Power Song23
君のために僕は詠う。
Power Song23
美成里様がお亡くなりになられてから、私は1人で樹の根元に穴を掘り、そこに美成里様を埋めました。それから――――何日も、何日も泣き続けました。これから先どうしたらいいのか分からなかったのです。美成里様は『生きろ』と言われましたが、当時の私にはそんな事…生きる事など考える事が出来ませんでした。
どれぐらい泣いていたでしょうか……1人の牧師様が私に声を掛けてきました。私は泣きながらその牧師様の顔を見つめました。髪にチラチラと白髪の交じった牧師様はツヤツヤと赤らんだ頬を上げて穏やかに微笑みながら言われました。
『もう、泣くのはおやめなさい』
それでも私は泣き続けました。自分でもどうする事も出来なかったのです。あまり泣き続けたので、その牧師様の顔全体が赤くかすんで見えるようになりました。目が痛くて、頭が重くて、身体がだるくて……
目が覚めた時、私はベージュ色の四角い部屋のベッドに寝かされていました。その四角い部屋には、隅に木製の机と椅子、そして小さな出窓から陽の光が射し込んでいました。
重い頭を抱えながら、私はなんとか起き上がりました。
≪ここは?…どこだろう?≫
辺りをキョロキョロとしていると、部屋のドアが開き、あの牧師様が銅製のピッチャーとコップを乗せたトレーを持ったまま入って来られました。
『おや?目が覚めたんだね?』
牧師様はそう言ってにっこりと微笑まれました。
『あの…ここは?…』
『ここは知り合いの村人が準備してくれた部屋だよ。だから何も心配しなくていいよ』
牧師様は穏やかにそう言って、ベッドの横のテーブルの上にピッチャーとコップを乗せたトレーを静かに置かれました。
『お腹空いただろう?食事を持ってきてあげよう』
『あ、あの!…』
牧師様は私の言葉を聞かずに、部屋から出て行かれました。そしてしばらくすると温かい食事を持ってきてくれました。
『食べなさい』
食欲が無いと言うと、牧師様はそれでも
『食べなさい』
と言われました。私はなんだか根負けしてしまい、渋々食事を口へと運びました。一口、一口…食事を口へと運びながら、私は自分が泣いている事に気付きました。牧師様は穏やかに微笑みながら私を見ていました。その優しい眼差しに、私の凍った心が少しずつ溶けていくようでした。
私は堰を切ったように喋り続けていました。初めて会った牧師様に、美成里様の事を泣きながら話したのです。こんな気持ち、生まれて初めての事でした。ですが、その時の私はとにかく誰かに話を聞いてほしかったんです。これから私はどう生きていけばいいのか教えてほしかったのです。
牧師様は静かに私の話を聞いてくれました。うん、うんと頷きながら、穏やかな表情のまま、私の話を真剣に聞いてくれました。そして私の話が終わると、今度は簡単に自分の話をしてくれました。家族3人暮らしで奥さんと14歳の娘がいる事や、この村の人々は本当に良い人達ばかりでよく野菜や果物をいただくとか……そんな会話を繰り返しながら、混乱していた心が少しずつではありましたが落ち着きを取り戻していきました。
体力も戻り、牧師様は私に仕事をくれました。教会内の掃除でしたが、私は無心に働きました。すると今度は村人の誰々さんが農作業を手伝ってほしいそうだから行って来なさいと言われました。私はお世話になった恩返しだと思い、喜んで行きました。農作業を終えると、その村人さんから自家製の野菜や果物をたくさんもらいました。次の日も手伝いに行き、今度は焼き立てのパンをもらいました。私は困ってしまい、牧師様に相談しました。
『私は皆様にたくさんご迷惑をかけてしまったので、そのお詫びのつもりで働いているのですが…またこんなに良くしていただいては…私は一体どうしたらよいのでしょうか?』
私の言葉に牧師様は声を立てて笑われました。
『そしたらまたみんなのために働けばいいじゃないか?』
月日はゆっくりではありましたが、確実に流れていきました。牧師様は私のために美成里様のお墓を作ってくれました。私は毎日毎日お墓に足を運び、祈りました。そして、毎日教会の掃除や村人の農作業の手伝いなどに汗を流しました。食事は牧師様の家でお世話になったり、村人に夕食の招待を受けたりと、困る事はありませんでした。
そんな恵まれた生活の中でも、やはり私の心の中には暗い闇が覆っていました。私はどうしても曄様にお会いしたかった。曄様に美成里様の事をお伝えしたかった……その反面、どう言えばよいのか、怖くて怖くて仕方ありませんでした。あの日、フィレンツェでお別れした時の曄様の不安そうな表情――――あの揺れる瞳が脳裏に焼きついて離れませんでした。それでも私は意を決し、牧師様に事情を説明して、日本へ向かいました。
美成里様とともに日本を発ってから約4年の月日が流れていました。私は思っていたほど変わっていなかった日本にホッと安堵しながら、曄様から教えてもらっていた大学へと向かいました。そしてその大学で―――声を掛けた大学の教授の言葉で―――私は目の前が真っ暗になりました。
曄様は……1年以上も前に亡くなっておられました。
曄様のお骨はたった一人の肉親である妹さんがアメリカに持って帰られた事を知って、さらに身体が重くなりました。
私は失意のどん底に落ちました。この世で唯一の<希望>だった曄様まで失ってしまい、私は一気に生きる気力を失いました。そして、私の心の中には私一人だけが生きている事に対する強い嫌悪感が溢れていました。
≪おかしい、こんな事おかしいじゃないか!?≫
私は急いでイタリアへ帰りました。そして牧師様に“最後の挨拶”をしに、教会へと向かいました。
私の心はすでに決まっていました。私も死に、美成里様の隣に埋めてもらおうと思っていました。迷いなど一切ありませんでした。ですから私はいつも通りに、和やかに牧師様と言葉を交わしました。
『私はニホンへ行った事がないからね、一度は行ってみたいと思っているんだよ…』
『小さな島国に人ばかりが密集していまして、少し窮屈な感じがしますよ』
私はそう言って微笑みました。心の中で牧師様に頭を下げながら……
牧師様も笑いながら、教会のアーチを描いた高い天井を見上げておられました。私は牧師様に頭を下げ、その場から立ち去ろうとしました。その時、
『―――凛…』
牧師様の柔らかい声が、教会内に響きました。私の身体が何故か…ビクッと揺れました。私は恐る恐る振り返りました。
『凛』牧師様は真っ直ぐに私を見つめながら言われました。『君は今、何故自分がここで生きているのか真剣に考えた事があるかい?』
牧師様の声はいつものように穏やかでした。ただ、私に向けられた眼差しが、今まで見た事の無いほど力強かったのです。私は完全に言葉を失っていました。牧師様は静かに私から視線をずらし、祭壇の方へ向かれました。
『―――意味の無い人生など、存在しないんだよ。凛…人にはそれぞれ、そこに存在する<理由>があるんだ。その<理由>は神だけがご存知なんだよ。その事を信じ、懸命に生き続ければ、必ずその<理由>が何なのか、分かるんだよ…』
牧師様はゆっくりと、立ち尽くす私の方を向かれました。
『その<理由>が自分自身に課せられた<使命>だという事を……』
私の心の闇が、ガラガラと音を立てて崩れていきました。私は震える膝でなんとか踏ん張り、牧師様を直視していました。
牧師様は、最初から私の心を見透かしておられたのです。
私は無意識のうちに、“術”で牧師様の心を読もうとしました。牧師様の心は<生きろ!生きろ!!>と、強く叫んでおられました。私は唾を飲み込み、ゆっくりと息を吐きました。牧師様はそれ以上何も言われず、もう一度、祭壇の方を向かれました。私は牧師様の広い背中を見つめながら、涙が溢れてきました。その涙がポロポロと頬をつたいました。私は静かに瞳を閉じ、美成里様と曄様の事を想いました。長い間日本を影で操り、歴史を作り上げてきた絶対的存在であった我々一族のあまりにも過酷過ぎる“運命”を、あの細い身体で背負われ、戦い続けられた美成里様。そんな美成里様が生涯でただ一人、命を賭けて愛された女性、曄様。この2人が起こされた奇蹟を、私は信じ、行き続けよう!―――私はそう神に誓いました。
それから―――――さらに月日は流れ、私は牧師様亡き後、牧師様の意志を継いで教会をお守りしていました。
あの日も、今日のように町の空には青空が広がっていました。学校帰りの子供達がいつものように教会へ立ち寄って、今日あった出来事を楽しそうに話して聞かせてくれました。
そして―――あの方が……浅井薫さんが微かに顔を強張らせたまま、この教会へ私を訪ねて来られました。曄様の遺骨とともに―――――
小窓からオレンジ色の夕陽が射し込み、教会内に溢れた。
凛は教会の最前列の木製の長椅子に座って、話を聞いていたケイとアキの前に膝を着いた。そして頬を涙で濡らしたアキの顔を見上げた。
「ケイ様とアキ様のお話を聞いて…私は…あまりの感動に身体が震えました。これこそが、美成里様と曄様が起こされた奇蹟なのだ!…私はその奇蹟を守るために生きてきたのだ!と……」
凛の瞳に涙が溢れた。
「初めてケイ様を見た時、私はすぐに身体が動かなくなりました。あまりにも美成里様に似ていらしたので、美成里様が生き返られたんじゃないかと思ったんですよ。…そして…アキ様を見た時、私は嬉しくて嬉しくて泣いてしまいました」
凛はそう言って、アキの濡れた頬に優しく手を当てた。
「あなた様の瞳…曄様と同じでございますよ。優しくて、でも強い意志を感じるその眼差し……あぁ…ケイ様にもちゃんと生涯でただ一人の女性がこんな近くにいらっしゃるのですね…こんなに、こんなに素晴らしい奇蹟を見届ける事が出来るなんて…」
アキは泣きながら、澄んだ瞳から涙を流す凛の顔を見つめた。
「私はやっと…自分の存在の意味を知りました。その事を教えてくれたのは…ケイ様とアキ様でございますよ。私は…なんと幸せなのでしょうか!…なんと…素晴らしい人生を生きてこられたのでしょうか!…」
凛はその場に泣き崩れた。アキは慌てて凛の身体を支えた。
「アキ様、あなたの存在は素晴らしいんですよ…ですから…何も心配はいりません…何も恐れる事なんかありません…神がそう言われています…美成里様も曄様も…そしてあなた様の父上様も母上様も…みんな、みんなあなた様を見守っていますよ。ですから…何も心配はいりません。安心して、ケイ様とともに生き続けて下さい…ケイ様…アキ様…」
凛はケイとアキに向かって頭を下げた。床に額を付け、涙で肩を震わせた。ケイはそんな凛の肩を抱き、凛の身体を起こした。
「分かったから…凛…もう泣かないでよ…それ以上泣いたらアキも泣き止まないじゃん…」
ケイはそう言って、穏やかに微笑んだ。アキも涙でくしゃくしゃになった顔を緩めた。凛は泣きながら、2人の顔を見つめた。
「あぁ…私は本当に泣き虫なんですよ…」
凛は涙で濡れた頬を上げ、恥ずかしそうに笑った。
その日の夕食も豪華なトスカーナ料理が並べられていた。ベルナルド、エレナ夫妻とルカと留学生達は楽しそうに会話を弾ませていた。特にベルナルドはケイがかなりの酒豪だと知ると、嬉しそうにワインを勧めてきた。ケイはやんわりとベルナルドをかわしながら、横に座っているアキの様子を窺っていた。凛も心配げにアキを見ていた。アキは笑ってはいたけれど、まったく食事が進んでいなかった。それを悟られまいと、必死にルカに話しかけていた。
「ルカ君って日本語上手ね〜…」
「うん!だってボク、4歳ぐらいから凛サンに習ってるんだよ!学校でもね、選択授業で日本語選んでるんだ!」
ルカは得意げに言った。
「4歳!?…どうりで…」
「本当はベルナルドとエレナに教えていたんですけど、そばで聞いていたルカの方がどんどん憶えていったんですよ。」
凛は笑いながら言った。ルカは嬉しそうにベルナルドとエレナに凛の言葉をイタリア語で話して聞かせていた。
「どうしてベルナルドさん達は日本語を勉強されてたんですか?」
「昔はこの辺は観光地としてはそんなに有名じゃなかったんですよ。それがスローライフ・スローフードとかが流行り出してから、少しずつこんな田舎町にも観光客が訪れるようになったんです。アグリという農家滞在型ホテルが定着すると日本人観光客が急に増え出して…それで日本語を教えてほしいと頼まれたんですよ」
「へぇ〜…」アキは関心したように呟いた。「でも、ルカ君がこんなに日本語上手だからとても心強いですね?」
アキの言葉に、ベルナルドとエレナは苦笑しながら両肩を上げた。エレナはまだ半分も食べ切れていないアキの皿をチラッと見た。アキは気まずそうにうつむいた。
ベルナルドと留学生達は、食事の後もチーズをつまみながら地元のワインを堪能していた。ケイも誘われたが「また今度」と言ってアキと2人で部屋へと戻った。
「―――大丈夫?アキ…」
ケイの声にアキはハッとした。ケイは心配そうにしながらカウチソファに座っていたアキの横に腰を下ろした。
「今日もあんまり食べてなかったから…話、聞かない方がよかった?」
アキは慌てて首を振った。
「そ、そんな事ないよ!ただ…なんか胸が一杯で……それにワイナリーでチーズとか結構食べちゃったからもたれちゃって…」
アキはそう言いながら、胃の辺りをさすった。
「…ならいいけど……」
ケイは苦笑しながら、アキの髪に自分の指を絡めた。アキは頬を赤くしながらうつむいた。ケイはアキの髪に絡めた指でアキの唇に触れた。アキの唇は少し乾いていた。ケイはカサついたアキの唇を指で撫でながら呟いた。
「……日本に帰ったら、智日の様子見て来るよ。で、智日にアキが心配してるって言っとくから…」
アキは揺れる瞳でケイを見た。ケイは優しく微笑みながらアキの頬を手で覆った。
「きっと、そんなに気にする事ないっスよ!…とか何とか言うだろうけど…」
ケイの口調に、アキは思わず吹き出した。
「…うん…そんな感じする…」
アキはくすくすと楽しそうに笑った。ケイはそんなアキの唇にゆっくりとキスをした。アキは静かにケイの背中に手を回して、ぎゅっと抱きついた。
「……お…お風呂…入ろうか?…」
「一緒に?」ケイは心底驚いたように、声を上げた。
「い、嫌ならいいのよ!」
恥ずかしそうに顔を歪めたアキに、ケイは慌てた。
「嫌じゃないよ!嫌じゃない!!」
2人は壁と床に白いタイルが敷き詰められた浴室のバスタブの中で、髪と身体を洗いあった。アキはやっぱり恥ずかしくて、自分の身体を洗う時は目を閉じて!とケイに言い、ケイは納得いかない様子で目を閉じたままアキの身体を洗った。丹念にシャンプーとボディソープの泡を洗い流し、大きいバスタオルで身体を包み込んだまま、2人は絡まるようにベッドに倒れ込んだ。
「智日君にケイ君のお母さんの写真見せてもらった事あるの…本当にキレイな人だった…」アキはそう言って、ケイのサラサラとした前髪に指を絡めた。「髪の色もケイ君みたいに栗色で…サラサラしてる感じだった……」
ケイは穏やかな口調で喋るアキの頬に手を当てた。アキは静かに目を閉じて、ケイの手の甲に自分の手のひらを当てた。ケイとアキはお互いの指をしっかりと絡めたまま、ゆっくりと一つになった。
「……痛くない?」
ケイの言葉に、アキは笑顔で答えた。「うん、大丈夫…」
ケイの身体が揺れるたびに、ブロンズ色のスチールベッドが軋んだ。アキの頬がピンク色に染まった。ケイはアキの熱を帯びた頬に唇を当てた。ケイの荒い息がアキの火照った頬や耳たぶに触れた。
「―――アキ…愛してる…」
ケイの囁きが、アキの心の奥底にまで響いた。アキは静かに涙を流しながら、ケイの汗ばんだ頬に手を当てた。
「…うん…私も愛してるよ…」
―――あなたと2人なら…どんな事でも乗り越えてゆける―――
アキは身体中から溢れる思いに、涙した。
すべてが愛で満たされてゆくのを感じながら……アキはケイの温かい腕の中で、夢を見た。それは幼い頃の夢だった。静かに微笑む父親、その横でニコニコと笑う母親。そして恥ずかしそうに笑いながらケーキのロウソクを吹き消すアキ――――
「――――アキ…」
ケイはすっかり眠ってしまったアキの顔を見つめながら呟いた。アキの目尻に涙が光っていた。ケイはその涙をペロッと舐めた。ケイの口の中にアキの涙の味が広がった。
翌日、朝からケイとアキは美成里と曄が眠る墓石の前でゆっくりとした時間を過ごし、昼少し前にホテルへ戻り、学校が休みだったルカに町を案内してもらった。
坂道の多い静寂に満ちた町中を、3人は楽しく会話しながら散策した。時計台がシンボルの市庁舎や2階部分が木の梁によって支えられ、道に張り出した中世の家々の美しさに、アキはため息を漏らした。
「―――ほら!あそこの美術館にね、すごい有名な絵があるんだよ!」
ルカはそう言って、落ち着いた外観の美術館に向かって元気に走り出した。ケイとアキは慌ててルカの後を追った。しかし、ルカがしょんぼりとしてケイ達の元へ戻ってきた。
「今日…休館日だって…」
ルカの言葉に、アキは残念そうに苦笑した。
「またここに来た時行こうよ、アキ」
ケイの言葉に、アキは一瞬驚いた。が、すぐに頷いた。「うん!行こうね!」
3人はどんよりと曇った空の下、町の広場でルカお勧めのジェラートを食べた。
「…昨日はあんなに天気良かったのに…」
アキは今にも泣き出しそうな曇り空を仰いだ。
「今日、昼過ぎから大雨になるってパパ言ってたよ」
ルカはキレイにジェラートを間食し、それでも名残惜しそうにカップを舐めた。
「そろそろ戻ろうか…」
ケイの言葉に3人は立ち上がった。
3人がホテルに着いてすぐに、雨が降り出した。最初は小降りだったが次第に雨足が強まり、1時間もしないうちに豪雨になった。
エレナはアキをキッチンへ呼んで、一緒にドルチェを作ろうと誘った。アキは喜んで誘いを受けた。が、アキはエレナの言葉が分からないため、ケイも呼んで通訳を頼んだ。エレナは嬉しそうに微笑みながらアキにドルチェの作り方を教えた。途中、ケイがエレナに話しかけた。エレナは感嘆した表情でアキをまじまじと見つめた。
「…ケ、ケイ君…どうしたの?」
「うん、アキはプロのお菓子職人だって教えたの」
ケイの言葉にアキは愕然とした。
「なんて事言うの!!訂正して!!」
「なんで?本当の事じゃん!」
アキは必死に身振り手振りでエレナに「自分はプロじゃない!」と伝えた。しかしエレナは最初から飲み込みの早いアキの手付きに感心していたので、「アキはプロのお菓子職人」という事になんの疑いも持たなかった。
その日のブランチはエレナとアキが一緒に作ったチョコレートケーキとカプチーノだった。ルカは大喜びで、ケーキを平らげた。
「アキサン、プロなんだね!?」
ルカのキラキラとした尊敬の眼差しに、アキはぐったりと肩を落とした。その横で2個目のケーキを食べながら、ケイは笑っていた。
町を発つ前日にアキはエレナの希望もあり、自家製チーズでチーズケーキを作った。「味の保障はしませんよ!」と念押しして、アキは最後の夕食のドルチェとしてみんなにケーキを振る舞った。アキのケーキは大好評だった。エレナもベルナルドもルカも
「Buono!Buono!」と叫んだ。留学生達もパクパクと美味しそうに食べていた。
「アキ様がこれほどお料理上手だとは…」
凛は感動しながらケーキを平らげた。
「そんな事ないですよ!!」
アキは恥ずかしそうに言った。そんなアキの様子を見ながら、エレナがイタリア語でケイに向かって言った。そのエレナの言葉に、その場にいた全員がどっと笑い出した。ただ、アキは意味が分からずポカンとしたままケイに通訳を求めた。ケイはぶすっと膨れっ面のまま、答えなかった。
「何?どうしたの?ケイ君?」
オロオロとするアキに、凛が笑いながら話した。
「エレナが『君に彼女はもったいない』って…」
それから酒盛りが始まった。自家製チーズとハム、季節の野菜やトリュフのペーストがトッピングされたブルスケッタにカリカリのビスコッティ。そして、地元の美味しいワイン。みんな大いに飲んで語り合った。男達はついついケイのペースで飲んでしまい、次々にギブアップしていった。
「―――美成里様も、大変にお酒が強かったのですよ。…曄様も…」
ホテルの庭先にある木製の椅子に座って夜風に当たっていたケイに、凛は話しかけた。ケイは微かに笑って、まだ雨の匂いの残る庭から夜空を仰いだ。
凛は服のポケットから紙袋を取り出し、ケイに手渡した。
「もし、アキ様の身体に異変が起きましたら、この薬草を煮出して飲ませて下さい」
凛の言葉に、ケイの表情が一気に強張った。
「どういう意味?…」
「はい、この間お話しました通り、“血”を鎮めるための“女体”は特別な訓練を受けた女子しか務まる事が出来ません」
「でも!…アキは“女体”じゃない…アキは…僕の妻だ…」
ケイは焦る気持ちを抑えながら言った。
「もちろん、アキ様は“女体”ではありません。しかし、結果的にはケイ様の“血”を鎮めてこられたのです。それは曲げる事の出来ない事実でございます」
凛の言葉に、ケイは顔を歪ませた。
「私は、アキ様は特別なお方だと言いました。それはもう一つ意味がございます。それは一族の女子が特別な訓練で習得する“術”を曄様もアキ様も生まれながらにして身に付いておいでだったという事でございます」
「え?…」
「一族の男達の“血”を受けるだけでは女子の身体が持ちません。ですから選ばれた女子には体内に流れた“血”を浄化するための“術”を習得させたのです。しかし曄様はもちろん普通の女性であるアキ様はそんな訓練など受けてはいらっしゃらない。ですが、一族の“血”の流れたケイ様と交わっても…アキ様は生きていらっしゃる…つまり、アキ様は体内に流れたケイ様の“血”をきちんと浄化されていたという事です。…それは本当に奇蹟的な事なのですよ」
ケイは庭先から見る事の出来るリビングで、ルカを通してエレナと話しているアキを見た。
「今回のように強い発作の場合は、鎮める“血”も濃くなります。ですから、もしかすると…アキ様の身体の中で“血”が滞るかもしれません」
「どっ…どうしたらいい?この薬草を飲ませるだけで大丈夫なのか!?他には!?僕が出来る事はないのか!?凛!!」
「…少し落ち着いて下さい、ケイ様…」
凛はくすくすと笑った。ケイは恥ずかしそうにうつむいた。
「死ぬまで変わらず、アキ様を愛しみ続けて下さい」
ケイは穏やかな表情の凛を見つめた。
「…それだけ?」
「えぇ、それだけです。」凛はにっこりと微笑みながら言った。「簡単でしょう?」
次の日の朝、エレナは大きい身体でアキの小さな身体を抱きしめ、別れの挨拶を交わした。「また、いつでもいらっしゃいね!今度はあなたにトスカーナの伝統料理を伝授してあげるわ!」とエレナは意気込んだ。アキは「Grazie!」と目に涙を浮かべながら笑顔で答えた。
ベルナルドの車でケイとアキはカムーチャ駅へと向かった。ケイとアキを見送るために付いて来たルカと凛は寂しそうに肩を落としていた。
「また、来るから…凛…」
ケイの言葉に、凛の目から見る見る涙が零れた。
「約束ですよ!ケイ様!アキ様!」
アキは笑顔で頷いた。「凛さん、本当にありがとうございました…」
「とんでもありません!…こちらの方こそ…本当に…本当に…」
凛は言葉に詰まりながら、また涙を零した。
「もう!凛サン泣き虫!」
鼻の頭を赤くしながら、ルカは言った。そんなルカにベルナルドが話しかけ、ルカはうん、うんと嬉しそうに頷いた。
「パパがまた家に泊まれって!アキサンのドルチェ食べたいって!ケイサンと飲み明かしたいって!」
ルカの言葉に、ケイは苦笑しながらベルナルドを見た。ベルナルドはニヤっと笑いながらウィンクをした。
「本当に、本当にまた来て下さいね!ケイ様ぁ!!」
「わ、分かったって!凛!もう泣かないでよ!…アキ!助けて!!」
ケイは自分に縋り付いて泣く凛に困り果て、アキに助けを求めた。アキは目に涙を滲ませながら、笑い出した。