聞いて欲しいんだ
シェイラは自室で、大きな木箱と向き合っていた。物置に仕舞われていたものの、埃は少しも被っていない。頻繁に中が開かれるからだ。
「それは何ですか?」
シェイラが身体を大きく震わせる。アルヴィンだ。彼の存在に今の今まで気づいていなかった。きっとシェイラの父親が入室を許可したのだろう。
「これは……サイラス様から戴いたお手紙なんです」
答えながら、シェイラは穏やかに微笑む。アルヴィンはシェイラの側まで歩み寄ると、そっと箱の中を覗き込んだ。中には優に五十を超えるであろう数の手紙が大事に仕舞われている。けれど、一つとして封が開けられた様子はない。
「シェイラ様は、サイラス様の妃候補でいらっしゃったのですよね?」
「父から聞いたのですか? ……もう、随分昔の話ですわ」
シェイラはサイラスからの手紙を一つ手に取り、指で彼の文字をなぞった。彼女が城に行かなくなって、一番初めにサイラスから貰った手紙だ。幼い手蹟が愛らしく、愛おしい。
「お読みにならないのですか?」
「……ずっと、読めずにおりました」
シェイラは答える。過去、幼い彼女はサイラスの言葉に傷ついた。手紙は言葉の羅列だ。もしも、今以上に辛い思いをしたら――――そう思うと、ずっと彼の手紙を開封できずにいたのだ。
『ダメなはずがない。一体、どうしてそんな風に思うんだ?』
けれど、サイラスは先日、シェイラの言葉に戸惑っているように見えた。きちんとシェイラの話を聞こうと、そう努めてくれたというのに。
(わたくしは、サイラス様の話をちっとも聞いていない)
もしも全てが誤解だったとしたら――――。
「読めないならいっそ、燃やしてしまいましょう」
「え……?」
そう言ってアルヴィンは木箱を抱え、ニコリと微笑む。シェイラの心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「そうすれば、あなたを縛る鎖は何も無くなります。この手紙を書かれた時の殿下の気持ちも、言葉も、全て消え失せます。誰にも窺い知ることはできません。口を衝いて出た言葉のように、誰かの心に残ることすら有りません。サイラス殿下の気持ちに応える気がないなら、燃やしてください」
アルヴィンはそう言って、片手に炎を携えた。
「待って!」
シェイラは思わず叫んでいた。アルヴィンから木箱を奪い返し、彼から覆い隠すようにして蹲る。
「わたくしは……わたくしは本当に、ダメな人間なんです」
口にしながら涙がポロポロと頬を伝う。呪いのような効果を持つ言葉だ。けれど、その言葉に縛られて、ずっとずっと動かずにいたのはシェイラ自身だ。それを撥ね除けるだけの強さを持とうと出来なかった。だから、自分はダメな人間だとシェイラは心の底からそう思う。
「だけど、どんなにダメでも――――それでも、この手紙は捨てられません。どうしても……」
その時、階下が俄かに騒がしくなる。窓の外から馬の嘶きが聞こえ、シェイラはアルヴィンを見上げた。アルヴィンはその場から微動だにすることなく、シェイラの部屋のドアを見つめている。ややして家人の戸惑うような声音と共に、足音が聞こえてきた。足音はどんどんシェイラの部屋に向かって近づいてくる。
「シェイラ!」
弾かれたようにドアが開かれ、そこにはサイラスが立っていた。シェイラは床に蹲ったまま、サイラスのことを見上げる。涙が幾筋も頬を伝った。
「聞いて欲しいんだ」
サイラスが切羽詰まったようにそう口にする。
「再会してからずっと、俺はシェイラに尋ねてばかりだった。でも、今は……今だけは、俺の話を聞いて欲しい! これが、最後だから」
最後、という言葉にシェイラは肩を震わせる。サイラスはそのまま、シェイラの側に跪くと、木箱ごと彼女を抱き締めた。
「俺はシェイラが好きだ」
シェイラが大きく目を見開く。
「シェイラが好きだ。ずっとずっと、シェイラのことが好きだった!」
サイラスはシェイラの身体が軋むほどに、強く強く抱き締める。涙がサイラスの肩を濡らした。
「昔、俺がした話を覚えてる?『王様は、誰よりも幸せで、笑ってないといけないんだ』って」
サイラスの言葉に、シェイラはひっそりと息を呑む。
「覚えて、います」
あの日にシェイラは、サイラスの妃になりたいと思った。忘れられるわけがない。
「あの夢は、シェイラと一緒じゃないと叶わないんだ」
サイラスはそう言ってシェイラを見つめた。太陽みたいな色をした瞳がユラユラと揺れ動く。彼の内奥に秘められた熱がシェイラの胸を焼いた。
「俺を幸せにできるのはシェイラだけだ。だから、俺の妃はシェイラじゃなきゃダメなんだ」
今にも泣き出しそうな表情でサイラスが笑う。その瞬間、サイラスの声音が、幼い日の彼の声音と重なって聞こえた。
『――――では、殿下は決心なさったのですね』
『あぁ、決めた』
『本当に、シェイラ様で宜しいのですか?』
『違う。シェイラで良い、じゃない』
『シェイラじゃなきゃ、ダメだ』
幼いサイラスがそう言って笑う。あの日、絶望の涙を流した幼いシェイラが、満面の笑みを浮かべた。
心の奥底に鎮座していた大きな氷が、一気に溶け出していく。シェイラはサイラスに抱き縋りながら嗚咽を漏らした。
「わたくし、ずっと……ずっと勘違いを――――――ごめんなさい、サイラス様。わたくしは……」
「ダメじゃない。俺は絶対、シェイラが良い。シェイラじゃなきゃダメだ! どうか、側に居てほしい」
二人分の啜り泣きが、部屋の中に木霊する。アルヴィンが静かに笑った。