第三十九話 蛇
エンブルクリトヴァッハ領――海運業が盛んなテンベルクサンドリア王国が保有する領地の一つである。
海に面している性質上、海軍を有しているが、土蜘蛛統治の影響もあってか規模は決して大きな物ではなかった。
領主であるチェルーズ卿は海賊と継続的な裏取引の末、海賊たちを傭兵化。
そして、今や海の傭兵たちも今やエンブルクリトヴァッハが保有する独自の戦力へと成り代わっていた。
言うなれば、チェルーズ卿こそがエンブルクリトヴァッハ領海を根城にする海賊たちの盟主なのである。
テンベルクサンドリア王城での失態や失言を知る者からしてみれば、貴族として表社会だけでは無く、裏社会さえも牛耳っているなどと到底信じられるものではないだろう。
だが、事実として彼はエンブルクリトヴァッハの全てを支配している。
当の本人ですら信じられない話だが、土蜘蛛の統治下で人間の力を削り落とされていく10年の間にも、彼は王家に莫大な資金を貸し付けて尚、自らの軍事力の向上に努め続けた。
チェルーズ卿の人間として本質を一言で言うなればこうだ。
――小者である。
小者である筈の彼が金や賄賂、特権等で渡りをつけた海賊たちを足掛かりにして裏社会に手を伸ばし、支配した。
王家に返済のあてもない資金を貸し付け、恩義や道義、名誉で縛り付け、領内で傍若無人を許されるだけの力を得た。
もう十分だ。エンブルクリトヴァッハ家の中でも彼ほどの功績を残した当主はいない。
当家の歴史において、これ程の英才は存在しないだろうと死後も語り続けられるに違いない。
もう十分の筈だ。今や増長を通り越して出来過ぎだと空恐ろしくなることさえある。
それにも関わらず、人の欲望とは留まることを知らないのが常なのか、チェルーズ卿はいい加減に立ち止まっても良い頃だと何度も思ってきた。
だというのに、年明け頃から新たな考えが脳裏を過ぎるようになっていた。
『あの小娘、ユフィン・ヨハナ・テンベルクサンドリアも随分と美味そうに育ったものだ』と。
あまりにも大それた考えだ。確かにあの小さな女王に肉欲の限りを叩き付け屈服させるのは、想像しただけでも言い知れぬ享楽を生み出す。
快楽だけではない。孕ませることが出来たのなら王家の血を取り込むことが出来る。それは正しく偉業だ。
だからこそチェルーズ卿は妄想だけで済ませた。
彼の本質は小者だ。類稀な権力を持っているだけの小心者なのだ。
権力、財力、武力、力はいくらあっても困りはしない。だが、力には義務と責任が伴う。
彼が真に傍若無人な獣であるなら、そのような道理を全て蹴り飛ばすことが出来ただろう。
しかし、それは出来ない。小心者であるが故に道理を無視することが出来ない。
彼は知っているのだ。支配者とはありとあらゆる無法が許される絶対無敵の存在では無いと言うことを。
ユフィン・ヨハナ・テンベルクサンドリアを孕ませ、王になれたとしても、その時は王国に関わる全ての責任を背負わなくてはならなくなる。
冗談ではない。極力小さな責任で好き勝手が許される今の立場がチェルーズ卿にとってベストなのだ。
成果は十分過ぎるほどに出した。後はこの10年の間に押し付けた貸しを返済させるだけで良い。
その目途が立てば後継者に全てを任せて楽隠居する。それで良いのだ。
「良い筈なのに――……十分に満足した。これ以上は私の手に余る……いや、既に手に余っている!!」
チェルーズ卿は苦悩し、恐怖した。まるで自分が自分では無いような、自分が違うモノへと変貌していくような気がしてならず、それは最早気のせいでは無くなっている。
そして、どういうわけだかあの女王に失言を放ち、不興を買おうとする。最早、気が抜けていたとか迂闊というレベルでは無く、傍から見れば故意にやっているように、敵対の意を示しているようにすら見えるほどだ。
「それもこれも、あの男が……!! イスルギ・ランセツ!! あの男さえいなければ!!」
石動嵐雪がユフィン・ヨハナ・テンベルクサンドリアの傍仕えになってから全ての道筋が狂った。
ほんの一ヶ月前の彼女と今現在の彼女。比較にもならない。まるで別人だと言っても良い。
まるで自分自身の本質から遠く外れた思考を持ち行動を起こしているチェルーズ卿のようだ。
だが、ユフィン・ヨハナ・テンベルクサンドリアとチェルーズ卿とでは決定的な違いがある。
ユフィンは己の変貌を微塵も恐れておらず、今の状態こそが本意であると言わんばかりに自信に満ち溢れている。
「たった13歳の小娘の分際で――私はこんなにも恐れているというのに!!」
何もかもが妬ましく、忌々しい。道義を弁え、外れることの出来ない小心者だから分かるのだ。
石動嵐雪やユフィン・ヨハナ・テンベルクサンドリアは突如として現れた、時代の綺羅星だと。
歴史を紐解けば一目瞭然だ。年齢や経歴に関わらず、唐突に何の脈絡も無く現れるのだ。英雄と呼ばれる者が。
歴史は勝者によって作られる。勝者にとって都合の良い脚色を施して。
だが、中には存在するのだ。明らかに脚色しているであろう成果を出しつつ、脚色の痕跡が一切見られぬ歴史が。
ただありのままに記述されただけの、英雄と呼ばれる存在が確かにいたという事実が存在する。
「妬ましい。憎い。忌々しい。私はただ好き勝手に生きていたいだけなのに!!」
髪を振り乱すチェルーズ卿の苦悩を理解できる者などいる筈がない。
失笑するか、顔をしかめるか。大体がそんな所だ。本質は別としても堂々と共感する者がいるとすれば、それは余程唾棄に値する愚物だ。
悪徳であろうが善良であろうが愚物では貴族は務まらない。
だから、彼の嘆きは普段の執務疲れからくるストレスの発散でしかない。ただの口先だけだ。
チェルーズ卿とて腹の内で渦巻く、悪虐な欲求を真正面から肯定されても困るし、身近な場所にそんな者がいたら不穏分子として排除するに違いない。
彼の後ろ暗い欲望を肯定する者はいない。余人の聞かせられる話ではないのだから当然だ。
だから余計に腹立たしい。誰も己を肯定してくれない。他の誰でもない自分自身が否定してるのだから当然だ。
『汝の為したいように為すが良い』
だから蛇は肯定した。蛇は人を騙すのが得意だ。一番はじめの人を騙したのも蛇だ。
様々な出来事に振り回されて弱った心の持ち主なら尚更だ。
何より、蛇がチェルーズ卿を騙すのはこれが初めてでは無いのだから。




