニューを見ていると、やがて店員の女の子が気づき、微笑みかけてくる。
しばしばこのカウンターに立っている女の子で、常連の自分は、どうやら覚えられてしまったらしい。
「今日も迷ってますね」
男は苦笑を浮かべ、そして答える。
「今日のオススメ、何かな」
「わたしは卵サンドが好きですよ」
その言葉にうなずきを返しながら、この子は心底、卵サンドが好きなんだな、と考える。
よくオススメを聞いてくる自分に対し、気を使ってなのか、三回に一回は別のメニューを口にするけれど、三回に二回は卵サンドだ。
確かに、味はいい。
でも、すでに食べなれた、新鮮味のない味ともいえる。
たまには他のを選んでみようか。
そう考えて、店頭の黒板に書かれたメニューに目を通すが、やはり、迷ってしまう。
やがて、女の子がたずねてくる。
「どうします?」
「……じゃ、卵サンドで」
どうも俺は優柔不断なんだよな。
サンドイッチとコーヒーの入った紙袋を抱え、カウンターから離れながら男はそんなことを考える。
それから、駅から道路を渡った先にある、駅前公園へと向かう。
栄えている街の駅のわりに、駅前に作られたその公園は広く、そして緑が多かった。
公園の中心部には噴水が設けられており、その縁には腰を下ろして話をしている高校生の姿がすでにある。
ベンチも公園のあちこちに置かれており、座って休んでいる人も多い。
男もそのベンチの一つに腰を下ろす。
駅前の通りがよく見える位置だ。
そしてそこで、サンドイッチを食べはじめる。
公園の隅に立つ時計に目をやると、時刻は午後四時を回っていた。
そろそろか、と考えながらも男は口をモゴモゴと動かす。
また卵サンドだ、と口に入れるまではなんだか残念な気持ちを思ってはいても、食べはじめるとそれなりに満足してしまう。
結局のところ、あの子のオススメに屈してしまうのだ。
男が目を向ける通りに、人の姿は多かった。
スーツ姿のサラリーマンの数は、朝ほどには多くない。
その一方で、夕方には買い物帰りの主婦が増える。
子どもの手を引いて歩く母親の姿なんかを目にすると、どことなく心にうずくものがある。
本人たちも気づいていないだろうけれど、ああいうのがたぶん、幸せってやつなんだな。
そんなことを考えたりもする。
そんな風に考えを巡らせていると、通りの奥から、この半年近く、休日や長期休暇を除けばほぼ毎日、一方的に顔を合わせている存在が現れる。
今日もいつもと変わらない一日、というわけか。
その姿を見ると、男はどこかホッとするような、それでいてもどかしい気持ちにもなる。
今日も彼女は誰かと一緒だ。
またあの友達と一緒に連れ立っているのだろう、と考え、それから男は勘違いに気づく。
違う。
目を凝らす。
そして、珍しい、と思う。
その日の要観察対象――三船心海は、もう一人の観察対象である古堀真知と一緒だった。
だが、その雰囲気はどことなくおかしい。
通常、クラスメイトである大塚由紀子と話しているとき、心海はしばしばにこやかに笑っている。
自ら言葉を発する方ではないけれど、相手の話には同じだけ、自分も言葉を返す。
そんなタイプらしい。
そして古堀真知は、外から観察している限りは、その逆だった。
毎日一緒に帰る友達はおらず、複数のクラスメイトと一緒だったり、たった一人で帰っていたりする。
彼女はマイペースなんだろうな、と男は考えていた。
輪の中心にいることが多いし、そして色んな相手に自ら話しかけている。
そしてそのときの雰囲気は、夜に見せる、笑顔を浮かべて敵を撃ちまくる姿とは重ならない。
そんな二人が、ロクに会話もせず、こちらに向かって歩いてくるのを、男は見守っていた。
駅の改札までたどり着くと、やがて三船心海は先に背を向けて改札を通り、古堀真知はじっとその背中を見送っていた。
それから真知は、何か用事でもあるのか、駅ビルの方へと向かって歩き出した。
そのときちょうど、男はサンドイッチを食べ終えたところだった。
紙袋の中にサンドイッチの包み紙を入れ、そしてコーヒーカップを取り出す。
ベンチから立ち上がり、紙袋を公園のゴミ箱へと入れる。
コーヒーを喉に流し込みながら、さっきのはなんだったんだろうな、と考える。
二人が一緒に帰っている姿を見るのははじめてだった。
最近、敵が現れていないことから、二人に何か変化が起こっているのかもしれない。
それはわからない。
一瞬、古堀真知の後をつけてみようか、という考えも思い浮かんだ。
だがその必要はないだろうと、すぐに考えを変える。
たぶん何かしらの買い物があるだけなのだろう。
あるいはやはり、正面から堂々と、彼女たちと接触すべきなのだろうか。
男は迷っていた。
実際のところ、わからない、とも思う。
あの二人がもし、このまま何もない日常に戻っていくのだとすれば、それはそれで、喜ばしいことではあった。
幼い息子の手をひく母親の姿、そんな当たり前の日常を手に入れることができるのかもしれないのだから。
だけど、果たして、そうなれるものかな。
男はそう考え、それから、ゆっくりと首を横に振る。
あの二人――いや、あの三人をどうすべきかは今のところ、自分だけで考えるしかない。
その責任は、あるいは、ひょっとすると、重大なものになるかもしれない。
そうはわかってはいるけれど、今のところ、男は決めかねていた。
「やっぱり、俺は、優柔不断なんだよな」
その男――押切智司は、誰にも聞こえない声でそうつぶやいた。




