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天使の微笑み3

君のために僕は詠う。

天使の微笑み 3




 曄が日本へ帰国してから2か月が経っていた。帰国してすぐにプロジェクトの第一段階である<人口受精>を終了し、曄はすぐに妊娠した。


「―――曄!!」

 大学病院の敷地内にある小さな公園のベンチで本を読んでいた曄の所に、友人であり今回のプロジェクトを頼んできた浅井あさいかおるが駆け寄ってきた。

「ここにいたのね」

「どうしたの?そんなに慌てて…お!やっとつけてくれたのね」

 曄は薫から漂う香水の香りに微笑んだ。

「えぇ、フィレンツェの香りもなかなかね。ところで、今日の夜空いてる?お祝に夕飯でもごちそうしようかと思ってね」

「お祝?」

 薫の言葉に曄は首を傾げた。

「ご懐妊のお祝いよ!」

「…あぁ…第一段階成功のお祝いね」曄は苦笑した。「じゃぁ、奮発してもらおうかしらね」

「任せてよ!曄には元気な子供産んでもらわないといけないんだからね!」

 薫はそう言いながら胸を叩いた。

「ただね、今日は無理なの。明日の夜でもいいかしら?」

「えぇ、私は大丈夫よ。そうしたら明日研究室まで迎えに来るわ。6時ぐらいでいい?」

 薫の言葉に曄は笑顔で頷いた。





 薫が立ち去った後、曄は本を閉じ、同じリズムで鳴き続ける蝉の声を聞きながら澄み切った夏空を仰いだ。

 曄は帰国してから美成里の一族の事を誰にも気付かれないように調べ尽くしていた。だが、美成里の一族おろか美成里の存在すら確認出来ずにいた。


 言いようのない不安を感じながら、曄はあの小さな町で出会った美成里や凛と過ごした時間が現実のものだったという証を探し続けた。




「――――薫、ちょっとお願いしたい事あるんだけど…」

「うん?何?」

 口の端をナプキンで拭いながら薫は言った。

「…本条教授とお話したいの。…個人的な事なんだけどね…時間を作ってもらえるように薫から頼んでもらえないかしら?」

「そんな事お安いご用だけど…何かあったの?」

 曄は苦笑しながらレモン水の入ったグラスを口へと運んだ。

 薫はしばらくの間、そんな曄を見つめた。

 静かなBGMが流れる店内をボーイがせわしなく歩き回っていた。テーブルの中央に置かれたキャンドルの淡く揺れる炎を見つめながら薫は小さく息を吐いた。

「フィレンツェで何かあったの?」

 薫の言葉に、曄はギクリとした。

「なんか…帰って来てから様子がおかしいからね…どうしたのかな〜て思ってたの。……言いたくなければ言わなくていいけど…」

 薫は微かに笑いながらワインを一口飲んだ。

「…ごめん…今は何も聞かないで…」

 曄の呟くような言葉に薫は静かに頷いた。

「分かったわ。こっちこそごめんなさい。余計な詮索したわ…本条教授にはすぐ話してみるから待ってて」

「ありがとう…薫…」

「気にしないでよ!あなたの頼みなら何だってきいちゃうわよ。…子供をおろす事以外ならね」

「…そんな事言わないわよ」

 曄は驚いたように言った。

 薫は苦笑しながら、ゆっくりと曄を見つめた。

「曄、あなたには本当に感謝してるわ。あなたからメンバーになるの断られたらどうしようって不安だったのよ…」

 曄は薫に<秘密>がある事に気付いていた。その<秘密>は、脳に障害のある薫の息子に関係しているのだろうと考えていた。だが、薫からは

『私には21の時に産んだ子供がいるの…その子、脳に腫瘍があってね……』

 までしか聞いておらず、曄からはそれ以上は訊かないでいた。

「子供はちゃんと産むから心配しないで。これからが大変なんだから、お互い気を引き締めないとね!薫!」

「えぇ…」

 曄の言葉に薫は微笑んだ。






 薫からマンションまで送ってもらい、曄はすぐにシャワーを浴び、汗を流した。

 濡れた髪にタオルをあてながら、曄はグラスにウィスキーを少量注いだ。ゆっくりとウィスキーを口へ運びながら、曄は部屋の窓ガラス一面の夜空を眺めた。

 そして、美成里の事を考えた。


 耳から首筋にかかる美成里の吐息の感覚が、まだ生々しく残っていた。汗ばんだ背中の広さも、油断していると吸い込まれてしまいそうになる澄んだ瞳も、そして…あのあまりにも美しい笑顔も―――――あの町の出来事は決して夢なんかじゃない。夢であるはずがない。


 曄は心の奥底で燻る<不安>を抑えるように、ウィスキーを飲み干した。喉から食道が熱くなるのを感じながら、静かに自分の腹部をさすった。


―――――だって、曄は僕以外の男の子供を産むんだから―――――


「…君は…いつ私に逢いに来てくれるの?……」

 曄はそう呟くと、静かに息を吐いた。









「――――先生!池上先生!」看護師が慌てた様子で駆けて来た。「い、院長先生が至急院長室へ来るようにと…」

<…またか…>

 曄はうんざりしながら、オロオロしている看護師を見た。

「分かりました。すぐ行きます」

 曄が笑顔で答えると、看護師がホッと安心したように微笑した。

 その時、廊下の突き当たり右側からカッカッカッというヒールのけたたましい音が響いた。

「ちょっと!沢渡さん!あなたこんな所で何やってるの!?頼んでおいたカルテはいつ持って来てくれるのよ!?」

 薫の甲高い声に、看護師が顔色を青くさせた。

「すっすいません!今すぐお持ちしますので…」

 そう言いながら看護師は慌ててその場から駆け出した。

「…沢渡さん、私に院長からの伝言伝えに来てくれたのよ。いきなりそんな言い方ないんじゃない?」

「何言ってるのよ!私、昨日から言ってるのよ。105号室の患者さんのカルテ持って来てって。それだけよ。それだけの事に彼女丸1日かかってるのよ?信じらんないわ!」

 薫は両手を上げ、目を大きくして言った。

「きっと忘れてたんだわ。許してあげなさいよ。…あなたのお蔭で私まで怖がられてるじゃない」

「ちょっと〜…今朝、あの鬼婦長と喧嘩したの誰?」

 薫の言葉に曄は苦笑した。

「あれは仕方無かったのよ。あの婦長が強情なんだから…」

 そう言うと、曄は薫から漂う香水の香りに気付いた。

「…今日の香りはあなたのオリジナル?」

「そう!分かる?良い香りでしょ?」

「…そろそろ私、その香りで悪阻つわりがおきそうよ」

 曄の言葉に薫は口を尖らせた。

「フィレンツェの香りも良いけど、私は自分のオリジナルが好きなの!」

「そうですか…」

 曄は半分呆れ顔で言った。

「ところで、本条教授の事だけど…ごめんなさい、まだ研究に没頭しててすぐには時間作れないみたいなの」

「そう…なら仕方無いわ。本条教授が落ち着くまで待ってるわ」

「曄の用事ってそれでも大丈夫なの?」

「えぇ、大丈夫よ…」

≪…まだ何もつかめてないからその方がいいわ≫

 曄はそう思いながら小さく息を吐いた。

「それともう1つ―――――そろそろ休暇取らないと、お腹が目立ってくるわよ」

 薫の言葉に曄は頷いた。

「ちょうど院長から呼び出し食らってたからその時に言うわ」

「また論文よこせって言われるわよ!下手したら講演会のスピーチの原稿も準備しろって言われるんじゃない!?」

 薫は息を荒くして言った。

「多分ね…」

 曄はそう言うと廊下を歩き出した。薫も曄の後に続いた。

「それでいいの?あなたの論文、ほとんど院長の名前で発表されてるじゃない!」

「それでいいのよ。だって私の名前で発表しても誰も注目なんかしないでしょ?そしたら院長の名前で出して私の論文が“形”になる方がいいもの」

「あなたって…」

 薫はそう言いかけて、言葉を詰まらせた。そんな様子の薫に曄は苦笑した。

「馬鹿でしょ?」













 都心から大分離れた山の奥に、その白い建物は建っていた。ひっそりと静まり返った自然と馴染むように建つ建物の中へ、薫は正面入り口から入った。

 広々としたフロアをカッカッカッとヒールの音を響かせながら、薫はエレベーターの前で立ち止まった。

「―――――奥様、トップがお目覚めになりました」

 薫のすぐ脇に現れた黒装束の男が言った。薫はその男を横目で見た。

「大神から聞いたわ。着替えてくるから少し時間をちょうだい」

「畏まりました」

 男はそう言うとフッと姿を消した。

 薫は小さくため息を吐いて、下りてきたエレベーターに乗った。




「―――――久し振りだな、薫」

 頭から足先まで包帯を巻かれた状態の浅井は、クックッと笑いながら薫を見た。包帯の所々から血が滲んでいた。点滴がゆっくりとチューブをつたい、浅井の腕に射された針から浅井の身体へ入っていった。人工呼吸器の音か部屋中に響いていた。

 薫はそんな状態の浅井をゆっくり眺めた。

「…随分な有様ね」

 薫はクスクス笑いながら言った。

「あのまま死んでくれればよかったと思っただろ?」

「えぇ、そう願ってたのに…残念だわ」

 薫の言葉に浅井は低く唸りながら苦笑した。

「私も…今度ばかりはもう駄目だと思ったよ…しかし、こうやって助かった」

 薫は静かに浅井を見つめた。

「…一体何があったの?あなた程の男がこんなになるなんて…一体誰にやられたの?」

 浅井はまたクックッと笑い、血の滲んだ包帯に巻かれた自分の身体を見つめた。

「誰にやられたなど、もうそんな事は問題ではない」

 カタカタと部屋の窓ガラスが揺れた。

「私はついに勝ったのだ。あの男に勝ったのだ。だからこうやって生きているのだ。…分かるか?薫。最後に死ねば負けになり、生きていれば勝ちになるのだ。もう誰も私を止める事は出来ない…」

 ゆっくりと薫に視線を向けた浅井の眼が薄らと光った。薫は背中から這うような恐怖を感じながら浅井を見つめた。

 浅井はそんな薫の心境を見透かしたように薄らと笑った。

「海斗はどうしている?」

「え?」

 浅井の言葉を薫はすぐに理解出来なかった。

「海斗は元気か?」

「あ、…えぇ、元気よ。体調の方も落ち着いてるわ」

「…そうか…」

 浅井は頷きながらそう答え、また血の滲んだ包帯で巻かれた自分の身体を見つめた。

「私の身体がもう少し回復したら海斗に会いに行くか…」

 浅井の言葉に薫は答えなかった。










 曄は<休暇願>ではなく<退職願>を院長に出した。院長は顔を真っ青にさせながら曄を説得した。けれど、曄は自分の意思を貫いた。

 数日後、曄は薫がマンションまでよこしたベンツに乗り込み、薫の待つ<施設>へと向かった。


 曄を乗せたベンツは都心を抜け、西へと走った。そして山手へ近付くと車窓からは青々とした自然が流れた。

 曄は揺れる瞳で、流れ行く光景を見つめていた。


 高級ホテルのエントランスを想わせる広々とした<施設>のホールに置かれた革張りのソファに座っていた薫は、入り口の自動ドアから入って来る曄に気付き、笑顔で手を上げた。

「…ここ、本当に施設?ホテル貸し切ったんじゃないの?」

 周りをキョロキョロ見渡しながら曄は言った。

「貸し切ったんじゃないわよ。造ったの」

 あっさりと言った薫に、曄は唖然とした。

「さっ、部屋まで案内するわ」

 エレベーターに乗り、5階へ上がった。真っ白い壁に映える赤を基調とした絨毯の上を薫と共に歩きながら、曄は小さくため息を吐いた。

「ここがあなたの部屋よ」

 薫はカードキーでドアを開け、曄に入るように促した。

 部屋の広さはマンションの4LDK並みで、壁は白色に統一され、生活に必要な家具はもちろん、さまざまな最新の電化製品が完備されていた。

「何か他に足らない物があったら言ってね」

 薫の言葉に曄は苦笑した。

「私のマンションに無いのもあるのよ。足らない物なんて無いわよ」

「ならいいけど……」薫はそう言いながら微笑した。「もし体調が優れない時は…ほら、このボタン押してね。このボタン浴室と寝室にもあるから。施設の2階が医療施設になってて、24時間体制でスタッフがいるから心配要らないわ。それから出掛ける時は1階フロアのスタッフに声を掛けてね。ハイヤー手配するから。食事も専門のシェフが3食準備するようになってるけど…たまには外にご飯食べに行きましょうよ。迎えに来るから。…それから…」

 そう言いかけた薫の口を曄は遮った。

「分からない事がその都度訊くから…」

「え?…あぁ、そうね。ごめんなさい、なんかちょっと興奮しちゃって…」

「何で薫が興奮するのよ」

 曄は思わず吹き出した。

「だって…曄の子供が産まれるのよ!興奮しないワケないじゃない!」

「まだ先の話よ…」曄は呆れたように言った。「ところで…この施設には他に誰かいるの?」

「えぇ…曄を入れて3人の女性が暮らす事になるわ。でも顔を合わせないようにしてるから心配しないで」

「顔を合わせないようにしてるって…まさか部屋の中にも監視カメラがあるの?」

 曄は眉間にしわを寄せ、部屋を見渡した。

「部屋の中にはカメラなんか設置してないわ!そりゃぁ…この部屋以外の場所には設置してるけど…それは曄達の安全のためなのよ!信じてよ!」

 必死に言う薫に、曄は苦笑した。

「分かってるわよ、あなたを信じてるわ」

 曄の言葉に薫はホッと胸を撫で下ろした。






 こうして、曄の<施設>での生活が始まった。

 朝は今までと同じ時間に起床し、部屋で完璧に栄養計算された朝食を済ませ、<施設>内にあるジムでトレーナーの指導の下、軽く汗を流した。そしてまた完璧に栄養計算された昼食を済ませ、1階フロアのスタッフに言ってハイヤーを準備してもらった。ハイヤーに乗り込み、都心へ向かった。

 ハイヤーを降り行ってしまうのを確認してから図書館、区役所などの様々な施設へ徒歩やバスで移動し、美成里一族の事を調べ尽くした。

 また全く収穫の無いまま、曄は美成里からもらった懐中時計を開いた。


 <施設>に連絡し、迎えに来てもらい<施設>へと戻った。

 夜には薫が毎日のように<施設>に訪れ、夕食を共にした。薫が帰った後でシャワーを浴び、寝室の窓から広がる星空を仰ぎながら―――――

 美成里を想った。美成里を想いながら…曄は自分が涙を流している事に気付いた。温かい涙が頬をつたいながら流れ落ちた。


 美成里の存在すら分からないまま、時間だけが流れた。肌に残った美成里の体温だけが生々しく、一方で記憶の方はおぼろげになりそうだった。


『あなたに出会えて良かった』

 美成里の言葉が胸に響いた。そして私は混沌とした闇を彷徨い続けた。


 今君はどうしてるの?

 何を考えてる?

 私の事を――――想ってくれているの?

 想っているのなら、早く逢いに来て……


 早く、逢いに来て……










「――――こんにちは」

 <施設>の最上階にあるカフェ・レストランで曄は図書館で借りた文庫本を読んでいた。そんな曄の目の前にショートカットヘアの女性が笑顔で立っていた。

「あなた、5階で暮らしてる人でしょ?」

 屈託ない笑顔でそう言いながらその女性は、膨らんだ腹部に手を当てたまま曄の前の席に腰を下ろした。曄はしばらくの間言葉が出なかった。

「そんなに驚かなくてもいいでしょ?私、6階で暮らしてるあなたと同じ立場に妊婦よ。よろしくね」

「…っえ?…どうして?」

「どうしてここにいるかって?…ちょっとここのシステムいじったのよ。うまくいくまでにかなり時間かかったんだけど…やっとうまくいったわ。しかし…この<施設>造った人間ってただ者じゃないわね。ここのセキュリティー完璧だもの」

 その女性の言葉に、曄は思わず笑い出した。

「その完璧なセキュリティーをあなたはちょっといじってここにいるのね?」

 <施設>のスタッフ達が慌てた様子で曄達を見つめていた。そんなスタッフを横目で見ながら、曄は言った。

「そう。だって私天才だもの」

 その女性は両肩を上げ、微笑んだ。






「私ね、あるIT関連の会社に勤める天才プログラマーなの。あなたは?」

「私?…私は普通の研究所に勤める研究員よ」

 曄は苦笑しながら言った。

「研究員ねぇ〜…でもここにいるって事はかなり大きな研究所なのね!あなたは天才科学者なのね!」

 6階で暮らす女性はそう言うと、ホットココアをすすり始めた。

「あなた、いくつ?」

「歳と名前は訊いちゃダメ!分かっちゃったら面白く無いじゃん!」

 10代後半か20代前半か… 曄はそう推測しながら6階で暮らす女性を見つめた。

「ねぇ!あと一人この<施設>で暮らしてるの、知ってる?」

「知ってる」とは言えず、曄は首を横に振った。

「4階で暮らしてる人よ。3人の中では一番早く出産するみたい」

 6階で暮らす女性の言葉に曄は驚いた。

「そんな事も調べたの!?ちょっと大丈夫なの!?」

「大丈夫だって!だって昨日4階で暮らす人にも会ったもんね。本人から直接聞いたんだから問題ないでしょ?」

 6階で暮らす女性は平然とした表情でマロンケーキを口に運んだ。

「直接会った?本当に?」

「うん、本当。で、4階の人と今晩食事をするの。地下のレストランでね」

「へぇ〜…」

 曄は思わず感嘆の声を漏らした。

「良かったら、あなたも一緒にどう?」

「え!?私?」

「そう。世界を変えるであろう子供を産む女性同士、仲良くしましょうよ」







 ブラウンで統一された店内の壁にはイタリア人画家の絵画が1点飾られていた。穏やかに流れるクラッシックの雰囲気に包まれながら3人は店内の中央に置かれた席に着いた。

「――――久し振りね、池上先生」

 メニューを注文してボーイが席を離れた途端、4階で暮らす女性が曄を見ながら言った。突然の事に曄は動揺を隠せなかった。

「え!?何!?4階の人と5階の人って知り合いだったの?」

 6階で暮らす女性が目を大きくしながら言った。

「えぇ、1度だけ会った事があるの。ねぇ?」

「えぇ…」曄は観念したように苦笑した。

「なんだぁ〜!知らなかったのは私だけか…つまんな〜い!」

 6階で暮らす女性の言葉に曄と4階で暮らす女性は笑い出した。

「そしたらもう隠すこと無いよね?…私、6階で暮らす佐々木未来21歳よ」

「私は4階の吉田紗江子34歳」

「私は5階の池上曄…もうすぐ29になるわ」

 3人が簡単な自己紹介を済ませた時、ボーイが前菜を運んできた。

「2年前の講演会で会ったのが最初で最後なワケ?2人共よく覚えてたわね〜」

 未来は感心したように言いながら、生ハムメロンをフォークとナイフで食べやすい大きさに切り口に運んだ。

「まさか吉田先生とこんなトコで再会するなんて夢にも思いませんでしたよ」

「そう?―――私は分かっていたわ。池上先生もきっとメンバーに選ばれているってね」

 紗江子の言葉に曄は驚いた。

「え?どうして?」

「どうしてって?だってこのプロジェクトのメンバーは世界中の天才の中から選ぶのよ。私に話が来た時、間違いなくあなたも選ばれたんだって思ったの」

「…なぁに?ようちゃんてそんなに有名なの?」

 未来のキョトンとした言い方に2人は笑い出した。

「有名なんかじゃないわよ。吉田先生、冗談もその辺にしといて下さい」

「私は事実を言ってるのよ。未来ちゃんもパソコンばっかりやってないで少しは本も読みなさい」

 紗江子の言葉に未来は口を尖らせた。

 3人が賑やかに談笑していた時、店内に勢いよく空気が流れ込んだ。3人は同時に入り口に目をやった。入り口からすごい剣幕で薫が歩いてきた。

「一体どういう事!?あなた、何をやったの!?」

 眉間にしわを寄せ、薫は未来に言った。

「薫…いいじゃない、もう」

「よくないわよ!あなた、自分のした事がどういう事か分かってるの!?ここに来る前に言ったわよね?規則は守って下さいって!」

 薫の言葉に未来は苦笑しながら肩をすくめた。

「だってすごく退屈だったんだもん。それにちょっとしか変えてないのよ…監視システムを一部解除しただけよ。それ以上は何もしてないわ…何も出来なかったもの…本当よ、調べればすぐ分かるわ。それに…こうやって3人で楽しくお喋り出来たんだし…ねぇ?楽しかったよね?」

 未来の言葉に曄と紗江子は微笑んだ。薫は大きくため息を吐きながら天井を仰いだ。

「薫、本当に楽しかったのよ。ここだけの秘密にするからお願い、許して」

 曄はそう言うと顔の前で手を合わせた。薫は呆れたように両手を上げた。

「分かったわよ…もう!佐々木さん、こんな事二度としないでよ!」





「本当に驚いた。あの吉田先生もメンバーだったなんて…」一緒に部屋へ戻ってきた薫に曄は言った。「今更だけど…本当に私なんかでよかったの?薫」

 曄の言葉に薫は大きくため息を吐いた。

「あのね、曄。あの2人は自分達からメンバーに志願したのよ。まぁ、吉田先生は最初に話を持ち掛けたのはこっちだけど…佐々木未来は最初っから自分で言ってきたの。私は反対したのよ」

「どちらにしてもあの2人は選ばれたんでしょ?…私ね、勘違いしてたみたいなの。だって2人とも選ばれた事にとても誇りを持ってるのよ。私には誇りなんて少しも感じないわ…」

「もう…曄…何でそんな風に考えるの? 」

 薫はため息交じりの声で言った。

「だって…私は今でも分からないの…薫が何故私を選んだのか…確かに、このプロジェクトの指揮を務める本条教授にはとても興味があるわ。だからあなたの話を受けたのよ。でも…最近よく考えるの…そうやって産まれて来た子供は幸せなのだろうかって…私達大人が勝手に描いた理想郷を造り出すために、1人の人間の運命を決めてしまっていいのか…私にはそれだけの価値のある人間なのか…」

 曄はそこまで言うと、うつむいたまま小さくため息を吐いた。

「…曄…あなたは選ばれた人間よ」

「え?…」

 薫はソファに座っていた曄の前に膝をついた。

「あなた以外の人間の子供なんて必要ないわ」

 薫の言葉に曄は眉をひそめた。

「…薫?…」

「曄、あなたの子供は必ず世界を変えるわ。私には分かるの。あなたは神から選ばれた人間で…この子は、神の子よ」

 薫は曄の膝の上に顔を乗せ、曄の膨らんだ腹部をさすった。薫の言葉を聞いて、曄はあのトスカーナの小さな町で観た祭壇画を思い出した。

「この子は2人で育てましょう。大丈夫、心配しないで…私がついているわ」

 薫はしばらくの間、動かなかった。曄はそんな薫の肩に手を乗せたまま、言いようの無い不安を感じていた。








 12月に入って、紗江子が無事男児を出産した。そして年が変わり1月には未来も元気な男児を出産した。


「ねぇ、せっかくお友達になったんだもの!ここを出てからも会いましょうよ!」未来は笑顔で言った。

「そうね…池上先生も無事出産して落ち着いたら3人で食事にでも行きましょうか?」

「えぇ、そうしましょう。ここを出たら連絡するわ」

 曄の言葉に未来と紗江子は嬉しそうに微笑んだ。

 お互いの連絡先を教え、紗江子と未来は<施設>を後にした。2人がいなくなると<施設>は途端に静かになり、曄は寂しさを感じずにはおれなかった。



「――――曄、本条教授の時間空きそうなんだけど…」

 薫の言葉に曄は首を横に振った。

「もういいわ…ごめんね、薫」

「そう…気が変わったら言ってね。それより…もうすぐ出産なんだから身体には十分に注意してよね」

「分かってるって!」

 曄は笑顔で言った。















 春が近付くにつれ、<施設>の周りを囲む山々からは春の力強い芽吹きを感じた。<施設>の中庭に植えられた桜の木がピンク色の花びらをひらかせた。

 曄はピンク色の桜の木を見上げながら、月日の流れの速さを恐ろしく感じていた。そして徐に、着ていたワンピースのポケットから美成里から貰った懐中時計を出し、静かに開けた。懐中時計は“あの時”と変わらず正確に時を刻みながら動いていた。

「……美成里…」

 曄がそう呟いた時、曄の視界が一瞬揺れた。

「!!」

 今まで経験した事の無い痛みが腹部を襲った。

「…っあぁ!!」

 曄は桜の木にもたれ掛かるように倒れ込んだ。

「…痛っ…」

 激しい痛みに顔を歪めながら建物の中に目をやった。スタッフ達が曄の所へ駆け寄ろうとしていた。

 その時だった。

 曄は自分の背中に人間の手の温かさを感じた。その温かい手は曄の背中をゆっくりさすっていた。

 その手の温かさで、曄は痛みが和らぐのを感じていた。そして曄の瞳からは涙が溢れ、止め処なく流れた。




 1986年3月25日、曄は元気な男児を無事出産した。


「おめでとう!曄!元気な男の子よ!」

 薫の言葉に曄は嬉しそうに微笑んだ。

「…赤ちゃん見れる?」

「もちろん!待ってて…」

 薫はそう言うと看護師に声を掛けた。看護師はすぐに毛布に包まれた産まれたばかりの男児を両手に抱え、そのまま曄の腕の中へ渡した。


 その男児の顔を見て、曄の表情が一変した。


「……曄?…どうしたの?」

 小刻みに震えながら泣き出した曄に薫は驚いた。



 私の腕の中で澄んだ瞳を瞬かせながら、その子は私の親指をしっかりと掴んだ。私はまた―――――その澄んだ瞳に吸い込まれそうになった。

 美成里…美成里……

 私…やっと手に入れたわ。

 君が存在していた証を。私と君が愛し合った証を。




「…曄!具合でも悪いの!?」

「……薫…お願いが…あるの…」曄は涙で震える声を振り絞った。「…名前を…この子に名前を…」

「え?」薫は曄を見つめた。

 曄は溢れる涙を拭いながら微笑んだ。

「この子の名前はけいよ」





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