1. カワイイですよ、ネコミミさん
世界中の若者に、同時多発的に不可思議な力が生まれはじめたのは、二千年代初頭のことだった。
それまでの科学では説明不可能なその事象を、人類はIRAと呼んだ。
個人に依存して発動し、同じものが二つと見られないその不思議な力は、世界をさほど変えなかった。
少なくとも、人類の大多数はそう思っていた。
※※※
そこは暗くて青臭く、そして六月上旬の夜にしては暑かった。
丸い月だけは空に浮かんでいて、街灯のないその階段を、かろうじて踏み外さないぐらいには照らしてくれていた。
肩に下げたスポーツ用ショルダーバッグからスマートフォンを取り出す。
時刻は午後八時四十分になろうとしている。
スマートフォンをしまってから、自分の少し前を歩く弟の背中に、三船心海は言った。
「ねえ、宗助。間に合うの? もうすぐ九時になるけど」
「だいじょうぶだよ。この階段を登り終えたらすぐ、参道に続いているはずだから。やつは、そこに現れる」
振り返りもせずそう答えた弟、三船宗助の背中を見つめ、心海は考える。
いつもそうだけど、やけに確信を持った言い方だ。
しかしなぜ、この宗助にこんなことがわかるのだろう?
不思議だ。
いや、仕組みはわかっている。
わからないということがわかっている。
IRAってそんなものだ。
使っている側にもよくわからない、誰とも似ず、決して分かり合えない、不思議な力。
かつてはそう呼ばれていたらしい、『超能力』とでも名付ければいいのに、現実にそんな力が確認され出したら、決してその言葉は用いられなかった。
たぶん、それっぽい名前をつけなければ、大人たちがまともな精神状態では口に出せなかったからだ。
そう考えてはいても、心海にとっては宗助のその確信が少し不気味だった。
そこは市の中心部から電車で三十分ほどかかる郊外の町だった。
はじめて訪れたはずのその道を、宗助は迷いなく進んだ。
もちろん、下準備をしていることは知っている。
だけど、自分たちと同様、その場にはじめてきたはずの宗助が、見知らぬ町で迷いなく歩を進めるのはやっぱり異様だった。
そして名前すら知らない神社の鳥居をくぐり、参道へつながる石段をいま、わたしたちは登っている。
「大丈夫ですよ、心海さん」
宗助から一歩遅れ、心海の隣を並んで歩く少女、古堀真知はそう言った。
「あと二十分もあります――私たちの活躍の時間まで」
どことなく弾んだ声で答える真知に、心海は肩をすくめてみせた。
「真知ってさ、ホント、のんきだよね。……アレから負けたらどうなるのとか、考えたりしないの? そんな、素足なんか出した格好でさ、ケガするよ」
心海はいつも通り、上下とも黒のジャージを着ていた。
少し暑いけれど、動きやすい服装ではある。
前回までは真知も似たような服装だった。
だけど真知はその日、カジュアルなおしゃれ着に近い恰好をしていた。
白のホットパンツに、青いノースリーブシャツ。
腰には白い、ランニング用のボディバッグ。
足元だけは、サンダルとかではなく、さすがにスニーカーだ。
その指摘に真知は、笑顔を浮かべて答えた。
「ジャージの上下みたいな、ダサい恰好で動画に撮られる方が、私にとっては大ケガだと気づいたんです。本当のことを言うと私、マスクとサングラスもしたくないんですよね」
真知は年下のくせに、たまにそういう風に、いきなり毒を吐いてくる。
そういう真知が、心海はそんなに嫌いじゃなかった。
これは彼女なりの、自分への間の詰め方であるような気がする。
ただ、マスクとサングラスの問題は、笑って聞き流せる話題ではなかった。
「だけど、素顔はさらさないのが大事って、あんたも言ってたじゃん。ネットリテラシーだ、って」
「いや、そうですよ。だけどこの、初夏なのにつけなきゃいけない、暑苦しいマスク。そしていくら顔を隠すためとはいえ、夜なのにサングラスをしている異常性。もっといい方法がないかな、と思ってまして。特にマスクは、私が力を使うのに、ひどく邪魔なんです」
確かに邪魔かもしれないけれど、背に腹は代えられないしな、と思って心海が見ていると、真知は口とは裏腹に、腰のボディバッグからマスクを取り出した。
白い、感染防止用に使う、普通のマスク。
わたしもそろそろ準備をしなければな、と考え心海もマスクをつける。
準備には真知よりも心海の方が、時間がかかる。
ショルダーバッグから、何よりも大事なアイテムを取り出す。
プラスチック製の黒いカチューシャ。
丸みを帯びたその上部には、二つの黒い耳。
猫耳カチューシャだ。
そのアイテムを見る度、心海は複雑な気持ちになる。
十七歳、高校二年生。
こんなカワイイアイテムを、喜んで身につける自分よりも年上の女性はいるだろうけれど、少なくともわたしはそんなタイプじゃない。
だけどこのカチューシャが、自分に力を与えてくれるのも確かなことだ。
ため息をつき、心海は頭をカチューシャに収める。
それから、ずれて外れないように、バッグから黒いピンを取り出し、カチューシャの端を髪の毛に固定する。
もう何度も行っていることでもあり、石段を登りながらでも、スムーズに作業を終えることができた。
カチューシャをつけ終えると、真知がにやにや笑いながらこちらを見ていた。
「カワイイですよ、ネコミミさん。よく似合ってる」
「うるさいよ、真知」
「もう、呼び間違えないでください。今の私はロリポップ。リアルでサイバーなヒーロー・ネコミミの、火力を補う、気の利く相棒。呼び名には気をつけてくださいね、ネコミミさん」
主に宗助と真知によって作り出されている、この『ごっこ遊び』のノリに、わたしはいつまで付き合えばいいんだろう。
心海はそう考え、ため息をつく。
「わかったよ、ロリポップ」
ただ、そう呼んでやると真知は嬉しそうな顔をする。
真知の額には、すぐに素顔を隠せるように、サングラスが乗っている。
自分も同じようにサングラスを額に乗せたそのとき、ちょうど、石段を登り終えた。
宗助は階段を登り切った場所に立ち止まっている。
その背中を追い抜きがてら、心海はたずねた。
「宗助、いま、何時?」
「午後九時、十分前」
「現れる場所はどこ?」
「ここからまっすぐ。正面の参道にある、鳥居の前」
周囲は暗い。
宗助が懐中電灯を向けるその百メートルほど先には、石造りらしい灰色の色をした、鳥居の姿があった。
そしてその前の空間が、微妙に歪みはじめていた。
その一部だけが、陽炎のように揺らいでいる。
どうやら今回も、宗助の『予知』は当たったらしい。
心海は屈伸をはじめた。
予定していた場所に敵は現れるはずだ。
だけど現れるまではすることがない。
自分のIRAの力は、いつも通り感じていた。
だからたぶん、問題はないはずだ。
「宗助くん。ここ、暗いけど、撮影はだいじょうぶなの?」
背後でしゃべっているらしい、この年下コンビの、のんきさが気になるだけで。
「一応、照明は持ってきたんだ」
ゴソゴソと音がして、宗助が背中に背負っていたリュックから、いくつも機材があらわれる。
横目でそれを見ながら心海が呆れているうちに、あっという間に照明に三脚がついていた。
参道を照らすように設置された照明は、それまでの暗さもあってか、かなりまぶしく感じられた。
「ね、古堀さん、手を振ってみて」
「こう?」
「やっぱ、ちょっと弱いかも。できるだけ、この照明の近くで戦って欲しいな。その方がよく映るはず」
「わかった」
何がわかっただ、いつもそんなに余裕はないのに、と心海が心の中で悪態をついていたとき、歪んでいた空間に中心が生まれた。
照明で照らされているはずなのに、何もない空間に暗い球形が生まれる。
はっきりとした縁取りのないその闇は、風船のようにゆっくり、それでも確かに膨らみはじめた。
心海は息をひそめ、そしてゆっくりと、額のサングラスを下ろす。
隣では真知も同じようにしていた。
膨らむ闇は、やがて心海の背丈を越える。
向こうに見える石造りの鳥居の大きさに届こうとしたあたりで、その成長を止めた。
そして黒い球形の輪郭が、空中に滲みだすように溶けて消えると、いつの間にかそこには、黒い姿をした、巨大な動物の姿があった。
「ゾウ?」
誰に言うでもなくたずねた心海の言葉に、真知が応じた。
「ゾウですね」
一瞬、心海は真知と見つめ合った。
いつものことながら、作戦を打ち合わせしている時間はない。
戦いの中で決めていくしかない。
唐突に、ラッパにも似た、巨大な闇のゾウの鳴き声が響いた。
そしてゾウが走り寄ってくる。
「とりあえず、」
宗助は、と言いかけて、すでにカメラが回りはじめていることに気づく。
仕方がなく、心海は宗助を指さして、言った。
「こっちには、近づかないこと」
手にアクションカメラを構えながらうなずく宗助。
その手前に、真知が割り込んでくる。
同じようにカメラを指さし、彼女が言う。
「じゃあ私もカメラ目線で。今回もいっちょ、やってやりますよ」
心海が振り返るともう、闇のゾウとの距離は三十メートルほどにまで縮んでいる。
ゾウは走りながら鼻を振り上げている。
あとはこちらに振り下ろすばかりだろう。
真知に接近させるわけにはいかない。
彼女は、肉弾戦には不向きだ。
わたしが先に距離を詰めるしかない。
前方に向けて走り出しながら、あの鼻、受け止められるかな、と心海は考えていた。
実際、その鼻が目前で振り下ろされたとき、やっぱやめておこう、と考えを変えた。
参道に敷き詰められた石畳を踏みしめ、空中へ飛び上がる。
高さ三メートルほどのゾウの体を心海は悠々飛び越える。
着地して、振り返る。
ゾウはこちらに向き直るところだった。
今日もIRAに問題はない。
心海は拳を握りしめ、さあ、どう戦うべきかと考えはじめていた。
※※※
心海と真知、二人の戦う神社の参道は、宗助の使う照明で照らされていた。
参道の奥、鳥居をくぐったその先には、本殿へと続くさらなる石段が伸びている。
その石段には、いま、闇の中で一人の男が立ち、照明の光の中で続く二人の戦いを見つめていた。
振り下ろされたゾウの二撃目を心海がしなやかな動きでかわしたとき、彼は言った。
「相変わらず、やるじゃないか」