Power Song24
君のために僕は詠う。
Power Song24
太陽の光が高速道路のアスファルトを燦々と照らした。そのアスファルトからの照り返しで、6月に入ったばかりの日本列島は蒸し上がっていた。
男達の乗った数台の車はギラギラと黒光りしながら、高速道路を凄まじいスピードで走り抜けた。そしてそのままのスピードで一般道路へ爆音を立てながら侵入し、一般車両を隅へ蹴散らした。数台のパトカーが追いつく前に、男達の乗った車は一般道路から山手の方へと走り出した。木々を踏み倒しながら山道を走り抜け、開けた土地に立つ建物の前で砂埃を巻き上げながら停まると、車に乗っていた男達は続々と降りてきた。男達は次々に建物内へ入って行った。
「―――――来たわね…」
薫は最上階の部屋の窓から建物の正面入り口を見下ろし、ため息を吐いた。
大柄の男達は黒崎とグリーソンを囲むようにして、薫がいる最上階へと進んで行った。激しい銃声が建物内に響き渡った。薫はだだっ広い部屋の中央に置かれた革張りのソファに沈み込むように座り、自分の傍らに立つ大神、部屋の隅でタバコを吸っている智日と表情を引きつらせたままの久田を順に見た。
その時、部屋のドアが勢いよく蹴り倒された。バァァン!!と激しい音を立てながらドアが倒れた。白い埃がもうもうと辺りに立ち込めた。黒崎とグリーソンがドカドカと威勢よく部屋へと入ってきた。その後ろから友田と緑川も続いた。黒崎とグリーソンは薫と向かい合ったソファに腰を下ろした。
「随分派手な登場ね、黒崎」
薫の言葉に、黒崎はクククッと笑った。
「返事を聞きに来ましたよ、薫さん」
薫は黒崎の横でニヤニヤと笑いながら顎鬚を撫でているグリーソンの禿げ上がった額を見た。思わず苦笑しながら、傍らに立つ大神の方へ目をやった。
「返事?この間の<取引>の返事の事かしら?」
「もちろん」
黒崎は笑いながら、長い脚を組んだ。
「あなた、自分が何をしたのか分かってるの?」
薫の問いに、黒崎は首を傾げながら両肩を上げた。「何の事でしょう?」
「あなた、私の部下達の面倒もみると言ったわよね?それなのにこの2週間で部下の3分の2を始末してるじゃない?これってどういう事かしら?」
「あぁ、その事ね…」黒崎はそう呟きながら、部屋の隅にいる智日に目をやった。智日は鋭い目つきで黒崎を睨んでいた。「彼らは使い物にならないと判断したんだ。分かるだろ?薫さんの部下は役立たずだったんだよ。だから2週間でほとんど片付いたんだ」
「…くッ…」懐から拳銃を抜こうとした久田を、智日が止めた。黒崎は笑いながら智日を見た。
「約束が違うわね、黒崎」
「ん?だから?」
「だからこの<取引>は中止よ。永久にね」
薫はそう言って微笑んだ。黒崎は笑いながらグリーソンに薫の言葉を通訳した。グリーソンは青い目を見開いて、薫を見た。「冗談だろ?」と両手を上げた。
薫はクスクスと笑いながら、グリーソンの目を見て言った。「I mean it.(私は本気よ) 」
グリーソンは怪訝そうに眉間にしわを寄せ、薫を睨んだ。黒崎は笑いながらグリーソンの肩を叩いた。
「つまり、薫さん達は俺達を敵に回すって事か?」
「そういう事になるわね」
「…ふぅん…そう…」黒崎は面白そうに笑いながら、呟いた。「後悔しない?」
「しないわ」
「相変わらず、ハッキリしてるな〜…ケイは?本条ケイはどうするんだ?」
「どうもしないわ」
薫の言葉に、黒崎は首を傾げながら、大神の方へ目をやった。
「大神さんは?薫さんの考えに賛成なワケ?」
「―――あぁ…」大神はかすれた声で呟いた。
黒崎はやれやれ…といった感じで苦笑しながら天井を見上げた。
「まぁ、薫さんがそれでいいならいいけど…ただ、本条ケイは始末するよ。あのちっちゃい奥様もね」
智日の顔が強張った事に、黒崎は気付いた。ケラケラ笑いながら智日を見つめた。
「馬鹿だなぁ〜智日。未練タラタラじゃねぇ〜か?お前は本当に全然成長してねぇ〜よ!!」
腹を抱えて笑う黒崎を見ながら、智日は唇を噛んだ。
その間、薫は考えを巡らせていた。
このまま戦っても、とても勝てる相手ではない。何故なら今こちらには大神と智日、そして久田しかいないのだ。下の階のメンバーは黒崎達の部下にすでに始末されているだろう……さて、どうする?…
黒崎は笑いながら薫の顔を見つめていた。薫は黒崎の冷たい視線に、背筋が凍るのを感じた。
「今、そんなに一生懸命考えても、もう遅いぜ、薫さ……」
そう言いかけた黒崎の顔から、一気に笑みが消えた。薫も大神も智日も、みんなその事に気付いた。
黒崎は髭でざらついた自分の頬に手を当てた。黒崎の目つきが見る見る険しくなっていった。
「友田、緑…ちょっと下見て来い」
黒崎の言葉に、友田と緑川は眉をひそめた。そして、急いで部屋から飛び出した――――と同時に、先に部屋から飛び出した緑川の身体が宙を舞い、部屋の床に勢いよく倒れ込んだ。友田は「あっ!!」と声を上げた瞬間、銃声が一発、友田の頭部に命中した。友田は立ち尽くした姿勢のまま後ろに倒れ込んだ。
薫が、大神が、智日が、久田が、グリーソンが――――そして、黒崎が言葉を失ったまま、目を見開いた。
細い身体がゆらりと動いた。
黒崎はハッと我に返った。
「ケイ!!!」黒崎は勢いよく立ち上がりながら懐から拳銃を抜き、引き金を引いた。バン!バン!バン!と銃弾が部屋の壁に穴を開けていった。グリーソンも慌てて拳銃を構えた。
カチリ―――
グリーソンはその乾いた音に、自分の後頭部に銃口が当てられている事に気付いた。
黒崎がニヤリと笑った。
背後から漂う異様なオーラに、グリーソンのこめかみからは汗が流れた。
ケイはグリーソンの後頭部に銃口を当てたまま、部屋を見渡した。そして静かに黒崎を見た。
「――――本条ケイ君が直々にお出でになるとは…驚いたな…」
黒崎は笑いながら、冷めた表情でグリーソンの後頭部に銃口を当てたまま立つケイを見つめた。そして黒崎はゆっくりと拳銃を下ろした。それを見たグリーソンは汗だくの顔を歪めた。
ケイの口元が微かに緩んだ。
バン!という銃声とともに、グリーソンの額に赤い穴が開いた。グリーソンは白目を血走らせたまま、ゆっくりと頭から床へ落ちた。
薫は薄らと笑いながら、目の前に立つケイを見た。
「いいねぇ〜…ケイ君。なかなかやるじゃないか?」黒崎はクスクス笑いながら言った。「イタリアは満喫出来たか?」
黒崎の言葉に、ケイは無表情で「まぁね」と答えた。
「それは、良かった…」黒崎は笑った。「あのチビの奥さんも大喜びだっただろう?」
黒崎のその質問に、ケイは何も答えなかった。黒崎はククッと笑いながら首を傾げた。
「なぁ、何であの女なんだ?」ケイは表情を変えずに、黒崎を見つめた。「わざわざアレじゃなくても良かったんじゃないか?」
ケイは静かに口を開いた。「アキは僕のすべてだから…」
ケイの言葉に、黒崎は吹き出した。
「おい!智日!聞いたか!?クククッ…ケイ君!君ってなかなか面白いねぇ!」
ゲラゲラ笑う黒崎を見ながら、智日は眉をひそめた。
「なぁケイ君、せっかくの機会だ。男同士ガチで勝負しないか?」
ケイは無表情のまま、ニヤニヤ笑う黒崎を見た。
「弾なんか飛ばさないで、肉弾戦で勝負しようぜ!な!」
黒崎は楽しそうに笑いながら拳銃を投げ捨て、着ていた上着を脱いだ。そしてソファとグリーソンの死体を部屋の隅に蹴り上げた。
ケイはケラケラと笑っている黒崎を見ながら小さく息を吐いた。
「…別にいいけど、僕、あんまり時間が無いんだ」
黒崎の表情が微かに歪んだ。「―――だから?」
「だから、さっさとケリ付けるよ」
ケイの言葉に、黒崎は大声で笑い出した。その声は部屋中に響き渡り、窓さえも揺らした。ケイも拳銃を投げ捨て、ゆっくりと足を開き、構えた。
「来いよ、黒崎」
黒崎の表情が一変した。「ガキのくせに調子乗ってんじゃねぇぞ!!!」凄まじいスピードで黒崎はケイに向かっていった。黒崎の右手の拳が空を切った。ケイは流れるように動き、黒崎の左手の拳を右腕で受け止めた。そして黒崎の腹部を蹴り上げた。
「…っぐぅっ!…」
黒崎は小さく唸りながら、2、3歩後退した。しかし、素早く身体を立て直し、ケイの顔面目がけて拳を放った。その瞬間、黒崎の眼前からケイの姿が消えた。
―――!!!―――
ケイの拳が黒崎の腹部に命中した。「…っ!!」黒崎が声を上げる前に、後ろへ倒れようとする黒崎の胸倉を掴み、ケイはもう一度拳に力を込め、腹部をえぐるようにして黒崎の身体を殴り倒した。
黒崎の縦長の大きな身体が、凄まじい勢いで部屋の壁に激突した。その衝撃で、コンクリートの壁にひび割れの線が蜘蛛の巣のように走った。
「…グゥゥッ!!…」
黒崎は口から血を吐きながら、のっそりと立ち上がった。しかし、その膝はガクガクと震えていた。智日は息を呑んで、その様子を見つめた。黒崎はもう一度血を吐き、険しい形相で目の前に立つケイを睨み付けた。
「どうした?黒崎…早く来いよ」
ケイはそう言って、ピョンピョンと飛び跳ね、腰を落とし構えた。黒崎の身体がブルブル震え出した。
「クソガキがぁぁぁ!!!」
黒崎は叫びながらケイに向かって突進した。黒崎の手がケイの胸倉を掴もうとした瞬間――――黒崎の視界からケイの姿がフッと消えた。黒崎の脳細胞がその事に気付く前に、ケイは黒崎の頭部を横から蹴った。黒崎の身体が大きく揺れた。ケイは今度は拳で黒崎の顔面を凄まじい勢いで何度も殴り、下腹を殴り上げた。「グアァ!!」引っくり返ろうとした黒崎の腹部にケイの長い脚が食い込んだ。黒崎はまた後ろに吹き飛ばされ、床に倒れ込んだ。そして、そのまま動かなくなった。
部屋にいた全員がその激しい肉弾戦に見入りながら、ケイの圧倒的な強さに言葉を失っていた。
ケイは無表情のまま右の手首をくるくる回しながら、部屋の隅で呆然と立ち尽くしている智日を見た。智日はケイの澄んだ瞳を無心で見つめた。
「―――遅かったわね、ケイ」薫は満足げに笑いながら、ケイに言った。「でも、素晴らしい仕事振りだったわ」薫はそう言って、傍らに立つ大神を見た。大神は薄らと笑いながら小さく頷いた。
その時、
「……っ…」
微かな音に、大神と智日と久田が一斉に倒れている黒崎の方へ目をやった。
「グァァァ!!!」
黒崎は叫びながら構えた銃口をケイに向けた。
「ケイ!!」
薫が叫んだ。
黒崎に背を向けたまま、智日を見つめるケイの瞳が光った。智日はケイの瞳を見つめたまま――――
パァ―ン!!!と、乾いた銃声が響いた。智日の拳銃から放たれた銃弾は、黒崎の眉間に命中した。
「…さ…智…日ぁ…」
黒崎は眼から赤い涙を流しながら顔面から突っ伏し、絶命した。
智日は銃を構えたまま息を乱しながら、ケイの顔を見つめていた。その時、一瞬だけ、ケイが微かに笑ったように智日には見えた。
「フゥ―…」薫は大きく息を吐いた。「あぁんもう!!驚いた!!」
ケイはゆっくりと智日に近付き、握り締めていた拳銃を取り上げた。そしてその拳銃を薫に手渡した。
「アキから伝言」ケイの言葉に、薫は微笑みながら首を傾げた。「色々ありがとうございましたって……」
薫はクスクス笑いながら頷いた。
「良い旅になったみたいね?ケイ…良かったわ…」
ケイが微かに笑った事に、薫は気付いた。薫は表情を緩め、部屋の隅に蹴り飛ばされていたソファに腰を下ろした。
「これからが大変なのよ。ケイ、手伝ってくれる?」
薫の言葉に、ケイは小さくため息を吐きながら首を振った。
「今日が最後だよ」
ケイの言葉に、薫の表情が曇った。「どうして?…ケイ?…」
ケイは、4つの死体が転がる破壊された部屋を静かに見渡した。
「ここは僕の居場所じゃないんだ」
ケイはそう言って、薫の方へ向き直った。薫は笑顔でケイを見つめた。
「私、諦めないわよ」
薫のきっぱりとした物言いに、ケイは苦笑した。「本当に…しつこい女だな…」そして、薫の傍らに立つ大神の痩せた顔を見て言った。
「まだ、黒崎達の仲間がどこかに生きてるだろ?ちゃんと始末しろよ。もうとばっちりは御免だからな、大神…」
ケイの言葉に、大神は微かに笑った。「承知した」
ケイはそれ以上何も言わずに、部屋から出て行った。
智日は唇を噛んだまま、自分の足元を見つめていた。が、意を決し、ケイの後を追った。
「…ケイさん!!…」
智日の声に、ケイは振り向いた。智日は強く打つ鼓動を感じながらケイの澄んだ瞳を見つめた。
「…ケ…」
「智日…」
ケイは智日の言葉を遮り、目線を少し下に向けたまま喋り続けた。
「…アキが…お前の事心配してる…すごく…気にしてる…」
智日はうつむいたまま喋るケイを見つめた。
「気が向いたらでいいんだ…」ケイはそう言って顔を上げた。「今のお前の姿、アキに見せてやって…」
ケイの言葉に、智日は一瞬言葉を失った。ケイは目を見開いたまま自分を見る智日に、思わず苦笑した。
「嫌ならいいけど…」
その言葉に、智日はハッとした。
「あ…会いに行ってもいいの?」
ケイは少し表情を歪め、おずおずと訊く智日を見た。
「会うだけなら…」
「……あ?」
「ピンピンしてるお前を見たら、アキ、安心するんだよ。だから会ったら適当に喋ってすぐ帰れ」
智日の表情が歪んだ。
「すぐ帰れって…なんだよそれ?…俺、アキさんに刺されたんだよ?それを『こんにちは!俺はこの通り元気さ!じゃぁね!』ってそれだけ言って消えろって?」
「それだけで十分だろ?」
ケイは憮然と答えた。そんなケイに智日はさらにムッとした。
「納得いかなっ…」
「は?智日、お前アキに責任取らせるつもりか!?」
ケイの顔から表情が消えた事に、智日は気付いた。ピリピリと張り詰めた空気を感じながら、智日は思わず息を呑んだ。
「…そんなつもりないけど…」
そう呟いた智日をケイは睨んだ。智日は口を尖らせたまま、うつむいた。ケイはうつむいたままの智日を見つめながら、息を吐いた。
「アキは…お前を刺した事、すごく後悔してるんだ…でも、そこまでアキを追い込んだのは僕だから…だから僕も反省してるんだ…」
のろのろと喋るケイの言葉に、智日は顔を上げた。今度はケイが口を尖らせたまま、智日から目線をずらしていた。
「…いや…俺も…あの時は血迷っちゃってて…本当に…スンマセンでした…」
智日はそう言って、ケイに頭を下げた。ケイは黙ったまま、頭を下げたままの智日を見つめた。
「…気が向いたらでいいからな…」
ケイは呟くように言って、踵を返した。智日はその場を立ち去ろうとするケイの背中に叫んだ。
「ケイさん!」
ケイは静かに振り向き、立ち尽くす智日を見た。智日もケイの澄んだ瞳を見つめた。
「…な…なんでもないっス…」
智日の言葉に、ケイは
「…馬鹿じゃねぇ〜の?…」と、苦笑した。
ケイとアキがイタリアから帰国してから、目まぐるしく時が流れた。ケイは研究所へ戻り、溜まっていた仕事を片付ける事に追われた。毎日帰りは夜11時を過ぎ、休日も返上しながら働いていた。そんなケイをアキはひどく心配しながら、自分の体調の変化を気にしつつも、ケイの帰りを待つ日々が2週間程続いた。
「―――あら、本条君!?」
昼少し前に休日出勤してきた女性研究員は、研究室でパソコンのキーボードを叩いていたケイの姿を見付け、声を上げた。
「今日も出て来てたの?」
ケイは無表情のままキーボードを叩きながら頷いた。「…はい…」
「そう…でも今度の学会の資料は間に合ったんだから今日は休んでよかったのに…」女性研究員は笑いながら、自分のデスクの上に鞄を置いた。
「…重水さんこそ休んでよかったのに…」
ケイの呟くような言葉に、女性研究員、重水は目を丸くした。
「驚いた…本条君、私の事心配してくれてるの?」
ケイは黙ったまま、カチャカチャと手を休める事無く動かし続けた。重水は微笑みながら、一番奥の窓のブラインドがまだ上げられていない事に気付き、ブラインドを上げようと窓に近付いた。
「私、まだこの間のセミナーのレポートまとめてないのよ。早くまとめないと部長に怒られちゃうものね」
重水はそう言いながらブラインドを上げ、空気中に舞った埃を手で掃いながら、窓を開けた。爽やかな風が部屋に流れ込み、重水は気持ち良さそうに目を細めながら緑豊かな中庭を眺めた。
「何時から来てたの?」
「…8時ぐらい…」
「8時!?随分早くから仕事してるのね…」
重水は呆れたように苦笑しながら、黙々と仕事をしているケイを見つめた。
「…重水さん…これ…」ケイはキーボードを叩きながら、パソコンの横に積まれたファイルを横目で見た。「簡単にまとめてみました…」
重水は首を傾げながらケイに近付き、ケイのデスクの上に積まれたファイルを手に取り開いた。
「……これ…この間のセミナーの?」
重水の言葉に、ケイは手を動かしながら頷いた。重水は目を見開いたままファイルをパラパラとめくった。
「この資料、私が使ってもいいの?」
「はい…」
「…ありがとう…本当に助かったわ…」重水は心の底から感動しながら、ひたすらパソコンに文章を打ち込んでいるケイを見下ろした。「しかし…よく時間あったわね?…今度の学会の資料作成しながらこのファイルも作ってくれたんでしょ?」
ケイは無言のまま、キーボードの音だけが部屋中に響いた。
「…もしかして、このファイルは気分転換?」
重水の言葉に、ケイの表情が少しだけ緩んだ。重水はそんなケイに目を見張ったまま、しばらくの間立ち尽くした。
≪…外尾先生が惚れ込むのも無理ないわね…≫
重水はそう考えながら、小さく笑った。
「ねぇ?今は何をしてるの?」
「…外尾先生にレポート頼まれたんで…」
重水は興味深そうに、パソコンの画面を覗き込んだ。
「…ねぇ?これそんなに急がなくてもいいんじゃない?」
「だって僕、月末に連休取るんで今やっとかないと間に合わないんですよ」
ケイの言葉に、重水は一瞬言葉を失った。
「れ、連休!?君、また休むつもりなの?」
重水のこの言葉に、動き続けていたケイの手が止まった。ケイは傍らに立つ重水の顔をゆっくりと見上げた。
「月末にフランスで知り合いの結婚式があるんです。外尾先生にも部長にも許可もらってますよ?」
だから問題ないだろ?―――的なニュアンスのケイの口振りに、重水は言葉を詰まらせた。
「…それなら別に構わないけど…」
重水はもそもそと答えた。ケイは憮然としたまま、またキーボードを叩き始めた。
≪…やだ…ちょっと怒らせちゃった!?≫
「…コーヒー飲まない?淹れてあげようか?」
重水は恐る恐る訊いた。
「いりません」
ケイはあっさりと断り、重水は肩を落とした。そんな重水の事など気にも留めない様子で、ケイは壁に掛かった時計に目をやった。
「…何か仕事あるんなら言って下さい。僕、やっときますから…」
「え?」ケイの申し出に、重水は目を剥いた。「え?え?」
「…だから、もう帰っていいですよ。子供さん喜ぶでしょ?」ケイは重水の反応が可笑しくて、思わず苦笑した。
「一体どうしちゃったの!?本条君!」
「は?」
「君が私の娘の心配までしてくれるなんて…思ってもみなかったわ…」
重水は嬉しそうに言いながら、ケイに歩み寄った。ケイは思わず顔をしかめた。
その時、内線電話が鳴った。ケイは慌ててその電話を取ろうとしたが、電話のすぐ近くにいた重水が首を傾げながら受話器を上げた。
「はい、第1研究室……は?…あぁ、碇さん?どうしたの?…え?…本条君?うん、まだいるわよ。…は?」
重水は受話器を耳に当てたまま、呆れたようにケイを見た。ケイは顔を歪めたまま重水から目をそらした。
「…あぁ…うん、大丈夫。奥さん、研究室まで連れて来てあげてよ、碇さん」
重水はそう言って受話器を下ろした。
小さくため息を吐きながらまたキーボードを叩き始めたケイの横顔を見下ろしながら、重水は笑いを堪える事が出来なかった。
それから数分後にコンコン!と研究室の扉が叩かれ、カラカラと横に動いた。
「…ここですよ、奥さん…本条く〜ん!」
入り口で研究所の中年男性警備員の声が響いた。ケイの身体がビクッと動いた事に重水は気付き、思わず吹き出した。
「あ…もう大丈夫です…ありがとうございました…」アキはペコペコと警備員に頭を下げた。「…し、失礼します…ケイ君?…」
おずおずと研究室へ入ってきたアキの姿を重水はしげしげと見つめた。そしてすぐにケイの顔を見た。ケイは気まずそうにしながら、アキに声を掛けた。アキはケイの横に突っ立っている重水を見た。
「あ…あの…すいません…お仕事中に…あの…私…ケイ君の…」
あせあせと頬を赤くしながら喋るアキに、重水はやっと我に返った。
「あなたが…本条君の奥さん!?」
重水の言葉に、アキは恥ずかしそうに微笑んだ。そして重水はアキが大きめの保冷バックを抱えている事に気付いた。
「…なるほどね…」重水はニヤニヤと表情を緩ませながらケイの肩に手を置いた。「私の事追い出そうったって、そうはいかないわよ!」重水はバンバンとケイの肩を叩いた。
「――――あぁ、所内に入る前に本条君の携帯に連絡する予定がその前に碇さんに見付かっちゃったのね?…そりゃ、イロイロ訊かれるわよ。碇さんはそれがお仕事なんだから…」
重水はアキの誘いを喜んで受け、仏頂面のケイの事など気にも留めない様子で、アキが作ってきた弁当のおにぎりを頬張りながら笑顔で喋っていた。
規則として、関係者以外出入り出来ない事になっている研究所に愛妻を呼んで愛妻の手作り弁当を愛妻と一緒に食べようなんて…やってくれるわね…と重水は心底感心しながら3つ目のおにぎりを口へと運んだ。
「あら…これも美味しい!…このおにぎりの具は?」
「これは青菜とじゃこをごま油で炒めて醤油と砂糖で味付けしたモノです」
アキは穏やかな口調で答えた。そんなアキに重水は優しく微笑んだ。
「このから揚げも美味しい!家の子供もから揚げとか大好きなのよね!」
重水は小学5年生の娘の話を楽しそうに話し出した。ミニバスケの選手に選ばれ、毎日毎日遅くまで練習してるとか、親に似らず理数系が不得意だとか…そんな話を、アキも楽しそうに聞いた。そんなアキを見つめながら、ケイは≪やれやれ…≫と苦笑した。
「本条君の奥さんって本当にお料理上手ね!…確か、カフェで働いてるんだよね?」
重水の言葉に、アキの表情が一瞬曇った事にケイは気付いた。
「…はい…でももう辞めちゃいました」
そう言って苦笑したアキを、重水は残念そうに見つめた。
「あら、そうなの?…娘と行こうと思ったのに…」
「あ、ぜひ行って下さい!お料理もデザートもすごく美味しいですよ!」
アキの言葉に重水は笑いながら頷いた。
「うん!絶対行くわ!…あぁ、ご馳走様!美味しかったわ!…ちょっと待ってて。私、コーヒー淹れてくるから…」
重水はそう言って立ち上がり、研究室内にある給湯室へと入って行った。
アキは紙コップのお茶をすすりながら、研究室を見渡した。
「ケイ君はいつもここでお仕事頑張ってるのね…」
「…うん…」ケイはもぐもぐと口を動かしながら、アキの青白い顔を覗き込んだ。「…アキ…もしかして具合悪い?顔色良くないよ?」
心配げに言うケイの言葉に、アキは慌てた。「え?そう?…具合悪くなんかないよ!」アキはそう言って、微笑んだ。「あ!そうだった!」アキは慌てて保冷バックから大きめの容器を取り出した。「実は、エレナさんから教えてもらった“ティラミス”作ってきたんだ!」
ケイは嬉しそうに目を輝かせながら、アキの顔を見つめた。
そんな2人の様子を、給湯室のドアの隙間からこっそりと窺っていた重水は思わず苦笑した。
≪…女子社員達が言ってた事は間違い。宮崎君が言ってた事の方が本当だったのね…≫
重水は新しい紙コップ3つに湯気立つコーヒーを注ぎ、盆に乗せた。
≪…本条君の方がベタ惚れしてるわ…≫
重水の口元から笑みが零れた。
「はい!コーヒーお待たせ!…やだやだ!何これ!?もしかしてティラミス!?」
重水の感嘆の声が、研究室内に響いた。
次の週から、ケイは今まで通り定時で研究所のタイムカードを押し、退勤した。急いで家路に着いたケイは
「ただいま!アキ!」と、いつものように元気に叫んだ。アキもいつものように笑顔でケイを出迎えるため、パタパタと玄関へと向かった。
「おかえりなさい!ケイく…」
そう言いかけたアキの視界が大きく揺れた。アキはとっさに≪え!?地震!?≫と思った。しかし、すぐに地震ではない事に気付いた。一気に重くなった足を踏み出そうとした瞬間、アキの身体は前へ倒れ込んだ。
ケイは靴を脱がないまま玄関ホールへ駆け上がり、ゆっくりと倒れ込むアキの身体を両手で抱き留めた。
「…っアキ!?アキ!?」
ケイは懸命に叫んだ。アキはケイの腕の中でぐったりとしたまま、意識を失った。
★次回、最終話★