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Power Song・Power Love

君のために僕は詠う。

Power song・Power love




『――――おい、大丈夫か?』

 その声に、大便用の便器の前でうずくまっていた俺はすぐそこまで迫って来ていた嘔吐物を必死に飲み込みながら顔を上げた。そこには女が立っていた……女?ここは男子トイレだぞ!?俺は目を擦りながらもう一度そいつを見た。

『…おい…もう全部吐いたか?』

 女のような綺麗な顔立ちの男が怪訝そうな表情で俺を見ていた。

 本当に綺麗な顔した男だった。あんまり綺麗な顔に、俺は一瞬吐き気を忘れて見惚れてしまっていた。

 はぁ…  そいつが小さくため息を吐いた。俺はハッとして…気が緩んだのか、堪えていた嘔吐物を一気に吐き出した。そいつはそんな俺の背中をさすってくれた。

『…ゲホッ…わ…悪い…もう大丈夫…』

 一気に吐いたから、さっきよりかなりスッキリした。俺は笑いながら身体を起こし壁にもたれた。

『立てるか?』

『え?…あぁ…なんとかね』

 俺はそう言いながら立ち上がろうとした……が、どういう訳か身体に力が入らず、立ち上がる事が出来なかった。

『…あれ?…な、なんで?』

 そいつはまたため息を吐いた。そして俺の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。

『え?…え!いや、いいって!もう少しじっとしてたら大丈夫だからさ!』

『…早くしろよ…』

 そいつは無愛想に言った。

 俺はそいつの妙な迫力に気負けして、『…すんません…』と言いながらそいつの背中に乗っかった。

『!!おい!大丈夫か!?』

 そいつの身体があんまり細かったから俺は慌てた。

『…あ?何が?』

 そいつはまた無愛想にそう言うと、俺をおぶったままスクッと立ち上がり、そのままスタスタと歩き出した。

『…俺、重いだろ?』

 そいつは何も答えなかった。一言も喋らず医務室まで俺を運んでくれた。

 そいつの着ていたパーカーから洗濯洗剤の良い香りがしてきた。その香りを心地よく思いながら、俺はゲロを吐いていた時に用を足してさっさと行ってしまった学生達の事を考えた。

 世の中、まだ捨てたもんじゃねぇな…


 そんな事を考えている間に、そいつは呼吸を乱す事無くあっと言う間に医務室に着き、ドアをノックした。

『…はい、はい…あら!?やだ!本条君!?どうしたの?』

 医務室の先生が頬を赤めながら慌てて駆け寄ってきた。

『…こいつがトイレで吐いてたから…』

 そいつはそう言いながら俺をベッドの上に下ろした。

『え?…あら、顔が赤いわね。熱あるんじゃない?』

 先生はそう言いながら棚のガラス戸を開き、体温計を取り出した。

『…あっ、ちょっと…』

 俺の声にそいつは見向きもせずに医務室から出て行った。

 俺は半分呆然としながら先生から渡された体温計をわきに挟んだ。

『……あ〜あ…』

 先生はそう言いながら、寂しそうにドアを見つめた。

『先生、さっきの誰っスか?』

『!?やだ!君、本条君の事知らないの!?』

 先生は信じられないといった表情で俺を見た。













2008年10月


「――――裕ちゃん!こっち、こっち!」

 駅の改札口から出てきた俺に、麻衣子は大きく手を振って出迎えてくれた。

「やだ、裕ちゃん。なんかヤツレてる…」

「…久し振りに会った恋人に言うセリフがそれか?」

 本気でショックを受けながら言った俺の言葉に、麻衣子は笑った。

「…どうする?どっかでご飯食べてから家に来る?」

「そうだな…そうしようかな」

 麻衣子は「了解」と頷きながら微笑んだ。

 麻衣子は相変わらず可愛かった。そんな可愛い麻衣子と肩を並べて駅のコンコースを歩いた。


 でかいスポーツバックを担いだまま、俺達は駅の近くの定食屋に入った。夕飯時という事もあり、店は滅茶苦茶混んでいた。

「2名様ですか?」と言う年配の女性店員の言葉に返事してから30分後にようやく席に着く事ができた。俺は“焼肉定食”、麻衣子は“秋茄子定食”を注文した。

「仕事の方は順調?」

「うん、なんとかな。そっちは?」

「うん、なんとかね」

 麻衣子はそう言うと微笑みながら水を一口飲んだ。

 そんな会話をしていると、さっきのおばさんが慣れた手付きで定食を運んできた。俺はかなり腹が減っていたので、定食を一気に食べ始めた。そんな俺を見ながら麻衣子は苦笑した。

「?何笑ってんの?」

「裕ちゃん、前より食べるの早くなったよ。ちゃんと良く噛んで食べないと身体に悪いよ」

 そう言いながら、麻衣子は小さな口に少量のご飯を運んだ。

「……正直…忙しくてさ、飯食うのに時間なんかかけてらんないんだよな」

 俺の言葉に麻衣子は小さくため息を吐いた。

「そんなに焦らなくてもいいのよ、裕ちゃん」

 麻衣子の言葉に、俺は箸を止めた。麻衣子はキレイな瞳で真っ直ぐに俺の事を見つめていた。

「……うん…そうだな…」

「そうよ。そうやって無理して裕ちゃんの会社が大きくなっても裕ちゃんに何かあったら…私どうしたらいいのよ?」

「そんな…大袈裟な…」

 オロオロと言う俺を見ながら麻衣子はくすくすと笑い出した。

「まだまだ先は長いんだし、もうちょっとゆっくり頑張ろうよ。ね?裕ちゃん?」

 麻衣子の言葉に嬉しさが込み上げてきた。

「…話は変わるけどさ、本条君とアキさんの結婚祝い何にする?」

「あぁ、そうだったな…そうだなぁ〜…」

 俺はそう言いながら店内の大きい窓から外を眺めた。店の前の通りの銀杏の木の葉は一部が黄色になり、せわしなく通り過ぎる人々の間をハラハラと舞い落ちていた。俺はそんな光景を見ながら本条の<あの時>の表情を思い浮かべていた。

 

 あの時の本条の表情は、絶望感に満ちていた―――――




 あの時――――本条と俺は蒸し蒸しする夏の夜空の下、伊藤という男の手を引いて歩いて行くアキさんの後ろ姿を呆然と眺めていた。

『――――本条?…おい!本条!!』

 俺は思わず、アキさんを追い掛けようとする本条の腕を掴んだ。

『なっなんだよ!離せよ!』

『おっ落ち着けって!本条!!アキさん追い掛けてどうするんだよ!!』

 俺の言葉に本条の瞳が一瞬―――――……一瞬だけ、小さく揺れたように見えた。

『お前には関係ないだろう!!』

 本条はそう言うと俺を突き飛ばして、あっという間に人混みの中に消えていった。

 俺はしばらく動けなかった。頭に中に色々な考えが駆け巡った。

 俺…とんでもない勘違いをしてしまった……。


 お前には関係ないだろ!!


 そう言った本条の顔。あの今にも泣き出してしまいそうな表情。あんな悲しい、あんな弱々しい表情を俺は今まで見た事がなかった。









「まぁまぁ、裕翔ゆうとさん!お久し振りね!…なんか少し痩せたんじゃない?」

 定食屋で飯を食った後に向かった麻衣子の実家で、麻衣子の母親が俺の事を手厚く歓迎してくれた。麻衣子の家に来たのは今回で2回目だった。麻衣子に会いに来るたびにビジネスホテルに泊まっていた事を知った麻衣子の母親が家に招待してくれたのだ。『ホテルなんてもったいない!家に泊まって行きなさいよ!』と、来客用の部屋を準備してくれた。

「お久し振りです。これよかったら皆さんで召し上がって下さい」

 俺はそう言いながら準備しておいた菓子折りを差し出した。

「まぁまぁ!お気を遣わせてしまったわね〜…お父さん!お父さん!裕翔さんからお土産頂きましたよ!」

 麻衣子の母親は居間で寛いでいるらしい麻衣子の父親(T大学大学長)に呼び掛けた…が、今回も返事はない。

「…いっいやぁねぇ〜…さっ、お部屋の準備はもう出来てるからね。麻衣子ちゃん、タオルとか出してあげてね」

「本当にすいません」

 俺は麻衣子の母親に頭を下げた。

「いいのよ〜さっ、早くお上がりなさいな!」

「はっはい、お邪魔します」

「あっ、裕翔さん!明日の夕飯はどうなさるの?良かったら家で…」

「お母さん!昨日話したじゃない!明日は2人で本条君の家に泊まるって…」

 麻衣子の父親の咳払いが聞こえてきた。

 俺と麻衣子と麻衣子の母親の間に沈黙の空気が流れた。

「……裕ちゃん!行こうか!」

 麻衣子と俺は気まずくなった空気を追い払うように、麻衣子の母親にもう一度礼を言ってそそくさと2階の来客用の部屋へと上がった。


 麻衣子の父親は本条の事をかなり気に入っていた。麻衣子と結婚させるつもりでいたらしい。


「…ごめんね、裕ちゃん…」

 ベッドの上で荷物を出していた俺に、麻衣子は申し訳なさそうに言った。

「え?…あぁ、気にすんなよ。仕方無いさ。俺がまだまだ未熟者なんだから」

「そんな事ないよ!お父さんが悪いのよ!」

「お父さんは何も悪くないよ」

 俺は本気でそう思っていた。俺と本条じゃ比べ物にならないのだ。

 麻衣子はうつむいたまま、ベッドに座っていた俺の横に腰を下ろした。

「…裕ちゃんて…すごいよね」

「は?何が?」

 俺の言葉に、麻衣子はくすくすと笑い出した。

「ううん、何でもない」








『…僕だってそんな何でもうまくいってるワケじゃないんだ』

 いつだったか、本条は寂しそうにそう呟いた事があった。

 頭脳明晰でスポーツ万能、おまけに容姿端麗というすべてを持っていたお前はその時何を考えていたんだ?

 なぁ、本条?










 次の日、麻衣子の仕事が終わるまで俺は大学時代によく行っていたラーメン屋で昼を済ませ、世話になったバイト先に顔を出し、そこで時間を潰してから仕事を終えた麻衣子と一緒に本条邸へ向かった。

「――――中島君!久し振り!!元気だった?」

 アキさんは相変わらず小さくて、いつものように優しい笑顔で俺達を出迎えてくれた。

「…アキさん…なんか、縮みました?」

「!?失礼ね!!」

 俺とアキさんの会話に、麻衣子は笑いを堪えるようにうつむいたまま肩を震わせていた。

「ちょっと!麻衣子ちゃん!?」

「いえ!ごめんなさい!」

「あの、アキさん。本条は?」

 俺はこれ以上アキさんの機嫌を損ねないように訊いてみた。

「え?ケイ君?今日は早く帰って来るって言ってたわよ。まぁケイ君が帰って来るまでゆっくりしててよ」

「ゆっくりしててよなんて…もうすっかり奥様ですなぁ〜」

「なによぉ!!」

 アキさんは顔を赤めながら口を尖らせた。





 本条が仕事から帰って来るまで、俺と麻衣子はコーヒーを飲みながら居間で寛いだ。

 大学時代は麻衣子と2人で本条の家に勝手に押し掛けてアキさんの手作りお菓子を食べ、くだらない事ばかり話して笑ってた。そこに本条が帰って来て

『……何なんだ…お前ら…何でここにいるんだ?』

 と、怪訝そうな表情で俺達を睨んだ。


「中島君、少し痩せたんじゃない?仕事忙しいの?」

 アキさんが夕飯の準備をしながら訊いてきた。

「あ、はい。もう大分落ち着いたんですけどね」

 俺は苦笑しながら答えた。

「本条は?やっぱり忙しそうですか?」

「ケイ君?…そうね〜どうだろ…出張前は少し帰りも遅くなるけど普段は毎日決まった時間に帰ってくるのよ」

「へぇ〜…」

 本条らしいな…俺はそんな事を考えながらせかせかと動くアキさんを見つめた。アキさんは夕飯の準備の手伝いをしていた麻衣子と何やら話しながらコロコロと笑っていた。

「…本条は元気ですか?」

「え?えぇ、元気よ。どうしたの?中島君?もしかして緊張してる?」

 アキさんが笑いながら言った。

「そうなんですよ〜裕ちゃん、昨日からソワソワしてるの。私と会う時とは全然違うんですよ」

「そっそんな事ないよ!」

 俺の言葉に2人がどっと笑い出した。


 確かに……俺は少し緊張していた。本条とは大学を卒業してから半年間、1回も会っていなかった。麻衣子ともそんな何回も会っていたワケじゃなかったけど…毎日電話で話していたし、だから正直今日みたいな妙な緊張感はなかったのだ。

「ケイ君は相変わらず美人よ」

 アキさんが笑いながらそう言った時、玄関のドアの開く音がした。

「ケイ君帰って来た!」

 アキさんと麻衣子が嬉しそうに笑いながらいそいそと玄関へと行った。俺も2人の後に続いた。

「おかえりなさい」

 アキさんはそう言いながら本条からカバンを受け取った。

「ただいま…」

 本条はアキさんの横にいた麻衣子を横目で見ながら言った。

「久し振り!本条君!」

「…先週会ったじゃん…」

 本条は苦笑しながらそう言うと、居間から顔を出していた俺に目をやった。

「…よ、よぉ!本条!久し振り!」

 俺は緊張で汗ばんだ右手を軽く上げた。

 本条は――――……少しだけ、フッと笑った。

「あぁ、久し振り」

 一言そう言うと、すぐにアキさんに視線を移した。

 アキさんは相変わらず美人よって言ったけど…アキさんは毎日本条の事見てるから気付かないのだ。

 本条は明らかに…美人度を増していた。


 しばらくして本条の兄、有治さんも帰って来た。

「やぁ、中島君。久し振りだね」

「ご無沙汰してます。すいません、今晩お世話になります」

 俺の言葉に有治さんは優しく微笑んだ。


 食卓には天ぷらをメインに里芋の煮物、茄子の煮びたしなどなど…お袋の味が並んだ。

「…本条はいいよな…」

 俺はあまりの美味さに思わず感嘆の声を漏らした。

「何だよ、お前…」

 本条が半分呆れたように言った。

「アキさんの手料理久し振りだから感動してるんでしょう?」

 麻衣子が笑いながら言った。

 俺は遠慮する事なんてキレイさっぱり忘れて、黙々と食べ続けた。

「裕ちゃん!ゆっくり食べないとダメだって!」

 麻衣子が俺のグラスにビールを注ぎながら口を尖らせた。

「中島君、デザートもあるから考えて食べてよ」

「はい!了解しました!」

 アキさんの言葉に俺は元気に返事しながらビールを飲んだ。

「…お前見てると食欲なくなるよ…」

「は?何だよ、本条!お前は毎日こんな美味いの食べてるから有難さが分からないんだよ!」

 俺はウザそうな顔で俺を見る本条を睨みながら、サクサクに揚がったエビフライを頬張りながら言った。


 アキさんに言われた通り腹八分に抑え、アキさんの手作り“マロンケーキ”を食べた。この“マロンケーキ”がまた絶品だった。

「美味しい!アキさんこのケーキの作り方教えてくれませんか?」

 麻衣子が瞳をキラキラさせながら言った。

「もちろん!待って、紙に書いてあげるよ」

 そんな2人の会話を聞きながら、俺は濃い目のコーヒーをすすった。

「…あっ、言うの遅れたけど…本条、結婚おめでとう」

「…ありがとう…」

 本条は呆れたように笑いながらコーヒーをすすった。

「お!珍しい!本条の口からありがとうなんて聞けるなんて…びっくりだな〜」

「あ?」

「お!?どうした?顔赤いぞ?」

 本当に珍しく頬を赤めた本条に、俺は驚きと感動が込み上げた。

「中島君、もっと言ってやってよ」

 有治さんが面白そうに冷やかした。

「…兄さん」

 本条はムッとした表情でコーヒーを飲み続けた。

「もう!裕ちゃんも先生もそれ以上言ったら本条君可哀そうでしょ!」

 麻衣子の言葉にアキさんが恥ずかしそうに笑っていた。






 アキさんが準備してくれた来客用の部屋(広い家には客室がある)で、麻衣子と2人で寛いだ。疲れていたのか、俺の腕の中で麻衣子はあっという間に眠ってしまった。俺は喉が渇き、麻衣子を起こさないように静かにベッドから抜け出し1階へと下りた。

 勝手に台所の電気を付け、コップを探した。

「―――どうした?」

 背後からの声に俺の身体がビクッと動いた。

「…あぁ、びっくりした〜…いや、喉渇いてさ。悪い…人ん家の台所うろついて…」

「いや…別にいいけど…」

 本条はそう言いながら食器棚からグラスを2つ取り出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して注いでくれた。

「ありがとう」

 俺と本条は椅子に腰を下ろして静かにグラスの水を飲んだ。

 シンと静まり返った屋敷の空気を肌で感じながら、俺は本条を見つめた。本条はどこか違うトコに視点を集中させたまま黙って水を飲み干した。

「…少し痩せたな」

 本条がぼそっと呟き、ゆっくり俺を見た。本条の瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいて、俺は思わず息を呑んだ。

「そ、そうか?」

「…うん。仕事大変か?」

「…まぁね…でもお前ほどじゃないよ。多分…」

 俺の言葉に本条は苦笑した。

「そうやって僕と比べるの、もうやめろよ」

「え?…」

 本条はグラスをテーブルに置き、腰を上げた。食器棚の横の棚からウィスキーの瓶を取り出し自分のグラスにそのまま注いだ。

「飲む?」

「え?あ、あぁ!飲む!」

 俺がそう言うと、本条は俺のグラスにウィスキーを注いでくれた。

 2人でちびちびとウィスキーを口に運びながら…俺は考えていた。それはずっと前から考えていた事だった。

「……あのさぁ…本条…」

「あ?…」

 俺はグラスをテーブルに置いて、本条を見た。本条は横目で俺を見ていた。

「…辛くないか?」

 本条が少しだけ怪訝そうに眉間にしわを寄せた。

「辛くないか?そんなに…アキさんの事想ってて…辛くならないか?」

 シンとした空気が一瞬、動いたように思えた。どう動いたのか…そんな事分からなかったけど…本条の周りの空気がザワッと動いたように感じた。

「…どういう意味?」

 本条が身体を向き直し、真っ直ぐに俺を見た。

「…正直、お前見てると…なんか痛々しくてさ…いや、結婚決まったのにこんな事言うの失礼だな!ごめん、ごめん!」

 俺は慌てて残りのウィスキーを飲み干した。

 なんでこんな余計な事言ってるんだよ!俺!  と、俺は心で叫びながら…恐る恐る本条を見た。

 本条は悲しそうに…でも何とも言えない和やかな表情で微笑んでいた。

 信じられないくらい…綺麗な微笑みだった。

「…辛そうに見える?」

「え…あ、うん…いや、本当ごめん!変な事言って…」

「いや…いいんだ」

 本条はそう言うと、また視線を遠くにずらした。そして、ポツリと呟いた。

「……息が詰まりそうになるんだ…」

「え?」

 しばらく、沈黙が続いた。その間本条は遠くを見たまま何か考えているようだった……いや、間違いなくアキさんの事を考えていた。

「…なんで?」

 俺の言葉に本条は小さく笑いながら首を横に振った。

「分からない。分からないけど……たまにアキと2人でどこか遠くへ行きたくなる…誰も知らない遠いトコに行って……」

 そう言って本条は静かに笑った。

「…俺もそう考える時あるぞ」

 本条は少し驚いたように俺を見た。

「俺はよく考えるんだ。麻衣子にとって俺は本当に相応しいのか?…そんな事考えてたらなんか何もかもどうでもよくなって、仕事の事なんか忘れて、周りの人間の事なんか考えないで、麻衣子の言葉なんか聞かないで…2人でどっかで生きてみたくなるんだよな…まぁ、ちょっとした現実逃避かな?」

 ヘヘヘっと、俺は笑いながら言った。

「…へぇ〜…」本条が珍しく声を上げて笑った。ククっと、短くだけど。

「僕も、そんな風に考えてる」

 本条はまたグラスにウィスキーを注いでくれた。

 2人で仕事の事とか、お互いの愛しい人の事とかを結構赤裸々に語りながらちびちびとウィスキーを飲んだ。

 そしてそのままどっぷりと眠り込んだ。目が覚めると俺はソファに横になっていた。身体には薄い毛布が掛けてあった。台所からはコンコンコンという野菜を切る音と、コンソメスープの良い香りが漂ってきた。チーンというトースターの音がしてすぐに香ばしいパンの香りも漂ってきた。

「あ!裕ちゃん!おはよう!」

 台所から麻衣子が顔を出し、いつものように可愛く笑った。

「あれ?俺何でここで寝てんの?」

「覚えてないの!?夜中本条君と飲んで潰れちゃたんだよ。そのまま寝ちゃったから本条君がソファに寝かせてくれたんだって」

「マジで!?…」

 俺はまたやってしまったと、がっくりしながら時計を見た。6時少し過ぎていた。

「おはよう、中島君。よく眠れた?」

 アキさんが笑いながらテーブルにランチョンマットとサラダボールと取り皿を並べた。

「はぁ…すんません…またやっちまいました。…あの、本条は?」

「ケイ君ならまだ寝てるよ。そろそろ起こさないとね…」

 そう言いながらアキさんは居間を出て2階へと上がって行った。




 朝食もかなり美味かった。二日酔いするほど飲んでいなかったからアキさん手作りのパンを3つも平らげた。


「本当にお世話になりました」

「気にしないで、また来てね」

 俺の言葉にアキさんは微笑んだ。

「式の日時、決まったら連絡下さいね」

「うん、分かった」

 アキさんは頷きながらすぐ後ろに立っていた本条に目をやった。

「…来年になると思うから。1月かなぁ…」

「1月ね」

 本条の言葉に、麻衣子は嬉しそうに頷きながら俺を見た。

「その時にまた家に泊まったらいいよ。なぁ、ケイ、アキちゃん」

 有治さんがそう言うとアキさんが

「そうよ!そうしなよ!ね、ケイ君」

 本条は黙ったまま小さく頷いた。


 アキさんが門のトコまで見送りに出てきてくれた。

「中島君、あんまり無理しないで仕事頑張るんだよ!」

「はい…あの麻衣子の事よろしくお願いします」

 俺の言葉にアキさんがくすくすと笑った。

「今ね、アキさんにお料理教わってるのよ。まだ身に付くまで時間かかるからね!だからゆっくり仕事頑張ってよ!」

 麻衣子が頬を赤めながら言った。

「はい、はい…」俺は笑いながら言った。そして微笑んでいたアキさんを見つめた。

「アキさん…」

「?うん?」

 アキさんは不思議そうな顔で俺を見た。

「本条の事、よろしくお願いします…」

 俺の言葉に、アキさんと麻衣子が驚いた表情をした。

「何言ってるの?裕ちゃん?」

 麻衣子が苦笑しながら言った。アキさんも苦笑してたけど……

「中島君、たまにはケイ君や私にも会いに来てね。待ってるから…」

 アキさんはそう言うと優しく微笑んだ。

 その微笑みを見て俺は何となく理解した。

「はい、また必ず遊びに来ます!」

 俺の言葉にアキさんは、本当に嬉しそうに微笑んだ。


 本条はこの笑顔を独り占めしたくて、仕方無いのだ。




「――――本条君と何か話せた?」

 駅の待合室で麻衣子が訊いてきた。

「うん…まぁね…」

 俺の言葉に麻衣子はくすくすと笑った。

 乗る予定の新幹線の到着を知らせるアナウンスが流れてきた。俺と麻衣子は徐に腰を上げ待合室を出た。

「学校の方大丈夫か?」

「うん。少し遅れるって言ってあるから大丈夫よ」

 そう言いながら麻衣子は俺に手土産を差し出した。

「学校の方落ち着いたら今度は私がそっちに遊びに行くからね」

「おう!親父もお袋も喜ぶよ」

「本当に無理しないでよ、裕ちゃん!」

「分かってるって!麻衣子も仕事頑張れよ!」

「うん!」

 新幹線の出発時刻を知らせるアナウンスが流れ出した。

「…麻衣子…」

「うん?」

 俺達の横をスーツ姿のサラリーマンが何人か忙しなく通り過ぎ、改札口に吸い込まれるように流れて行った。

「…麻衣子の親父さんに認めてもらえるように俺頑張るからさ…だからそれまで絶対待ってろよ!」

 麻衣子が微笑みながら俺を見つめた。

「もちろん、待ってるよ」

 俺は麻衣子の唇にキスをして、麻衣子の細い身体を抱きしめた。行き交う人々の視線を感じながら俺達はしばらくの間そのまま動かなかった。














2008年12月


 今日という日は、私達にとって大事な一日となる――――――


 私はソワソワしながら居間のソファに腰を下ろし、ケイ君の帰りを待った。

 今日は私の29回目の誕生日。そして……


 玄関のドアが開いた。

「ただいま!アキ!」

 ケイ君の元気な声が響いた。

「お、お帰りなさい!」

 私はコートとバックを持って玄関へ急いだ。

「ごめん、遅くなったね!行こうか!」

「うん!」


 車に乗り込み、ケイ君がエンジンキーを回した。

「よし!出発!」

 そう言うとケイ君はアクセルを踏み、車はゆっくりと動き出した。


 ケイ君の運転する車は車道を軽快に走っていた。車の中で手を繋いだまま、私は窓から流れるように通り過ぎる景色を眺めた。12月の風は刺すように冷たく、行き交う人々は白い息を吐きながらコートの襟を立て足早に歩いていた。空は厚い雲で覆われていて今にもちらちらと雪が降り出しそうだった。

「…寒くない?」

 信号待ちの間ケイ君が私に訊いてきた。

「寒くないよ」

 私はそう言いながらケイ君を見た。ケイ君は今日もやっぱり美人だった。


 こんな綺麗な人と結婚するんだ…


 私はぼぉ〜と夢見心地になっている事に気付き、慌てた。

「…どうした?」

 ケイ君がキョトンとした顔で訊いてきた。

「なっ何でもないよ!」





 役所の人の仕事は本当に機械的だった。提出した婚姻届とその他の書類を事務的に確認して

「今日付けで受理致しました。おめでとうございます」

 と、一言言ってあっという間に終わってしまった。

 あんまり呆気なくって少しだけ拍子抜けしてしまった。それはケイ君も同じ心境だったようで

「……なんか、呆気ないなぁ…」

 と、呟いた。


 それからケイ君が予約してくれたレストランで食事をした。店内は落ち着いた雰囲気でとてもお洒落だった。オルゴール調のBGMを聞きながら、私達はエスプレッソコーヒーをすすった。

「今日、兄さん清子さんのトコ泊まるって」

「え?そうなの?」

「うん。僕達に気を遣ったんだよ」

 ケイ君の言葉に私の頬が熱くなった。そんな様子の私を見てケイ君はくすくす笑い出した。

「アキ…」

 ケイ君はそう言いながらジャケットの内ポケットから長方形の包みを取り出し、私に差し出した。

「?え?何?」

「開けてみて」

 私はその金色の包みのリボンをほどき、包装紙をはがした。中から白いベルベット調の長方形の箱が出てきた。

「ケイ君、これ…」

「プレゼント」

「え!そんな…もうケイ君からたくさん貰ってるよ…」

 私は潤み出した目でその箱を見つめた。

「いいから開けてみて」

 私は込み上げる涙を堪えながら蓋を開けた。中にはシルバーネックレスが入っていて、チャームの小さなダイヤがキラッと光った。

「それ、今日から毎日肌身離さず付けててほしいんだ」

「え?」

「指輪じゃないから仕事中でも付けれるだろ?」

 ケイ君はそう言うと微笑んだ。

「うん!ありがとう、ケイ君」

 私はその場でそのネックレスを付けようとした。が、慣れないせいかなかなか付けられなかった。ケイ君が苦笑しながら椅子から腰を上げた。

「あっいいよ!家に帰ったら付けるから!」

「ダメだよ。今付けてほしいんだ」

 ケイ君は私の後ろに立ち、ネックレスを付けてくれた。店内の人達の視線を感じ、私はかなり恥ずかしかった。

「…似合う?」

「うん。よく似合うよ」

 ケイ君は穏やかに微笑んだ。



 屋敷に帰って来たのは夜9時前だった。私はケイ君がすぐにお風呂に入れるように浴槽にお湯を溜めた。

「ケイ君、お風呂いいよ」

「うん…」

 ケイ君は見ていた新聞を畳み、ソファから腰を上げた。

「タオル持って来るから…」

 そう言いながら行こうとした私の腕をケイ君は掴んだ。

「!え!?何?」

「一緒に入る?」

 ケイ君の言葉に私は頭がクラクラした。

「なっ何言ってるのよ!お風呂は絶対イヤ!」

「何で?」

「何でって…イヤなものはイヤなの!」

 顔から火を出しながら私は慌てて2階へと上がった。

 心臓がドクドク鳴っていた。

 結婚したというのに…こんなんじゃ先が思いやられるよ…… と、勝手な事を思いながらタンスの引き出しからケイ君の着替えを引っ張り出した。

 

「……ケイ君…タオルと着替えここに置いとくね」

 私は浴室にいるケイ君に呼び掛けた。

「…ねぇ、本当に一緒に入らない?」

「はっ入らない!」

「何で?」

 今日のケイ君はなんだかしつこいなぁ…

 そんな事考えてたからケイ君の言葉に答えないでいると、いきなり浴室のドアが開き、私は腕を掴まれそのまま浴室へ引きずり込まれた。

「わぁ!!キャァァ!!」

 ケイ君は私を抱え、服を着たままの私を浴槽に投げ込んだ。

「なっ!何するのよ!!」

 全身びしょびしょになった私を見ながらケイ君はケラケラと笑い出した。

「せっかく夫婦になったんだもん、風呂ぐらい一緒に入ろうよ!」

「しっ信じらんない!!」

「怒らない。怒らない」

 ケイ君はそう言いながら私が着てたカーディガンのボタンを外し始めた。

「ちょっ…イヤだって!」

 もう恥ずかしくて泣いてしまいそうな私にケイ君が言った。

「何で?何がそんなにイヤなの?」

「……それは…」

 そう言いながら視線を下に向けた。ケイ君の裸が目の前にあり、私は思わず上を向いた。

「なんだよ!初めて見るモンじゃないだろ!」

「こっこんな明るい場所で見るのは初めてだもん!!」

 私の言葉に、ケイ君の目が点になった。

「…もしかして…今まで一緒に風呂に入ってくれなかった理由がそれ?」

 私は恥ずかしさのあまりケイ君に背を向けた。

 ケイ君はくすくすと笑いながら立ち上がり、洗面所の照明を点け、浴室の照明を消した。

「え?え?何?」

 私はいきなり暗くなった浴室を見渡した。

「これぐらい暗かったらいいだろ?」

「えぇ!!」

 オロオロし出した私の事なんかお構いなしに、ケイ君はカーディガンのボタンを外そうとした。そうしながら、ケイ君は大きなクシャミをした。

「…アキが駄々こねるから風邪ひきそうじゃん…」

 そう言いながらまたクシャミをした。

「わっ分かった。自分で脱ぐからケイ君は早くお湯に浸かってよ!」

 私は浴槽から出て洗面所で服を脱いでタオルを身体に巻きつけ、恐る恐る浴室に入った。

「足元気を付けないと滑るよ」

 ケイ君はそう言いながら手を差し出した。私はその手を掴み、滑りそうになりながらもなんとかシャワーの前に腰を下ろした。

「…ボディソープ…」

 暗くてボディソープの場所が分からない。

「ほら、ここここ。」

 ケイ君がスポンジにボディソープを付けてくれた。私はスポンジにしみ込んだボディソープをぶくぶくに泡立て、身体を洗いながら薄暗い浴室を見渡した。なんだか不思議な雰囲気だった。いつも見ている場所なのに、違うトコにいるような感じがした。

 私がいつまでも身体を洗っていたから、ケイ君がシャワーを勢いよく出して泡を流し始めた。

「うわぁ!!」

「早く入らないと風邪ひくぞ!」

 私は1回クシャミしてからお湯に浸かった。冷えた身体にじぃ〜んと熱いお湯がしみ込んで、身体中がホッとした…と、入浴剤のCMのような事を考えながら…ケイ君がじっと私も見つめているのに気付いた。

 薄暗い中、横からの弱い明りがケイ君の輪郭をおぼろげにさせた。それでも…それでも、ケイ君の肌のキメ細やかさは際立っていて…私はケイ君の澄んだ綺麗な瞳の中に吸い込まれていた。

 お湯が揺れ、弱い光がゆるゆると動いた。それに合わせてケイ君の瞳も揺れているようだった。その瞳に見惚れながら…私は全身の力が抜けそうになっていた。

 ケイ君の息を頬に感じ、ケイ君の唇が私の唇に触れた時、私はハッと我に返った。

「わぁ!!何するの!!」

「え?何って…キス…」

「ここはお風呂場よ!先生も使うのよ!」

 私はまだボーとした頭を振りながら、必死に抗議した。

「…はいはい、分かったよ…」

 ケイ君は諦めたように言うと、小さくため息を吐いた。

「少しのぼせちゃったよ…先に上がるから」

 ケイ君はそう言うと浴室から出て行った。私もケイ君が着替え終わってからお湯から出た。


 すっかりふやけてしまった指にハンドクリームを必死に塗り込みながら、私の部屋のベッドの上で辞書みたいな分厚い本を読んでいるケイ君を見た。

 本当にこんな綺麗な人と結婚したんだな…


 そんな私の視線に気付き、ケイ君が苦笑した。

「…ネックレス、何でしてないの?」

「え?あぁ、お風呂入ったからね」

「おいでよ、付けてあげる」

 私はケイ君にネックレスを渡し、ケイ君の前に座った。

「ねぇ、ケイ君」

「うん?」

「明日、私の親のお参りに行かない?」

「明日?」

「うん…ケイ君が仕事終わってから…早くお父さんとお母さんに結婚の事報告したいの…ダメかな?」

 ネックレスを付けていたケイ君の手が私のお腹の前にきた。耳元からケイ君の吐息が聞こえた。

「ダメじゃないよ。一緒に行こう」

 ケイ君はそう言うと私を強く抱きしめてくれた。

「…うん…良かった…」

 私はそう言いながら、耳元から感じるケイ君の鼓動にドキドキしていた。

 やっと夫婦になれたという喜びと戸惑いが、私の心の中で激しくぶつかり合っていた。

 ケイ君の細い長い指が私の胸に触れた時、私の身体がビクッと反応した。

「…ケ、ケイ君!何か飲まない?ホットミルク飲む?」

 私は恥ずかしさのあまり、ケイ君の身体から離れようとした。でもケイ君の手はしっかりと私の腕を掴んでいた。

「いらない。いらないから動かないでよ…」


 ケイ君の唇が耳から目、鼻に流れ…私の唇を塞いだ。ケイ君の細く長い指が背中に回され―――――私のすべてがケイ君とひとつになった。








 アキの火照った耳たぶも頬も…真っ直ぐな瞳も小さな鼻も…唇も―――――

全部僕のものだ。



 アキは僕のものだ。





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