全てを失った勇者は、世界を滅ぼす事にした
戦闘跡の残る荒廃した大地に、倒壊した巨大な城。そして積み重なる、異形の化物達の死体の山。
この世の地獄を現す様なその場所で、1人の勇者と魔王が対峙していた。
剣を魔王に突きつける傷だらけの勇者と、瓦礫に埋もれ地に伏している魔王。
勝敗はすでに決していた。
激戦の果てに勇者が決定的な一撃を与え、魔王の命も風前の灯となっている。
しかし、魔王が浮かべる不気味な笑みが、勇者に勝利の確信を得させてはいなかった。
「……まだ、生きているのか」
最大の攻撃を直撃させたはずだった。
聖女が全員を常に癒して強化する支援をし、戦士が魔王の攻撃を受け持ち、魔術師が魔王を守る魔獣達から道を切り開く。
今は力尽きて気を失っている仲間たちの援護を受け、全身全霊の一撃を喰らわせた。
竜すら一撃で消滅する攻撃は、確かに魔王に致命を与えた。しかし、魔王の命を即座に滅ぼすまでには至らなかった。
「……もうじき、死ぬ。我の敗北だ」
負けを認めながらも、笑みを浮かべ、憐憫の眼差しを向けてくる魔王に、まだ何かあるのかと緊張の糸を切ることは出来ない。
「……その年で、よくやったものだ」
しかし、魔王は勇者を称賛しただけだった。
まだ20にもなっていない勇者であるその青年を見上げ、自嘲げに笑う魔王。
長い髪を地に垂らす偉丈夫は青年を褒め称え、そして勇者に指をさして呟いた。
「我が死んでも、終わることはない。次は、おまえが――」
最後まで言い切ることなく、勇者に伸ばされた腕が地に落ち、魔王は息絶える。
魔王が何を言いたかったのか、勇者にはわからない。しかし、魔王との戦争に勝利したという事だけは理解していた。
勝利の雄叫びを上げることはない。
この場に味方に意識を保っているものは居らず、敵に生きているものはいない。
たとえ雄叫びを上げても応えるものは居らず、勇者ただ一人の声がその場を寂しく響かせるだけだろう。
じわじわと湧き上がってくる勝利の余韻を感じながら、これから先のことを考える。
勇者としての役割を終え、普通の「人」としての人生を歩む、未来のことを。
そんな役目を終えて佇む勇者の肌を、冷たい風が撫でていった。
こうして、長きに渡る魔王軍と人類の戦争は、人類の勝利で幕を閉じた。
♦︎
「ハァ、ハァ、クソっ!」
駆ける、駆ける。逃げ出すために、あの気持ちの悪い場所から離れるために。
仲間だった3人の男女を抱え、止まらない涙を流しながらひた走る。
「ソフィ、オルド、ヴェリア」
大降りの雨に身が打たれていく。
もう動くことはない仲間をイヤイヤと頭を振りながら、冷えていく体を無視して目的地もなく逃げ続ける。
「なんで、なんでこんな――」
こんな筈ではなかった。これから幸せが待っている筈だった。
長きに渡る苦境を乗り越え、勇者としての役割を終えて。これから先の生活を夢見て仲間たちと帰途について。
戦士であるオルドとはこれからもずっと続く親友である筈だった。
騎士に戻ると言っていた彼と会う機会は少なくなるかもしれないが、たまに顔を合わせて酒でも飲もうと約束していた。この戦争が終わったらヴェリアに告白すると顔を赤くして言っていた。
魔術師であるヴェリアとはこれからも続く腐れ縁になる筈だった。
魔法が大好きな彼女は、勇者の、特に聖剣が扱う固有の魔法に尽きぬ興味を抱いていた。
何かあれば魔法の実験をし、その実験台にさせられていた。これからもそんな関係が続いていくのだと思っていた。
聖女であるソフィとはこの戦争が終わったら結婚をする約束をしていた。
辺境の田舎にでも家を建てて、これまでに貯めたお金で自由に過ごして、これまでの苦労を覆い尽くすような、幸せに満ちた生活を送ろうと誓い合っていた。
仲間たちと、これからも一緒に過ごしていく筈だった。でも、みんな死んでしまった。勇者一人になってしまった。
もう、夢が叶うことはない。
毒をもられたのだ。
耐性を持つものですら耐えることのできない、即死の猛毒。
魔王を討伐した後、王国へ帰還して盛大な祝勝会が開かれた国王の城で。
緊張の糸が途切れ、気が緩んだ隙を突かれてしまった。
勇者ならその毒に気がつくことができた。勇者が持つ聖剣は、状態異常を引き起こす毒に極微量でも反応するからだ。
しかしその時は王国の宰相に呼ばれ、偶然席を外していた。
戻ったときには遅かった。
倒れる仲間たちに気が動転している勇者に、近寄るものはいない。
助けを求めて周囲を見渡し、唖然とした。
多少の罪悪感に苛まれる者。愉悦感に浸る者。安堵するもの。
様々な感情が渦巻いていたが、共通して勇者に対する恐怖をその顔に覗かせていた。
帰還してきた時に向けられていた歓喜の表情とはまるで違っており、計画されて毒を盛られたことは明白だった。
「これは、これは、勇者様。聖女様方はどうやら体調が優れない様子。私共が面倒をみますので、念のため勇者様もお休みになられては?」
呆然とする勇者に、この国の宰相が話しかけてくる。
表情は本当に心配そうに憂いを帯びているが、その瞳の中にある侮蔑の感情を勇者は感じ取っていた。
なにより勇者に落ち着くよう差し出している飲み物に、毒性の反応を聖剣が感知していることが、今回の計画性をより明確にしていた。
(体調も何も、もう死んで――)
勇者の中の何かがピシリ、と音を立てた。
そこから先は、認めたくなかった。わかっているが、理解したくなかった。
訳がわからない。何故、毒が盛られたのか理解できない。ただ一つ言えることは、この場から一刻も早く離れたいということだった。
3人の遺体を抱えた勇者は、脇目も振らずに逃げ出した。
気が付けば、見覚えのある村の前に辿り着いていた。そこまで大きな村ではないが、雨の中でも人の活気が感じられる。
スアエ村という、勇者が初めて救った村だった。
まだ実力も精神も未熟で、与えられた使命を果たすために必死だった頃。この村を襲う魔族の大軍を撃退し守り切った村。
使命を果たす事だけを考えていた勇者が、人を守りたいと思えた。本当の意味で勇者になった、原点とも言える場所だった。
「お、お兄、ちゃん……?」
無言で佇む勇者に、一人の少年が話しかけてきた。雨具を身につけた少年は、勇者の顔を見て不安そうな表情を見せる。
「やっぱり、お兄ちゃんだ。みんなを抱えて、どうしたの?……大丈夫?」
「……ユウ」
その少年、ユウは勇者が初めて救えた命だった。
自信がなかった勇者が、自分に自信を持つことができる切っ掛けになった少年。
かつて救った時から成長しているが、一目でわかった。
その少年の姿を見た勇者は限界だった。
止まることなく流れていた涙がさらに溢れ出る。
膝をつき、少年に蹲るように嗚咽を上げ、子どものように咽び泣く。勇者としての自分が、まだ壊れていない事に安堵して。
心配そうに勇者の頭を撫でる少年の周囲から、村人たちが慌てた様子で駆け寄ってきた。
勇者たちの様子にただ事ではないと村人たちは村長の家にあげ、勇者たちの雨で濡れた体を拭き、暖かい食事を与えた。
惜しみない善意に、先ほどまでいた冷たい悪意の塊とは違う、暖かい人々の温もりに勇者は感謝した。
「……そうですか。皆さまのことは、とても無念なことであります。どうか貴方さまの傷が癒るまで、いつまでもここにいてください」
軽く事情を聞きいた村長は、そう言って頭を下げる。詳しく聞いてこない事に勇者は感謝しつつ、お礼の言葉を告げて、借りた部屋で横になった。
身体に大した疲労はないが、精神的な疲労のせいか、すぐに眠気がやってくる。
人々の温もりに心が少し落ち着いた勇者は、目を背けたい現実から逃げるように眠りについた。
♦︎
悲鳴の声が聞こえ、勇者は目を覚ます。
寝惚けることもなく、すぐさま意識が覚醒する。幼少から培われてきた経験が、勇者に深い眠りを与えることは許さない。仮に目を覚まさなくとも、眠ったままでも戦闘に移れるようになっていた。
勇者の超人的な五感が、外の様子を正確に感じ取る。
大量に押し寄せる人の気配。村人たちの悲鳴。武器と武器がぶつかり合う音。村人たちの気配が一つ一つ消えていく。
建物が、農作物が、家畜が、人が。
村そのものが燃えていく様子を、正確に感じ取っていた。
魔族が現れたのかと、即座に外に飛び出した。
魔王軍の生き残りが、この村を攻めているのだと思い込んでいた。精神的に疲れていたせいで、気付くのに遅れたのだと。しかし、外に出た勇者が目にした光景は、到底信じられるものではなく、非現実的だった。
大振りだった雨はすでに止み、日が沈もうとしている。しかし村が火の海と化しているため、周囲は明るく照らされており、暗さは感じない。その明るさが、否応なく勇者に現実を叩き込む。
逃げ惑う村人たちを殺しているのは、王国の騎士団だった。豪華な鎧を身に纏い、精強な馬に跨り、表情を消してこの村の存在を駆除してまわっている。
「あ、ああぁ……」
何が起きているのか即座に理解することができなかった。ただ勇者の知覚が捉えた、騎士に向かっていく見知った少年を止めるべく、一も二もなくその場を駆け出した。
「やめろ!こんなことはやめろ!」
「素直に勇者を出せば、こんなことは起きなかったものを」
「うるさい!お前たちが、お兄ちゃんたちにひどい事をしたんだろ!お兄ちゃんたちに謝れ!」
怒っているのか、怯えているのか、ガクガクと震えながら騎士に怒鳴り込む少年ユウは、あまりに無謀だった。
ユウに向かって走る勇者の存在に気づいた騎士たちが、捕らえようと迫ってくる。一瞬の葛藤。そしてすぐさま騎士たちを殺さずに鎮圧した。
「やはり勇者はここにいたか。無力なお前たちでは匿っても無意味なことを知れ」
騎士が、ユウの胸ぐらを掴み持ち上げる。ユウはじたばたと暴れて抵抗するが、騎士が揺らぐことはない。そこで騎士は向かってくる勇者に気付き、頰を釣り上げた。
「やめろ!やめろ!」
「恨むなら、そこの勇者を恨むんだな」
すぐそばまで迫っていた勇者の存在をユウに教え、剣を振り上げた騎士は嘲るような笑みを浮かべた。
振り返ったユウは、勇者に助けてと悲鳴を上げる。
勇者はユウを助けるべくさらに速度を上げたが、その瞬間、周囲から飛んできた魔法が勇者に直撃した。
不意の攻撃に一瞬気を取られたが、即座に動き出す。しかし騎士の剣が少年の首を叩き落とすには十分な時間だった。
「ユウっ……!!!」
「ははは、無様だな、勇者。焦ると視野が狭まるのも、不意を打たれると一瞬思考が停止するのも、何も変わっていない」
かつて守った少年が、『お兄ちゃんみたいになりたい』と言ってくれた少年が崩れ落ちていく。
まるで何もできなかった過去の自分に戻ったようで。力をつけたはずなのに何も変わっていないと見せつけられたようで。ただでさえぐちゃぐちゃだった勇者の頭の中が、真っ白になった。
「グ、リードォ!!!お前!!!」
「グリード、様だろ?泣き虫なお前を鍛えてやった恩を忘れたか」
少年の首を落とした騎士は、かつて勇者を鍛えた騎士団長だった。
5歳の頃に聖剣に選ばれた勇者は、その時から厳しい訓練を受けてきた。
魔王討伐の旅に出るまでの7年間、グリード含む騎士たちに徹底的に虐めとも取れるような訓練を課されていた。
過去のトラウマが蘇ろうとするが、怒りが全てを塗りつぶす。
「おおおおおお!!!!」
「またお前を虐めてや、ガッ!!」
聖剣の一振りで騎士団長は水平に吹き飛んだ。旅に出る前は全く歯が立たなかったが、魔王を討伐した今の勇者と騎士団長の実力差は天と地ほどに開いている。
一撃で気絶したグリードを放置して、勇者は他の騎士たちの無力化にかかる。
倒れたユウを抱えて泣き叫びたい気持ちに駆られるが、まだ生きている人を助けるべく奮闘する。こみ上げる感情を押し殺し、胃から登ってくるものを飲み干し、我武者羅に騎士たちを気絶させていった。
無力化した騎士たちを縛り上げ、村を燃やしていた火も消化した勇者は、周りの様子がおかしいことに気がついた。
村人たちは、一定の距離から近づいてこようとしない。今回の襲撃は勇者に原因があるため、謝罪しようと村人に近づこうとする。
そんな勇者の頭にコツン、と石が飛んできた。
飛んできた方向を見ると、血を流し倒れている男性を抱えた女性が、勇者を睨みつけていた。
「騎士たちはあなたを探していた。あなたがここに来たせいで、私の夫はなくなった」
その女性の言葉を発端に、生き残った村人が次々と声を上げる。
「女房が死んだ!」
「パパとママが死んだ!」
「人も田畑も家畜も家もなくなった!」
「この村はもうおしまいだ!」
「お前さえこなければ!」
子どもが、大人が、老人が、涙を流しながら憎しみの目を向けてくる。
泣き叫ぶ赤ん坊の声。赤ん坊を抱える少女の慟哭。そしてその少女の両親の遺体が、勇者の心を傷付ける。
切り落とされた首を抱えて崩れ落ちる少年の母親が。燃え尽きた孫の前で呆然とする老人が、勇者の心を折りにくる。
「出て行け!」
「もう、ここにはこないで……」
「ごめんなさい…でも…私…」
先程までの暖かさは、すでに失われていた。人の暖かみを味わったからこそ、その人たちから向けられる拒絶に、勇者は耐えることができなかった。
「あ、あぁ、あああ!!」
走る、走る。逃げるように走る。守れなかった己が許せなくて。その場に止まるのが苦しくて、踵を返して逃げ出した。そして眠っている大切な仲間たちの元に向かい、村長の家が崩れていることに気付き絶望する。
「ソフィ!オルド!ヴェリア!」
瓦礫をかき分け、仲間の姿を探すが見つかることはない。真っ白だった頭の中に新たな絵具が乱雑に塗りたくられるように、様々な感情が渦を巻く。ピシリ、ピシリと勇者の何かにヒビが入っていく。
「勇者様。こちらです」
瓦礫をかき分ける勇者を止めて、村長は勇者を森へと連れ出した。
そこに、木に隠れるように寝かされている仲間たちを見て、勇者は安堵の息を吐く。
そして村長に、何度も何度も頭を下げて感謝の言葉を告げた。
「いえ……勇者様には助けて頂いた恩がありますし。今回の出来事も、勇者様が悪くない事はわかっております。しかし、今はここに居るべきではないでしょう。お力になれず、申し訳ありません」
頭を下げる村長に慌てて頭を上げさせ、改めて感謝の意を告げる。今回のことを深く謝罪し、仲間を抱えその場を後にした。
即座にその場を離れたことで、勇者は村のその後の悲劇を見ることがなかった。
それは心が継ぎ接ぎになった今の勇者にとって、唯一の幸いだったのかもしれない。そのおかげで心が完全に折れることはなかったのだから。しかしその事を知るのがそう遠くないことなど、今の勇者には知る由もなかった。
♦︎
「ここなら、誰もいないな……」
息を切らしながら、誰もいない廃墟となっている村に辿り着いた。
すでに夜は明け、朝日が顔を見せている。
よたよたと壊れた人形のように歩きながら、勇者は一つのボロボロの家の前に入り込んだ。
そこは勇者の故郷ともいえる場所で、その家は勇者が幼少の頃母と過ごした場所だった。
聖剣に選ばれ勇者となった少年は、厳しい訓練に耐えてきた。もはや虐待とも拷問とも言えるほどの訓練を耐えることができたのは、偏に母の為だった。
少年が生まれて間も無く父が他界し、母も病床に伏していた。
勇者としての役割を果たせば病気の母を助けてくれると国王と約束したために、厳しい訓練にも耐えられたのだ。
――旅立つ頃には、魔族に襲われて母どころか故郷の村人全員が死亡していたが。
「……………………」
唯一形を保っていた椅子に座り、動くことなく虚空を眺め続ける。そしてしばらくしてから、動ける事を思い出した壊れた人形のように動き出す。
「……………………」
ザク、ザクとほのかに光を発している聖剣で穴を掘り、仲間たちを火の魔法で火葬して、その骨を大切に埋める。
死んだような顔で、何も考えず、ただ作業を没頭する機械のように体を動かす。
丁寧に丁寧に3人の墓を一つずつ作り上げ、完成した墓の前で膝を抱えて座り込む。
「……ごめんね。もう少し、ちゃんとした形で弔ってあげたかったけど、やり方がわからなかったよ」
埋葬したことで、仲間たちの死が現実味を帯びてくる。
自然と涙がポロポロと溢れ出す。延々と止まる事なく溢れ出る涙を止めようともせず、仲間たちに語りかける。
チカチカと点滅を繰り返して光る聖剣を抱え、守れなかった事を懺悔するように、涙を流しながら今までの思い出を思い返す。
オルドは拷問のような訓練から救い出してくれた恩人だった。感情を消して役割を果たそうとする勇者に、感情を与えてくれた。友人になってくれた初めての人で、気を使わずに接することができる、親友だった。
ヴェリアは訓練ばかりだった勇者に知識と教養を授けてくれた。主に魔法面の知識に偏ってはいたが、旅に出るまで字の読み書きも出来なかった勇者にとって、世界を広げてくれた先生ともいえる存在だった。
ソフィは勇者の心が折れそうなとき、いつもそばにいてくれた。使命だけが生きる目的になっていた勇者に、使命以外の生きる目的をくれた。人の温もりを初めて感じさせてくれた、勇者にとって特別で、初恋で、最愛だった。
何度も何度も懺悔を繰り返す。覚悟は決めていた筈だった。たとえ道半ばで命絶えたとしても、それを乗り越えて進んでいくと、仲間たちと約束した筈だった。
しかし、全てが終わった後なのだ。これから幸せが待っていると信じてやまなかったのだ。
途切れた覚悟では唐突に訪れたこの現実に耐えられず、思い出に浸るたびに、先程までの光景が思い浮かぶ。
毒で倒れている仲間たち。首を落とされた少年。焼かれた村。泣き叫ぶ人々。憎悪に濡れた瞳。
後悔の輪が止まることはなく、如何するべきだったのかを自問するが答えは見つからない。
「……みんな。ちょっと、いってくるね」
しばらくして、膝を濡らしていた勇者は立ち上がった。
問い質さねばならない。
何故こんなことをしたのかを。
一度は逃げ出してしまったけれど、それでもどうしてあんな事をしたのか聞かねばならない。
何か理由があるに違いない。何かの勘違いで誤ってやってしまったのかもしれない。もしかしたら、新たな魔王に操られているのかもしれない。それならば、勇者としてその魔王を討伐しなければならない。
ここから一日も走れば王都に戻れるだろう。そう判断した勇者は即座に走り出した。ここまで一晩中走り続けていたが、身体的な疲労は大して無い。
三日三晩全力で戦い続けることができる勇者の体力は、並ではない。
決意を目に宿した勇者は、使命を果たさんと王城に向けて駆けていく。
その頃には、点滅を繰り返していた聖剣の光は完全に収まっていた。
♦︎
翌日の昼頃には、勇者は王城の前まで辿り着いていた。
現れた勇者に門番はギョッとしていたが、何故か止める事はせず勇者を城の中へ通した。
それどころか国王が謁見の間にいることも教えられ、多少の困惑はあったが、そのまま進んでいく。
「お待ちしておりました。お早いお戻り、見事でございます。勇者様」
謁見の間に入った勇者に声をかけてきたのは、宰相だった。
国王が座っている玉座の隣に、笑みを浮かべて立っていた。
「まさか2日程でお戻りにられるとは、感服致しましたよ。流石は勇者様です」
そう言って勇者を見る宰相の細い目は、勇者を人として見ていなかった。しかし勇者はその目に気付くことはなく、この部屋の様子に困惑を隠せなかった。
玉座に座る国王に、その隣にいる宰相。そして魔道具によって映し出されている、各国の王たち。
さらにその者たちを守るように控える、側近や王国の騎士団長。並ぶ騎士団長の中にはグリードの姿もあった。
その他にも、広大な空間を埋め尽くすほどの騎士や魔術師がおり、油断なく勇者の動向を見つめていた。
「それで、どうかなさいましたか?」
「……なんで、なんであんなことをしたんだ」
向けられる多数の無機質な目に耐えられなかった勇者は、国王や宰相たちに問い質す。
「あんなこと、とは?」
「なぜ、ソフィ達に毒を盛った!スアエ村を襲った!」
怒りの感情を見せる勇者に騎士たちは色めき立ち、国王は沈痛な面持ちで目を逸らす。しかし宰相は余裕を持って返答する。
「勇者様が役目を果たすためですよ」
「は……?」
固まる勇者を置いて宰相は魔道具の鈴を鳴らして誰かを呼び出した。
すると、侍従達が布を被せた大きな台車を数人がかりで運んでくる。青い顔をする侍従がその布を取り払い、すぐに下がった。
台車に乗せられている物が勇者の目に入り、その瞬間、勇者の時が止まる。
台車の上に乗せられていたのは、死体の山だった。老若男女構わず積み重ねられ、死亡してから時間が経っているのか腐臭が漂っている。この場にいる騎士や側近たちはその臭いに不快そうな顔をし、国王は見ないように顔を逸らす。唯一臭いが届かない魔道具に映し出される各国の王たちが、興味深そうに覗いていた。しかし、勇者はそれどころではなかった。
積み重なる死体の人々の顔全てに、勇者は見覚えがあった。それは勇者が今まで魔王を討伐する旅の途中で知り合った人たちだった。
それも、勇者と交友を深め信頼を築いた人たちばかり。その中にはつい先日別れたばかりの、スアエ村の村長たちの姿もあった。
「この者たちは、勇者様を廃棄するのに最後まで反対した反逆者です」
茫然と立ち尽くす勇者に笑みを絶やさず、上手く事が運んでいる事に満足するように話を続ける。
「勇者様は、確かに魔王を討伐するという至上の命を全うされた。しかし巨悪を討伐する為に作られた兵器はあまりに強力すぎたのです。その力は、単騎で周辺国家を脅かす程。人類が真に平和になる為には、強力すぎる兵器はどの国であろうと保有するわけにはいかないのです」
たとえ世界の脅威だった魔王を討伐しようとも、勇者という桁外れな兵器が残る限り、安心できない。
周辺国家はいつその力が向けられるか分からないため、非常に恐る。
保有する王国としても、いつ爆発するか分からない意思ある兵器を何時迄も持ちたくはない。
それに、魔王をも殺す兵器を恐れて周辺国家が連合を組み、敵対されてもたまらない。
「兵器を安全に廃棄するにも手順というものがあります。それも意思ある兵器なため、非常に気を使って無力化しなければなりません。廃棄を反対する愚か者達が暴れて、兵器が暴発されても困ります」
立ち尽くす勇者の足元に、魔法陣が展開された。そして発動した魔法によって勇者の体が鎖や魔力糸で縛られる。また魔法耐性低下や身体弱化など様々な状態異常をかけられる。
それでも反応を示さない勇者に宰相は満足そうに何度も頷く。
「勇者様。貴方様の質問に答えましょう。それは、「勇者」という存在はこれからの時代に必要なく、貴方様を眠らせるために必要な手順だったからですよ」
可能ならば勇者も聖女達と同じく毒を飲むことが最善であったが、それは難しかった。
そのため、強大すぎる勇者が抵抗しないように、心を折る必要があった。そして勇者の心を折る材料とするのに、処分を反抗する勇者と親しい者たちが最適だった。
「勇者という兵器のせいで新たに戦争が起きる可能性があり、それによる被害は計り知れません。それならば、被害を最小に抑える為に兵器を廃棄するというのが正しい選択でしょう。ご理解くださいませ、勇者様。これは貴方に与えられた最後の使命。果たすべき役目なのです」
兵器がなくなる瞬間を見なければ周辺国家は安心できない。その為に希少な魔道具を使ってまでこの場で勇者を殺す瞬間を見届けにきているのだ。
「……いつから、いつからこんな」
俯きながらもようやく言葉を発した勇者の体は、数々の魔法によって拘束されていた。
勇者の思考は完全に止まり、宰相の話も半ば入って来なかった。しかし目の前にある死体は、勇者が逃げ出した2日間で集めることなど不可能であり、かなり前の段階で計画されていた事だけがわかっていた。
「はじめから、ではありますが、廃棄が確定したのは勇者様が古き竜を屠った時でございます」
かつて眠りから覚め現れた、各々の国家も目撃した太古の竜。全長100メートルを超え、力を蓄えたその存在は、国を滅ぼしかねない力を秘めていた。
その存在を、勇者はたった一撃で滅ぼした。竜が墜落するだけでも甚大な被害が起こる為、チリも残さず消滅させたのだ。
その時から、各国の上層部は勇者を恐れ始めた。そして、勇者という決戦兵器を破棄する事に満場一致したのだ。
「では、最後の仕上げです。連れてきなさい」
そうして連れて来られた1人の少女に、勇者はどうにかなりそうだった。
「ル…ルリ……」
「…………勇者、さま」
その少女は、魔王城に乗り込む前に立ち寄った最後の町で知り合った、孤独な少女だった。
親に捨てられ記憶をなくし倒れていた少女。
少女を放っておけなかった勇者たちは、甲斐甲斐しく面倒を見た。紆余曲折あって少女の抱えた問題を解決し、少女は記憶を取り戻した。そして勇者たちが魔王城にむけて旅立つのを、涙を流しながらも見送ってくれた。
行かないでと縋り付く少女を説得し、必ずまた会おうと約束した、勇者にとってかけがいのない、家族のような――
「ごめんなさい。勇者様。ごめんなさい。ごめんなさい。わたしは、こんな、こんなのいやだ。ゆうしゃさま。ごめんなさい」
ぐしゃぐしゃに涙を流す少女は、かつて見せてくれた蕩けるような笑みを浮かべていなかった。そして勇者も、少女を安心させた優しい笑みを浮かべていなかった。
最悪の対面であった。
ぺたぺたと勇者に近付く少女の手には、一振りの短剣が握られている。抵抗するように何度も体を強張らせ、嫌がる背中を押されるようにして近付いてくる。勇者は少女の体を操る魔力反応を、聖剣を通じて正確に感じ取っていた。
「勇者様、受け入れてください。その少女を受け入れ、役目を果たす事ができたのなら、せめてもの情けとしてその少女は救われる事でしょう」
「いや。動いて。いや。こんなの、いや。おねがい。ゆうしゃさま。ゆうしゃさま。――――***おにいちゃん」
少女が発する、勇者の、青年の名前を、勇者は聞き取る事ができなかった。
(俺……僕?僕は、誰だ?思い出せない。俺の、僕の、名前。なんで、ルリが、呼んでくれる。ソフィが、オルドが、ヴェリアが、呼んでくれた、名前を、なんで――)
すぐ、目の前に。手を伸ばせば届く距離に大切な少女はいる。しかし、様々な魔法によって拘束された勇者は手を伸ばすこともできない。
今の勇者は魔法的防御をできないように妨害されていた。強化できない肉体では、少女の短剣は容易く勇者を貫くだろう。
そうして掲げられた短剣を勇者に突き刺さんとして――
――少女は自身の胸に、突き刺した。
「ご、ぷ、お、にい、ちゃん。ごふっ。おにい、ちゃん」
「バカな!!!」
この場にいた少女を操っていたであろう魔術師が、あり得ないと驚愕する。
まだ10に届いたばかりの少女に、自身の魔法を打ち破られるなど、信じられないことだった。
「よかっ、た。うご、いた。おにい、ちゃん。わた、しは、お、にい、ちゃんが、すきです。すき、です。ゆうしゃ、さま、じゃなくて、おにい、ちゃん、がすきです」
かつて言えなかった想いを少女は伝える。
どうしても伝えたかった。あの時は別れたくないと泣きついて伝えられなかったけれど、また会えたら必ず伝えようと決めていた。
「る…ルリ…ルリ…!!」
聖剣が光り輝く。
勇者は倒れようとする少女を抱き抱えようと、自身を物理的に拘束する全ての魔法を打ち破って少女を支える。
拘束を簡単に解いた事に全ての者が驚愕し、即座に強力な魔法を放つべく準備し始めた。
「おにー、ちゃん、るり、すき?」
「あぁ、もちろん。好きだよ。大好きだ」
勇者は涙を流しながらも安心させるように笑みを浮かべると、少女は蕩けるような笑みを浮かべた。
「えへへ。わたしも、おにいちゃんが、だいすき」
そう言って安心したように、幸せそうに息を引き取った。少女を看取った勇者は、自身の心が音を立てて壊れていくのを自覚した。
「あ、あぁ、あああぁぁあああ!!!!」
涙が頬を伝い、少女の顔に落ちる。
咆哮を上げ、勇者を勇者たらしめる全てがバキバキと崩壊していくのを感じ、何もかもを投げ出そうとする。
しかし、それは聖剣が許さない。
勇者が折れるなど許容しない。壊れることなど許されない。
聖剣がさらに強く輝き、壊れた心を無理やり修復する。しかしさらに折れようとするので、その心を強引に押しとどめる。そして勇者が折れる原因を探り、その原因の排除を試みる。
「はっはっは、これは傑作だ。とても感動的ではないか。これは撮っている映像を見返すのが楽しみだ」
「そうよな。強者が落ちぶれる様を見る爽快さはたまらん。宰相殿、こちらの映像通信越しでは映りが悪い。後にそちらが撮影している映像を貸していただけるかな?」
「おや、帝国ばかり優遇されるのはいただけませんな。此方も是非とも映りの良い現場の映像が見たいものだ」
「今は計画の進行中ですので、その件は後ほど相談しましょう」
各国の王たちが笑い、談笑するのを宰相はなげやりに諫め、王国の騎士団を統括する者を見る。
「皆のもの、放て!」
宰相の意図を察した騎士統括が指示を出し、勇者を囲む騎士たちや魔術師が一斉に魔法を放つ。
全ての攻撃が勇者に直撃し、その近くにあった台車も巻き添えで消し飛んでいた。
勇者は物理的な拘束は解いたがそれ以外は解けていない。
魔法を使えず魔法耐性も下げられた今の勇者にこれを塞ぐ術はなく、動くこともしない勇者に耐える事は不可能なはずだった。
魔法の嵐が晴れた時、そこには少女を抱え、聖剣の光を纏い、無傷で周囲を睨みつける勇者の姿があった。
「バカな!何故生きている!?」
「ありえない!」
少女を守りながらも平然とし、勇者の今までにない表情に騎士たちが怯えたように後ずさる。
その中で唯一、騎士団長のグリードだけが勇者の前に一歩踏みだした。
「おい、勇者!これを見ろ!」
恐怖の顔に歪むグリードが勇者の前に突き出したのは、3つの頭蓋骨だった。
勇者は一目でそれが何か看破した。
それは、勇者の生きる意味だった者。それは、勇者が守りたかった者。それは、青年が埋めた大切なーー
「わかりやすい墓で助かったぜ!テメェの移動が速いせいで何度も転移を使う羽目になったがな!」
「やめろグリード!!愚か者め!!」
グリードが持つものは勇者の心が想定以上に強かった場合の切り札であり、この場で使うべきものではない。
取り繕うこともせず止めに入る宰相を無視し、グリードは醜悪な笑みを浮かべて3つの頭蓋骨を握りつぶした。
「ははははは!おまえは何も変わらない!!ただの兵器であるおまえが、一丁前に泣いて人間様を気取ってんじゃねーよ!!!」
長きに渡って調教した順従で思考をせず、文句も言わず、感情も出さず、逆らう事のしなかった人形が反抗するなど、あってはならない。
騎士団長である自分が、役割を終えて廃棄される兵器ごときに怯えているなど、そんな事あるはずがない。
狂ったように高笑いをあげるグリードの手から、パラパラと砕けた骨が零れ落ちる。
それから目を離せない勇者は、自身の時の流れが緩慢になるのを感じていた。
『――***、お前は気負いすぎだ。たまには勇者の使命なんて忘れて、もうちっと気楽に生きてみろ。人生楽しくなるぜ』
『――***の聖剣は大変興味深い。窮地に陥った時に必ず現れるあの現象。おそらく何かを対価にその効果が発揮するのです。何を代償とするか知りたいので、実験台になってくれません?後で奢りますから』
『――***は自分を押さえすぎです。どうしようもなくなって、どうすればいいか分からない時。そんな時くらい勇者としてではなく、***の感情で、思うままに動いてもいいのですよ』
思い返すは何時か言われた仲間たちの言葉。
大切な思い出。色褪せない記憶。
忘れることなどできない、忘れたくない記憶。しかしそれらを、聖剣によって吸い取られていく。
それは、勇者の心を壊す記憶。聖剣の必要とする勇者を形成する上で、不要で、消すべき記憶。
聖剣にとって勇者は勇気ある者。懼れず挫けぬ者。悪を滅ぼす強き者。正義を名乗るものが悪に落ちるなど許さない。
それを為すのを邪魔する感情は、全て排除する。今までも、これからも。
「……ゆう、しゃを、なめるな」
その言葉は聖剣を含め、全ての者に向けた言葉だった。
「おまえ、たちは、悪だ。勇者という人間を、人と見ない。ただ1人の人間を殺すために、罪なき人間を、容易に切り捨てる。そして、見て見ぬ振りをする。一個人の尊厳を、踏みにじる。魔王の方が、まだ温情があった」
聖剣に力を込める。勇者の記憶を奪おうとする聖剣を押さえ込み、逆に乗っ取ろうとする。聖剣はブルブルと震えて拒絶を示すが、そんな事は勇者が許さない。
今まで散々利用しておいて、都合の悪い時だけ力を貸さないなど、断じて許さない。
「そして、全ての人々の信頼を築けない、愚かな勇者も、悪だ」
輝きを増す光と勇者の異様な気配に恐怖したのか、奇声を上げてグリードは襲いかかる。
勇者は誰も知覚することが出来ない速度でグリードの首を刎ねる。そして、唖然としたままのその顔を、微塵も残らないほどに切り刻んだ。
「僕は、この世に蔓延る悪を全て滅ぼす」
それは、使命に囚われた勇者としてではなく、感情を剥き出した1人の青年の、愚かな「人」としての言葉だった。
宰相は、己が失敗したことを悟った。
最後の一手、少女が魔法を打ち破り、勇者を殺さなかったとしても、まだ勇者を仕留められると思っていた。しかし聖剣とグリードが、機能を停止しようとした兵器を制御不能にすることは、宰相にとっても想定外だった。
「どんな手段を使おうと。たとえ僕が悪に染まろうと」
――我が死んでも、終わることはない。次は、おまえが――
青年はふと魔王の言葉を思い出した。あの時はわからなかったが、魔王が言おうとしていたことが今ならわかる気がした。
「僕が滅びるその時まで、悪を滅ぼし続ける。たとえ、僕が魔王と呼ばれようとも――」
聖剣を完全に掌握した青年は、剣を掲げ、振り下ろす。
青年を仕留めようと剣を振るってくる者、魔法を撃つ者、転移で権力者を連れ逃げ出す者、それら全てを平等に討ち滅ぼす。
それは子どもが起こす癇癪のような一撃だった。
技術もへったくれもない、扱いきれない感情を吐露しようと物に当たる、子どものような振り下ろし。
しかし竜を屠ったときよりも、魔王を倒したときよりも強大なその一撃は、王国全てを焦土に変えた。転移で逃げた者も、逃げた先が王国内だったため消滅した。
全てが灰塵と化し、たった一撃で栄えある王国は滅びた。
滅びを与えた本人は無傷で佇み、腕の中で眠る少女をゆっくりと寝かせる。
「ごめんね。ぼくもすぐ、そこにいくから。君は、悪者になったぼくでも好きでいてくれるかな」
全てを失った勇者は、世界を滅ぼす事にした。
善も悪も関係なく全てを滅ぼし、何もかもがなくなれば、そこに悪は存在しなくなる。
膝をつき、腫れ物に触るように少女の頭を優しく撫でていた青年は、やがて立ち上がった。
「さぁ、行こう」
悪は魔王だけではなく、まだまだ世に蔓延っている。尽きぬことはない。これを見ていた各国の王たちは、急いで討伐隊を組むことだろう。しかし青年は負ける気がしなかった。そして実際にそれら全てを跳ね除け、悪を全てを滅ぼし続けるだろう。
勇者が滅びるその時まで。