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Power Song21

君のために僕は詠う。

Power Song21




 村の一番高い丘から眼下に広がるブドウやオリーブの畑が延々と続く田園地帯。まだ薄暗い空が少しずつオレンジ色に染まり、その淡い光が、立ち並ぶ糸杉の影を作り始めた。遠くの方には大きな湖がまるで空に浮かんでいるかのように、美しいトスカーナの風景に溶け込んでいた。

 ケイは凛の後を付いて黙々と歩き続けた。凛は時折振り返っては、ケイの様子をうかがった。ケイはフワフワと浮くように歩いていた。

 しばらく行くと、さっきまでの柔らかな風景と違った雰囲気の崖の上から、荘厳な渓谷が姿を現した。凛は広々とした平野に立ち並ぶ木々の幹の根のすぐそばに埋め込まれた墓石の前で立ち止まった。

 そして、ちいさな身体でゆっくり振り返り、ケイを見つめた。

「―――美成里様はこの場所で絶命され、今、この場所で眠っていらっしゃいます。曄様とともに……」

 凛の言葉に、ケイは眉をひそめた。凛は表情を微かに歪めたケイの顔を見て、優しく微笑んだ。

「今から1か月程前に、あの方が…浅井薫さんが曄様の遺骨を持って、この地に来られました。その時、初めて曄様がどのようにして亡くなられたのか知りました…そして、ケイ様の存在も…」

 凛は墓石の前にゆっくりとひざまずいた。ケイは凛の小さな背中を見つめた。

「もしも―――― 美成里様と曄様がもっと早くに出会っていらっしゃったら…世界は変わっていたのかもしれません…」

 凛の言葉に、ケイは小さく息を吐いた。

「…凛…」

「あぁ…申し訳ありません…過ぎてしまった事を想っても仕方無いと分かってはいるのですが…つい…そう考えてしまいます…」

 凛は自分の背後に立つケイの方へ振り向き、苦笑した。

「美成里様は…曄様と出会う前までは本当に一人ぼっちだったのです。私ではどうしても立ち入る事の出来ない深い闇の中にいらっしゃいました。たった一人で…その闇の中で…戦っておられました。

 どんなにかお寂しいだろうか?お辛いだろうか?―――――私は日に日に衰えていかれる美成里様を見つめながら、私にはもうどうする事も出来ない事に憤りを感じていました」

 朝陽が墓石を照らし始め、爽やかな風がケイと凛の頬を撫でた。

「私は、美成里様がお産まれになった5日後に産まれました。美成里様は我々一族の総領の息子で、後々14代目として一族の長になられるお方。私はいくら血の繋がりはあろうとも所詮は分家の一族の次男坊。ですが、同じ時に生まれたという事で私は美成里様のお世話役として選ばれたのです。これは本当に名誉な事でした。本来なら分家の長男が務めるべき大役なのでございます。

 私は分家の恥にならぬよう、幼少の頃から懸命に任務に励みました。美成里様もそんな私の胸の内を理解されていまして…本当にいつも優しく接してくれました。それに同い年という事もあり、主従関係を忘れて遅くまで遊び呆ける時もありました。その時は自分の家族から…特に母親からひどく叱られたものです。しかし、美成里様のお母上様は本当にお優しいお方でした。落ち込んで泣いている時はいつも美成里様と一緒に慰めてくれました。

 美成里様とお母上様は容姿から立ち振る舞いまで、本当にお美しくて、私はつい見惚れてしまう事がしばしばありまして…美成里様からよく『また、ボケっとしている』と笑われたものです」

 ケイは静かに凛の話を聞いていた。凛もケイに背を向けたままゆっくりとした口調で喋り続けた。

「まだ…美成里様も私も幼かった。だから美成里様の背負われた“運命さだめ”などその時は理解していませんでした。しかし、私達は成長するとともにその“運命さだめ”を理解せざるを得なかったのです」

「…<発作>……」

 ケイの言葉に、凛は頷いた。

「そう、<発作>です。美成里様は9歳ぐらいの頃から体調の変化を訴えておられたのですが…それが<発作>として症状が現れ出したのは美成里様が12歳の頃でした。ケイ様もすでにご存知だとは思いますが、恩成坊おんせいぼう一族の先祖は自分達に備わった“力”をさらに強く、完璧なモノにするために、一族間だけで子孫を繁栄させました。その結果、“力”ばかりが強力になり、生身の身体が付いていかない事態に陥ってしまいました。特に美成里様はお父上様もお母上様も相当な“能力”の遣い手で、そんなお2人の血を受け継いでいらっしゃる美成里様の“能力”に伴った<発作>はそれはそれは凄まじいモノでした。最初はケイ様にもお飲みいただいた薬草茶や老年術者の“術”で血を鎮めようとしたのですが、それでも治まらなくなり……老年者からはまだ早いという声も上がったのですが……総領がご決断されまして…決められた“女体”で<発作>を鎮められました」

「決められた“女体”?」

 ケイの問いに、凛は振り返り、微笑んだ。

「はい。女なら誰でもいいというワケではありません。しかも一族の血の流れた女でなくてはならないのです。まず最老年術者が一族の若い女達を見定め、選ばれた女達に決められた“訓練”を受けさせ、その“訓練”に耐えられた者のみが一族の男達の血を鎮める“女体”として生涯務めるのです。これは…今の女性達にはあまり理解出来ないでしょうが、一族の女達にとって“女体”として務める事は最高の名誉だったのです。男達に認められ、その男の子を産める事は女達の夢だったのです。まして……」

「凛!アキは?…アキはそんな“訓練”なんて受けてなんかいない…」

 ケイの強張った表情に、凛は微笑んだ。

「アキ様や曄様は、“訓練”を受けなくても“女体”と同じように“血”を鎮める事の出来る女性だったのです…とても稀な事なのですが…まぁ、その話は後ほど詳しくお話致しますのでご安心下さい」

 ケイは怪訝そうな表情で凛を見た。凛はそれでも話を進めた。

「……その女達のお相手が後の14代目総領、美成里様―――しかも、一度お見かけしたら必ず夢に見てしまうほどの端整な容姿。女達は美成里様に気に入られようと躍起になっていました。しかし、当の美成里様はどんなに美しい女が当たろうとも全く見向きもされませんでした。事が済むと女達を部屋から追い出していました。時には<発作>が起きても女の当たりを拒む事さえありました。他の男達はその事を大変に不思議がりまして…<発作>と嘘を吐いて女を抱こうとする男連中もいたくらいでしたのに、美成里様はその逆で…<発作>がひどい時だけしか“女体”を受け入れられませんでした。一度だけ、美成里様に『何故、“女体”を拒むのですか?』とお尋ねした事があります。その時、美成里様は『僕にも分からないよ』と苦笑しながら答えられました。今思えば、美成里様はきっとお捜しだったのでしょう…心の底から愛せる女性を……この美成里様のお気持ち、ケイ様ならご理解出来るでしょう?」

 凛はそう言って、少し顔を赤めたケイを見つめて微笑んだ。

「――――美成里様が18歳になられた頃から、一族の男達が不穏な噂話をするようになりました。それは随分昔に一族から波紋された分家の人間達が我々一族を乗っ取り、長年の恨みを晴らそうと動き出しているというモノでした。その動きについては総領は前々からご存知で、何か策は無いかとよく美成里様とお話されていました。年を追う毎に<発作>の回数が増え出し、衰弱し始められた総領はすべてを美成里様に任せられるようになりました。その事について良く思わない者もいました。しかし、“力”では到底美成里様に敵う者などおらず、美成里様は黙々と総領としての<責務>をこなされました。それからしばらくして総領が亡くなり、美成里様は正式に14代目として厳しい“運命さだめ”に立ち向かっていかれました。しかし、その頃から一族間には亀裂が生じるようになっていったのです。その原因はさらに激しさを増し始めた<発作>でした。男達はひどくなる一方の<発作>を鎮めるために何回も何回も“女体”を求めました。さすがの女達も、男達の血の濃さに身体が耐えられずバタバタと死んでしまう者まで出てきました。美成里様は老年術者達やまだ比較的<発作>の軽い若い男達とこれからの対策を練られました。そんな中、奇妙な出来事が起こり始めました。ある3人の女の“女体”で男達の凄まじい<発作>が治まったのです。もうすでに使える“女体”がいなくなっていたので、男達は貪るようにその女達の“女体”を求めました。美成里様は慌てて男達を止めました。男達は口々に言いました。『どうしてお止めになるのです?私達はこんなに<発作>が治まっているのに……』それでも美成里様はお止めになりました。『これは<浅井>の罠だ!!―――頼むから、僕の言う事を聞いてくれ!』

 それでも男達は美成里様の言われる事など全く聞かず、狂ったように女達の住む家屋へと通って行きました。美成里様の存在を快く思っていなかった老年術者も―――美成里様を慕っていた若者までも―――― 何かに取り憑かれたように男達は狂っていきました。残された女達は怯えながら、美成里様にすがりました。美成里様は女達の家屋の前で狂気と化した男達を押さえ込み、その3人の女の前に立たれました。


『お前達は<浅井>の仲間だろう?』

 女の一人がクスクスと笑いながら、横に寝そべっていた女の衣服のはだけた所から覗く白い太ももを触りながら言った。

『噂には聞いていましたけど、本当にイイ男ですわね。ねぇ?』

 女はもう一人の女に言った。

『本当に…ため息が出ちゃう…そんな所に突っ立ってないで、もっとこっちに来てよ。一緒に気持ち良くなりましょうよ!』

 美成里は顔を歪めた。『……そうか…そういう事だったのか…』

 唇を噛み、怒りに震える美成里を見つめながら、女達はケラケラと笑い出した。

『もう、すべてが手遅れ』

 女の言葉に、美成里の眼が光った。

 ドォォン!!と女達の家屋が一瞬にして吹き飛んだ。男達は爆風に吹き飛ばされながら、逃げ惑った。粉々に砕け、破壊された家屋から灰色の砂埃が舞い上がった。その砂埃の中から現れた美成里の姿に、男達はおののいた。

『…み…美成里様…女達は……』

 男達は慌てふためいた。

『…ま…まさか…始末されたんですか…?…総領?…』

 呆然と立ち尽くす男達を見渡しながら、美成里は厳しい表情で黙っていた。

 ザワザワと重い空気が動いた。凛は恐怖に足がすくみながらも、美成里の元へ駆け寄った。その時、男達が奇声を発した。


 ―――裏切り者!!―――  男達は、美成里様にそう叫んだんです。何度も何度も…美成里様に罵声を浴びせました。私は愕然としました。男達は眼の色を変え、美成里様に襲い掛かりました。私は必死に叫びました。

『お止め下さい!!!』

 でも、誰も私の言葉など聞いてはいませんでした。男達は完全に狂っていました。男達は逃げ惑う女達を捕まえ、殺そうとしました。美成里様は、その時初めて仲間に向かって“力”を遣われました。それを見ていた男達は猛然と美成里様に“力”をぶつけ始めました。敵うはずも無いのに…男達はもう仲間では無くなっていました…一族の誇りも消え失せ、獣と化した男達は殺した女達の肉体を貪り始めました。肉を噛みちぎり、血を吸い、雄叫びを上げ……

『凛!!』

 美成里様の声に私はハッとしました。

 私は美成里様とともに、美成里様のお母上様の所に急ぎました。お母上様の元には2人の世話役の女と私の母親が、村の<門>の所に立っていました。

かあ様!ご無事でしたか!!』

 美成里様の言葉に、お母上様はにっこりと微笑まれました。私の母親も微笑んでいました。2人の世話役の女達も…私の心に何かが引っかかりました。それは美成里様も同じだったのです。

『…母…』

『さぁ、美成里。早くこの村からお逃げなさい』

 お母上様の言葉に美成里様も私も言葉を失いました。私の母親も精悍な表情で

『凛、お前も一緒に行きなさい。そして命に代えて美成里様をお守りするのですよ』

 と、言いました。私は気が動転して、目から涙がポロポロと流れ落ちました。

『もう泣いてどうするんだい!!』

 私の母親は厳しい表情で…でも瞳を揺らしながら私の事を叱咤しました。お母上様はそんな私の涙を指で拭ってくれました。

『凛、美成里の事、宜しく頼みますよ』

 お母上様はそう言って、立ち尽くす美成里様の顔を見つめられました。そして優しく美成里様を抱きしめられました。

『…か…母様も…母様達も一緒に…』

 美成里様の瞳から涙が零れ落ちました。お母上様は美成里様の背中を優しく撫でながら呟くように言われました。

『私達まで逃げてしまったら、誰が<結界>を張るのですか?』

 <結界>という言葉に、美成里様も私もハッとしました。<結界>とは、一族の選ばれた女だけが操れる“術”で、その<結界>で村を覆い尽くすと、<結界>を張るお母上様達のみならず、村にいる者全員が二度と外へは出られなくなり、その<結界>内にいた者は生きるための養分を吸い取られ、絶命し、凄まじいスピードで土へ返り、<結界>とともに跡形も無くなるのです。

 お母上様達は、一族を村ごと無くそうと考えられたのです。美成里様は強く反対されました。しかし、お母上様は首を縦にはお振りになりませんでした。今ここで一族の“血”を完全に絶たないといけない、と強く言われました。

『僕が…僕が彼らを片付けます。僕が…総領である僕がもっと早くに異変に気付いていればこんな事にはならなかったんだ…だから僕が…!!…』

 美成里様の言葉に、お母上様も私の母親も首を振りました。

『美成里、お前には何の落ち度もありません。我々一族は遅かれ早かれこうなる運命さだめだったのです。先代の総領も言っておられました。―――我々は間違っていた―――と。私もそう思います。人は神にはなれないのです。過ちを犯せば必ず滅びるのです。それに、今ここで“力”を遣ってはいけません。母の言葉の意味はお分かりですね?美成里?』

 お母上様の言葉に、美成里様はぎゅっと唇を閉じられました。

 お母上様は、美成里様にもあまり“生きる時間”が無い事を言われたのです。ですからここで“力”を遣うな、と……無駄死にするなと……

 あの女達を村に投げ込んだのは<浅井>でした。そしてあの女達は身体の中に忍ばせた<毒>を男達の身体に植え付けたのです。元から衰弱していた男達の身体に、<毒>はあっという間に根を下ろし、男達を狂わせたのです。美成里様とてそれを止める事は出来なかったのです。

『お前にはまだ<希望>が残されています。その<希望>を捨てないで、美成里…』

『<希望>…』

『そうです。―――美成里、イタリアへ行きなさい。そこに凛と同じ分家出身の<希望>がいます。その<希望>に会えば、道が開けるかもしれません…道が開けば、<浅井>一族を滅ぼす事が出来るかもしれません…』

『…で…ですが、母様…』

『…美成里…』お母上様は、動揺を隠し切れない美成里様の言葉を遮られました。『…美成里…もう一度顔を見せて…』お母上様は美成里様の涙で濡れた頬を両手で覆われました。『神を信じて…希望を持って…そうすれば必ず奇蹟は起きるのですよ…』

 あの時のお母上様の慈愛に満ちた笑顔―――そして、いつも厳しかった母親の手の温もり―――私は今でもハッキリと覚えています。

 美成里様と私が村の<門>から出ると、お母上様は言われました。

『一気に森を駆け抜けなさい。決して振り返ってはいけません』


 美成里様と私は無我夢中で風のように走り続けました。森の樹々がまるで生きているかのように幹や枝をくねらせ、私達に道を与えてくれているようでした。そして―――――パァァン!と乾いた音が背後から響き渡りました。

 ついに、<結界>が張られたのです。

 もの凄いスピードで走っていた美成里様が急に立ち止まられ、後ろから懸命に付いて走っていた私は美成里様の背中に勢いよく顔面をぶつけました。私は痛みで顔を歪めながら、美成里様の顔を見上げました。美成里様の肩が激しく上下していました。こめかみからは大粒の汗が流れ……頬は涙で濡れていました。美成里様と私の荒れた呼吸が、闇に包まれた森の中で奇妙に響いていました。美成里様の身体がピクッと動きました。私は思わず

『振り返ってはいけません!!』と、叫んでいました。美成里様は身体を強張らせたまま、そのまま黙ってうつむいておられました」


 眼下に広がる渓谷にも朝陽が降り注ぎ、トスカーナの緑豊かな自然が目覚めた。そよそよと心地よい風が広々とした平野を吹き向け、凛は青空を覗かせた大空を仰いだ。

「この町の夜明けは…本当に素晴らしい…美成里様もよくこうして明けたばかりの大空を見上げておられました…」

 凛は呟くように言って、ゆっくりと立ち上がった。

「<希望>は?…いなかったのか?」

 ケイの言葉に、凛は頷いた。「一足遅かったのです。私達がイタリアへ着いて<希望>の元へ訪れた時には…もう…マルコ牧師は<浅井>に殺されていました。<浅井>達は執拗に私達を追かけて来ました。そして、美成里様が衰弱されるのをじっと待っていたのです。<希望>を失った私達は、<浅井>達から逃れるため、イタリア中を巡りました。そしてこの町に辿り着きました。当時のこの町は観光地としてはまだまだ知られていませんでしたので、とにかく静かでした。美成里様はとてもこの町を気に入られまして、しばらくの間この町で暮らす事にしました。……ですが<発作>は容赦なく美成里様の身体を蝕み始めました。一族の村から逃げ出して、1年が経とうとしていました。私は不安で不安で仕方ありませんでした。もし…<浅井>が私達の居場所を突き止め、衰弱した美成里様を襲ったら…その前に美成里様が<発作>に耐えられなくなってしまったら……私は一体どうしたらいいのだろうかと…毎晩毎晩泣きながら考えていました。

 そんな時、美成里様は曄様と出会われました―――――」

 凛の表情が柔らかくなった。ケイは黙ったまま、何か幸せな事を思い出し、微笑んでいる時のような笑顔を浮かべた凛の顔を見つめた。

「――――私はすぐに分かりました。曄様こそがお母上様が言われた<希望>なのだと……その証拠に、美成里様はどんどん曄様に惹かれていかれました。曄様も同じだったのです。私はもう嬉しくて、嬉しくて……このまま3人で幸せに暮らせる事を夢見ました」

 ケイは興奮気味に喋る凛の表情から、少しずつ赤みが消えていくのに気付いた。凛は苦笑しながら、うつむいた。

「……しかし……やはりそれは私の勝手な夢だったのです。美成里様は…曄様と私を守るため、<浅井>と戦う事を決断されました……」

 凛はしばらくの間うつむいたまま、自分の足元を見つめていた。ケイは胸を締め付けられる思いがして、何と声を掛けたらいいのか分からないでいた。

「……アキ様に……」

「え?…」

 凛はパッと顔を上げ、ケイの顔を見た。「アキ様に今私がケイ様にお話した事を…お話してもいいでしょうか?」

「…ア…アキに?…」

 凛の突然の言葉に、ケイは唖然とした。

「はい。私は前にアキ様は特別なお方だと言いました。その理由を直接アキ様にもお話したいのです」

「…でも…少し時間をあげないと…今のアキじゃ…」

 凛は表情を引き締め、困惑した表情のケイを見た。

「ケイ様、アキ様ならきっとすべてを受け止めてくれます。それに、今のアキ様の“不安”を拭い去るためにもケイ様のすべてをお伝えした方がいいと思います」

 ケイは眉間にしわを寄せたまま、黙っていた。

「…ケイ様…アキ様はとても心が清いお方です。ですから、知らぬ間にどんどん自分自身を追い詰めておいでです。私は初めてアキ様にお会いした時、アキ様の“心の影”を強く感じました。この“心の影”を無くしてしまわないとアキ様の精神は疲れ果て、壊れてしまいます……」

 ケイの表情が一気に強張った。凛は険しい表情を浮かべるケイの顔を見つめた。その時、ゴッ!と強い風が2人の間を吹き抜け、ケイは思わず目を閉じた。


……ケイ君……


 アキの細い声がケイの頭の中に響いた。

 ケイはハッとして顔を上げた。凛も目を見開いたまま、ケイの顔を見た。

「…これは驚いた…アキ様…ご自分で“術”を解かれてしまった……」

 ケイは無言のまま、その場から駆け出した。

「あっ!…ケイ様!!…」凛は風のように駆けて行ったケイの後姿に叫んだ。しかしケイの姿は見る見る小さくなり、広々とした平野に溶け込んでいった。凛は苦笑しながら、ケイが駆けて行った方へ目を向けたまま、しばらくの間動かなかった。



 ケイは朝陽を全身に浴びながら、オリーブ畑やブドウ畑が並ぶ田園地帯を凄まじいスピードで駆け抜けた。しっかりと地面の感触を足の裏で感じながら、ケイはアキの元へ急いだ。

 ホテルに辿り着き、庭へ足を踏み入れたケイはギョッとした。そして、庭をウロウロと歩いていたアキの元へ急いで駆け寄った。

「アキ!!こんなトコで何やってるんだ!?…な…なんて格好してるんだよ…」

 ベッドから抜け出し、服も着替えず、寝巻きのまま部屋を飛び出した様子のアキの髪はボサボサだった。しかも裸足だったので、足の指先が泥で汚れていた。アキは揺れる瞳でケイを見つめた。

「…だって…ケイ君いなかったから……」

「え?……あぁ…ちょっと…さ、散歩に行ってたんだ…」

 ケイは今にも零れ落ちそうなほど瞳に涙を溜めたアキを見つめた。

「散歩?…一人で?…私は?…」

「…ご、ごめん…ぐっすり寝てたから…起こさなかったんだ…」ケイはそう言って、着ていたパーカーを脱ぎ、アキの身体にかけた。「とにかく…部屋に戻ろう…ア…」

 アキの瞳から涙が流れ落ちた。その大粒の涙は頬をつたい、ポタポタと流れ落ち、あっという間に地面に染み込んでいった。それでもアキの瞳からは次から次へと涙が流れ落ちた。アキは顔を歪ませ、その場にしゃがみ込んだ。ケイは慌ててアキの腕を掴んだ。

「……ッヒック…しないで…」

 アキは泣きじゃくりながら言った。

「一人に…ヒッ…しっ…しないで…」

「…アキ…」

「私を置いて…ヒックッ…どこにも…どこにも行かないで!!」

 アキはケイの足にしがみ付いた。

「なんだってするから!…私…どんな事でもするから!…だからっ…私を置いて行かないで!!私も連れて行ってぇ!!ケイ君!!お願いだからっ!!…」

 ケイはアキの身体を強く抱きしめた。あまりの切なさに、愛しさに顔を歪めたまま、アキの細い身体を力一杯抱きしめた。

「ごめん!…もう大丈夫だから!だから…アキを一人になんかしないから!!…」


『アキ様の“心の影”を無くさないと、アキ様は壊れてしまいます』


 凛の言葉が、ケイの心に突き刺さった。


―――僕がアキを追い詰めたんだ…僕がアキを苦しめたんだ…



 アキは必死とケイの身体にしがみ付いたまま、大声で泣き続けた。

 その声は、朝陽を浴びる家屋に、庭の木々や花々に、爽やかに吹く心地よい風にまで染み渡り、木々の枝にとまっていた小鳥達は一斉にさえずり始めた。


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