15. ネコミミさん、ちょっといいですか
うっとうしいな、ちょこまかと。
闇の中で視線をあちこちへと動かしながら、三船心海は、普段よりもいらだっている自分に気づいていた。
その理由は明白だ。
夜だけれど、とにかく暑い。
ニュースでは、今年一番の熱帯夜だ、と報じていた。
そして今日は月がなく、外は暗い。
今は登山道から少し外れた、森の中にいる。
それなりに手入れはされているらしく、暑い盛りではあるが、藪が伸び放題で足も踏み入れられない、というわけではなかった。
ただもちろん、まともな照明は付近にはない。
そして木々は周囲に密になって生えており、心海の視野をさえぎり、敵の隠れ蓑になっている。
何よりもイラつくのが、今が夏休みの最中だ、ということだった。
八月中旬。
怠惰な日々がはじまってしばらく経つけれど、まだまだ休みは残っている。
本来ならばこんなクソ暑い夜には、家から一歩たりとも出ず、居間のエアコンの風を浴びながら、野球中継でも楽しんでいてしかるべきだ。
なのに、どうして。
なぜ、わたしは猫耳カチューシャと、ベネチアンマスクと呼ばれる仮面をつけて、こんな夜の森の中で額に汗しているのだろう。
「ネコミミさん、ちょっといいですか」
頭上からそう声が届き、心海は見上げることもなく言葉を返す。
「なに?」
「私、このまま待機で大丈夫です? 何かしら、手伝いますか」
そうたずねてきた相棒――古堀真知ことロリポップ――の提案をほんの少しだけ検討し、それから心海は首を横に振る。
「いい。たぶん、チャンスはそれほど多くないから。ロリポップは、敵がスキを見せたら、一撃で決めることだけを考えて」
その言葉に返事はない。
反論もない。
了解、という意味だろう。
心海はそう考える。
そして再び、前方の樹々の隙間から、ヘリコプターにも似た、素早いパタパタという音が鳴る。
次こそは、と心海は身構え、タイミングをはかって右手を伸ばす。
だが、樹々を割って現れた敵は、心海のすぐ目の前で急速に反転する。
かと思えば、左側面に展開し、そこから再び接近してきて、心海の左脇腹を巨大な羽で撃つ。
なかなかの衝撃。
吹き飛ばされ、右の肩を樹の幹にぶつけた心海は、それでもすぐに敵の姿を補足しようと、飛ばされた方向へ目を向ける。
だがそこに敵はもういない。
心海は握った拳の側面でその樹を叩く。
ドン、と鈍い音が響き、ユサユサと樹木が揺れる。
『あー、クソっ、なにがしたいんだ!』
心の中だけで、心海はそう叫ぶ。
敵からの攻撃に、大したダメージはなかった。
今のも、それなりにまともに食らった方だけれど、負傷にまでは至らない。
ただ、弾き飛ばされたというだけ。
だから、まともに戦えば、すぐに勝負はつくのに。
だけどその、まともに戦う、ということを今回の敵はしてこない。
空を飛べるのだから、せいぜい高くジャンプできる程度の心海と、ゆっくりと宙を漂えるぐらいの真知からは、簡単に逃げられるはずだった。
しかしそれもしない。
敵はあくまで心海たちに襲いかかってくる。
羽音もしないから、その接近は、巨大な羽が周囲の樹の葉に当たった音でしか察知できない。
そして羽での打撃か、体当たりでの素早いヒットアンドアウェイで、少しずつ、本当に少しずつ、こちらにダメージを与えてくる。
それにしても、牙はないんだろうか、と心海は考える。
これまで現れた敵はいずれも動物の姿をしていたけれど、すべてが元になった生物を忠実に再現しているわけではない。
例えばどの動物も、色は真っ黒だし、目に当たる部分はない。
一方で、ライオンのたてがみとか、カエルの伸びる舌なんて、細かい特徴を有していることはある。
今回の敵はコウモリだった。
最初に現れたとき、宗助の設置していた照明で、その姿を一瞬だけ見ることができた。
大きさは二メートル近くあったけれど、はっきりとはわからない。
闇がその姿を形作ったとたんに、音もなく空へと飛び去り、姿を隠したからだ。
コウモリと言えば吸血だ。
噛みつかれないように、心海は最大限注意をしていた。
だがそれはチャンスのようにも思えていた。
噛みつこうとする瞬間は、向こうもこちらへ限りなく接近しているだろう。
そのとき組み伏せて、羽をどうにかしてしまえば、敵はもう二度と飛ぶことは出来ない……。
そうぼんやりとした作戦を立ててから、最初に心海が行ったのは、真知を樹上に隠すことだった。
真知に接近戦は不向きだ。
そして狙いのつけづらい、素早い相手も相性が悪い。
彼女に言い含めた役割は二つ。
もしその隠れ家が見つかって、自分自身が襲われたら、IRAを存分に使って身を守ること。
心海には何でもない打撃でも、肉体的にはただの人間と変わらない真知には、脅威となる可能性が高い。
そしてもう一つ。
常に戦いの行方に注意して、狙えるチャンスがあるのなら、一撃で敵を撃ち抜くこと。
まるでスナイパーのように。
そう決めて戦いを続けていたのだけれど、今のところ、その作戦がハマっているとは言えない。
敵は持久戦を狙っているのか、ただ心海の体力をじわじわと削りつづけるばかりだ。
そしてある意味、心海は大きなダメージを受けているともいえた。
そう、暑さとこの膠着状態からくる、精神面でのこのストレス――もう限界。
はあ、と大きくため息をついて、たまったストレスを少しでも発散しようとしたとき、背後から不意に声がする。
「姉ちゃん」
振り返ると、そこに立っているのは弟の三船宗助だ。
敵の出現を予知し、いつも現場には案内役としてついてくるものの、基本的には何の戦闘力もない、足手まといの弟。
敵と戦えない宗助は、戦闘中はのんきに、撮影なんかしている。
のみならず、その動画を編集して、動画サイトにあげたりもする。
「なんであんた、出てきてるの。危ないじゃない」
闇があまりにも深いせいで、宗助の姿はよく見えなかった。
どんな表情をしているのかもわからない。
ただ、今はカメラを構えていないようだった。
そして心海への返事が含んでいた声色は、いつも通り、のんきなものだった。
「だいじょうぶだよ。さっきから見ていると、攻撃の後はしばらく、様子をうかがう時間があるから。……それより、姉ちゃん」
どこか神妙な声で続けた宗助の言葉に、心海は耳を傾けた。
これでも宗助は、これまでの心海のすべての戦いを見続けている。
それだけじゃなく、編集をするために、何度も繰り返し動画を再生しているはずだ。
となると、今のこの戦闘にも、何かしら有用なアドバイスが出来るのかもしれない。
そう期待していた心海に、宗助は短く言った。
「暗いよ」
「は?」
「画面が暗すぎる。戦いがまともに映らない。照明、こっちに持ってこられないかな」




