妃候補者
初登校の翌日のこと。シェイラはクラスメイト達から逃れるようにして、校舎の裏庭に来ていた。あれは将来の社交の練習の場になると知っているものの、今のシェイラにとっては気疲れの場でしかない。春らしく咲き乱れた花々を眺めながら、シェイラはホッと胸を撫で下ろした。
「あなた、ちっとも変わっていらっしゃらないのね」
「――――はい?」
背後から聞こえたそんなセリフに、シェイラはゆっくりと振り返る。先程からこの場所に自分以外の人間はいない。ならば、声を掛けられたのは己だと、そう判断したのだ。
振り返ると、蜂蜜のような甘ったるい色をしたふわふわした髪の毛に、碧い大きな瞳をした美しい令嬢が立っていた。覚えのある顔だ。
「ミンディ様」
「あら、覚えて下さっていたのね。光栄ですわ」
そう言ってミンディの唇がゆっくりと弧を描く。
ミンディはシェイラと共に、サイラスの妃教育に呼ばれていた令嬢の一人だ。当時の宰相の孫娘で、侯爵令嬢。その家柄もさることながら、愛らしい顔立ちや利発さ、物怖じしない性格から、妃候補の筆頭とされていた。
「もちろん、覚えていますわ」
「そう? あなたはわたくしのことなんて、眼中にないと思っていましたのよ」
シェイラの返答を受け、ミンディは口元をそっと扇で隠す。彼女が何を思ってそんなことを言っているのか、シェイラにはしかと判じられない。首を傾げていると、ミンディは小さく嘆息した。
「相変わらず社交はお好きじゃないの?」
「いえ。ただ、今はあまり気乗りしないので……」
「ダメよ、そんなことじゃ。王太子妃ともなれば、そんな甘えたことを言ってられませんわよ」
ミンディはまるで妃教育の講師の如く、ピシャリとそう言い放つ。けれどシェイラは目を丸くすると、小さく首を横に振った。
「わたくしが王太子妃になることはあり得ませんもの」
「――――あり得ない?」
ミンディがピクリと眉間に皺を寄せる。
立ち話も何だからと、二人して側にあったテラス席へと腰掛けた。ミンディはその間唇を尖らせ、何度も何度も、シェイラのことを不服気に見遣る。
「……あの、ミンディ様。ミンディ様はわたくしが妃教育を辞した理由を、なんと聞いていらっしゃいますか?」
シェイラは思わずそう尋ねた。城に行かなくなった後のことは父に任せていたので、今日に至るまで何も知らない。ミンディを含めた他の候補者達がシェイラがいなくなったことをどのように捉えたのか、知りたくなったのだ。
「どうもこうもございません。ただ、シェイラ様はもう、ここには来ないと、唐突にそう言い渡されましたの。それからすぐに、わたくしたちも城に呼ばれなくなりましたし。ですから、わたくしはてっきり――――」
ミンディはそう口にしたっきり、押し黙った。シェイラは何も言わぬまま、静かに心を休めている。耳をすませば鳥の囀る声や、風が草木を揺らす音が聞こえてきた。
(王太子妃だなんて、わたくしにとっては手の届かない、遠い雲の上のお話なのに)
他でもないサイラスから失格の烙印を押されているシェイラとしては、耳にすら入れたくない話題である。相手が将来、サイラスの妃となるであろうミンディなのだから、尚更。
「――――あぁ、こんな所に居たんだね」
けれど、嫌なことは続くものだ。
「サイラス様」
そう口にしたのはミンディだった。甘く声を弾ませ、少し離れた所にいるサイラスへと駆け寄る。サイラスはミンディに軽く微笑みかけると、真っ直ぐにシェイラの元へと歩いてきた。
「探していたんだ。昨日は碌に話が出来なかったから」
「――――――失礼を働き、申し訳ございません」
「失礼を働かれたとは思っていないよ。だけど、俺は是が非でもシェイラと話がしたい。俺のために時間を作ってくれ」
サイラスはそう言ってシェイラの手を握る。断るなんて選択肢のない、半強制的な物言い。シェイラの心臓が密かに騒ぎ始める。
ミンディはそんな二人の様子を黙って見つめていた。煮え切らないシェイラを咎めるでも、けれど後押しするでもない。ただ、彼女がなんと答えるのか、それを見守ろうとしている。
「わたくし一人でなければなりませんか?」
チラリとミンディを振り返りながらそう尋ねる。サイラスは考える間もなく、そのままコクリと頷く。
「あぁ、二人きりで話をしよう」
あの頃みたいに、と付け加え、サイラスはシェイラを見つめる。
(そんな顔、なさらないでほしい)
ダメだと分かっているのに、ついつい勘違いをしそうになる。サイラスがシェイラを求めていると、そんな風に思ってしまう。
あんなにも苦しいと思っていたのに、いつだって胸の中にはサイラスがいた。それがどうしてなのか、シェイラには痛いほど分かっている。本来ならば、あんな些細な言葉で傷つく必要なんてなかった。子どもの、それもあの年頃の男の子の言葉が、勢いや思い付きによるものなど、半ば当たり前のことだ。それなのに、あんなにも胸を深く抉られたのは――――シェイラがサイラスに想いを寄せていたからに他ならない。
「放課後、教室に迎えに行く」
サイラスはそう言って踵を返した。遠くの方で予鈴が鳴る音が聞こえる。
「わたくしたちもそろそろ戻りましょう」
ミンディは嘆息しつつ、チラリとシェイラを見遣る。シェイラは頷きつつ、しばらくの間、その場を動くことが出来なかった。