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Power Song20

君のために僕は詠う。

Power Song20




 ケイが無人駅で倒れてから5日が経った。ケイは意識を戻さないまま、高熱にうなされていた。アキはそんなケイのそばから片時も離れず、懸命に看病しながら祈り続けていた。

 そんな憔悴したアキの後姿を、凛は込み上げる感情を抑えながら見つめていた。


―――あぁ…美成里様!これはなんという奇蹟でしょう!


 凛は静かに部屋に入り、アキの肩に手を置いた。アキの身体がビクッと動いた。

「…あ…凛さん…」

 凛はやつれたアキの顔を優しい眼差しで見下ろした。つぶらな瞳の周りに集まったしわを寄せ、凛はゆっくりと頷いた。不安で潰れそうだったアキの心が少しずつ膨らんでいった。

「…り…凛さ…」アキは涙を堪えながら呟いた。「…ケイ君…熱が下がらないんです…ど、どう…しよう…」

「大丈夫ですよ、アキ様」

「…大丈夫って…もう5日もこの状態なんですよ!?…」

 アキは思わず、凛に不安と怒りをぶつけた。そして慌てて口を閉じた。

「…ご…ごめんなさい…」

 アキは震える手で自分の口を覆った。

「いえ、いいんですよ。私もちゃんと説明しなかったのがいけなかったですね」

 凛はそう言って、ベッドで眠るケイの方へ目をやった。高熱で顔を真っ赤にしたケイは苦しそうに表情を歪めたまま小さく唸り声を上げた。

「……もうすぐです」

「え?」アキは眉間にしわを寄せ、凛の顔を見た。

「もうすぐ、ケイ様は<覚醒>されます」

「…カ…カクセイ?」

 アキには凛の言葉の意味が分からなかった。凛はそんな不安げな表情を浮かべたアキに微笑んだ。

「今はまず、お風呂に入って栄養のあるモノをたくさん食べて下さい。それから少しでも身体を休めて下さい。いいですね?アキ様?」

 アキは呆然と、凛の顔を見た。「…私が…ですか?」

「そう、あなたがですよ。ケイ様が<覚醒>するためにはあなたの力が必要です。ですがこの5日間まったく飲まず食わずで、しかも一睡もされていない今のアキ様では少し荷が重過ぎますね。ですから、とにかく身体を休めて下さい」

「…わ…私なら大丈夫です!…それよりカクセイって!?私は何をしたらいいんですか!?」

「落ち着いて下さい、アキ様。今、ここのオーナーに食事の準備をしてもらっています。ここのオーナーは本当に料理が上手なんですよ。美味しいモノをたくさん食べて少しでもいいですから眠って下さい…あ、その前にお風呂に入って下さいね。女性がそんな汗の臭いをさせていてはいけませんよ」

 凛の言葉に、アキは恥ずかしそうにうつむいた。

「さぁ、早く!早く!」

 凛に急かされ、アキは渋々立ち上がった。鞄から着替えを取り出して、1度ケイの方に目をやってから浴室へと向かった。

 凛は小さく息を吐いた。

「ケイ様、申し訳ありませんでした。アキ様に少し失礼な言い方をしてしまいました…」

 凛はそう言って、ベッドで眠り続けているケイに向かって深々と頭を下げた。



 壁と床に白いタイルが敷き詰められた浴室は、バスタブ付きの3点ユニットバスだった。バスタブと洗面台・トイレットの間にはシャワーカーテンが取り付けてあった。アキは汚れた服を脱いで、カーテンを引き、シャワーの蛇口をひねった。そして丹念に髪と身体を洗った。洗面台にドライアーが見当たらなかったので、アキは濡れた髪にタオルを当てたまま、部屋へと戻った。

「おや?…あぁ、そうでした!ドライアーを準備してもらうのを忘れてました!少し待ってて下さいね!」

「いえ…大丈夫ですよ…」

「駄目ですよ!風邪をひいてしまいます!すぐ借りて来ますから!…」

 凛はそう言って部屋を飛び出した。しばらくして、ドライアーを持って部屋に戻ってきた。アキはそのドライアーで髪を乾かし、オーナーが待っているらしいリビングへと向かった。

 ヨーロピアン調のリビングの中央に置かれたテーブルにはたくさんの料理が所狭しに並べられていた。

「ハイ!アキ!!」

 女性の張りのある声に、アキは飛び上がった。リビングの横にあるキッチンから現れた洋ナシ体系の婦人がニコニコと満面の笑みでアキを見つめた。その女性オーナーはすごいスピードで喋り出した。アキにはもちろん、オーナーの喋るイタリア語が理解出来るはずも無く、ポカンと口を開けたまま固まっていた。オーナーもようやくアキはまったくイタリア語が分からないと気付き、やれやれ…と言わんばかりに両肩を上げた。そして身振り手振りで、椅子に座って食べるようにと伝えた。アキはオロオロと頷きながら椅子に座り、並べられた料理を見つめた。

 初めて見るトスカーナ料理を目の前にして、アキの頭の中には凛が言っていた“カクセイ”という言葉がぐるぐる回っていた。


カクセイ…カクセイ……


 痺れを切らしたオーナーはアキの横に座り、ホークとナイフを握ってパスタを頬張り始めた。

「あぁ!なんて美味しいの!」といった表情で、オーナーは鼻歌を歌いながらアキに笑いかけた。アキは思わずフッと笑った。そしてホークを握り、パスタを一口食べた。

「…うん、美味しい…美味しいです」アキはそう言って、オーナーに向かって微笑んだ。オーナーは嬉しそうに頷きながら、「あれも美味しいのよ!これも美味しいのよ!」と言わんばかりに、アキの前に料理を引き寄せ始めた。

 アキも少しでも食べようと思い、料理を口へと運んだが、半分も食べ切れずに手が止まった。オーナーは心配そうにアキの顔を覗いた。

「…ごめんなさい…」

 アキは呟くように言って、そのままうつむいた。

「―――ダイジョウブ!」

 オーナーの張りのある声が、リビングに響いた。アキは揺れる瞳でオーナーの顔を見た。オーナーは優しく微笑みながらアキの頭をゆっくりと撫でた。

「ダイジョウブ…」

 オーナーの穏やかな声と暖かい手の温もりに、アキの瞳からは堪えていた涙が溢れ出した。

「…うっ…うぅ…」

 肩を震わせながら咽び泣くアキの小さな身体を、オーナーは優しく抱きしめた。そして背中をゆっくりとさすった。

「…ダイジョウブ…ダイジョウブ…」

 窓から木漏れ日が射し込むリビングには、オーナーの柔らかい声が優しく響いた。














―――ここは…どこだ?…


 ケイは重たい瞼を開けた。しかし、辺りは真っ暗闇だった。眼球を左右に動かしてみたが、それでも闇は延々と続いていた。


―――違う…


 ケイは自分がまだ目を閉じたままだという事に、ようやく気付いた。そしてもう一度目を開こうとした。が、さっきよりもさらに重くなった瞼は、開くどころかピクリとも動かせなくなった。

 ケイは身体の奥底から湧き上がる不快感に苛立った。

 身体中にネバネバ、ドロドロとした何かがまとわり付き、それが足元からカチカチに固まった。固まった所が石のような重くなり、その重たさが足から腹部、胸部へと上がってきた。

 ケイは呼吸をするのも辛くなり、手で胸を押さえようとした。しかし、腕が動かない。次第に重くなる腕、肩…そして口…


―――苦しい…苦しい…    アキ…アキ…



「……ア…キ…」

 ケイの口が微かに動き、ケイの手を握っていたアキは慌てて顔を上げた。

「…ケイ…君…」

 ケイの身体から黄金色のオーラが漂っていた。

 部屋の窓ガラスがガタガタと動き出した。部屋中の空気がキンッと張り詰め、アキは思わず息を呑んだ。

「アキ様、心で念じて下さい。ケイ様が闇にのみ込まれないように…アキ様の元へ戻って来るように…」

 凛はそう言ってベッドで眠っているケイの額に手をかざした。そして首から提げた十字架に手を当て、ブツブツと呪文のような言葉を唱え出した。

 窓ガラスがさらに揺れ出した。部屋の壁がギシギシと軋み、ケイの身体から放たれた黄金色のオーラがさらに強くなり、アキの身体をのみ込もうとした。

「ケイ君!!」

 アキはケイの手を強く握り締め、叫んだ。

「ケイ君!!!」



―――――アキ!!!―――――





 ケイの肺に空気が一気に流れ込んだ。

―――苦しい!!

 ケイの身体は呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、ただひたすら空気を吸い込もうとした。ケイは苦しさのあまり、意識が遠のくのを感じた。

……ア…キ…


 その時、ケイの耳元で誰かが囁いた。


「……に呼吸に合わせろ」


 ケイは残された力を振り絞り、その<声>に意識を集中させた。


「私に呼吸を合わせろ」


―――誰…?…


「ゆっくり吐いて…」


 ケイは耳元で響く男の息遣いを肌で感じた。


「ゆっくり吸って…そう…そうだ…」


 少しずつ、ケイの口が動くようになってきた。全身を覆っていた鉛のような重たさが次第に軽くなり、心臓を圧迫していたヌルヌルとした不快感が少しずつ和らいでいった。


「…やれば出来るじゃないか…けい…」


 ケイはゆっくりと呼吸を整えながら、声のする方へと顔を動かした。

―――誰?


 ケイは暗闇の中、ひっそりと佇む人影に呟いた。

―――あんたが…美成里?


 ケイと同じ顔をした男は、微かに微笑んだ。

「…そう」


 ケイはまた瞳を閉じた。

―――死ぬかと思った…


「…うん、本当なら死んでたよ」


―――他人事みたいな言い方するんだな…


「他人事じゃないから、こうやって現れたんじゃないか…もしかして、私の事、怨んでいるのか?」


 ケイは黙った。


「私がお前に<過酷な運命>を背負わせたから?」


 ケイは小さく息を吐いた。美成里は苦笑した。


「本当は分かっているんだろ?お前は<過酷な運命>なんて背負っていない事を―――あの子…アキと出会って、お前は気付いたはずだ。自分はアキのために生まれてきた事を」


―――うん…

 ケイはゆっくりと目を開けた。

―――僕にはアキさえいてくれればそれだけでいいんだ…


 美成里は微笑んだ。

「私も曄と出会った時、そう感じたよ」


―――もう少し、早く出会っていれば良かったのに…


「最初はそう思ってたんだけど…でも今はそうは思わないよ」


―――なんで?


「だってお前がいるから」


 ケイは苦笑した。

―――僕がいるから?


「そう、お前がいるから。私と曄が愛しあった証だから」

 美成里はそう言って、フフっと笑った。

 ケイも笑った。


「…そろそろ時間だ。……一応教えてやるけど、<発作>が完全に治ったワケじゃないからな」


 ケイは顔を歪めた。

―――そうなの?


「うん…ただ今回よりは大分楽だよ。もちろん死ぬ事もない。アキがお前のそばにいてくれればの話だけど」


―――うん、僕はアキのそばから離れないよ…絶対に…



 ケイを取り囲む闇が、少しずつ動き出した。


「…慧…」

 美成里は呟くように言った。

「慧、生きろ」


 ケイの耳に凄まじい勢いで風が吹き込んだ。ゴォォォーという轟音とともに、美成里の姿が砂粒のように吹き飛んだ。

―――――生き続けろ!!―――――

 美成里の声がケイの胸に突き刺さった。




―――――アキ!!!―――――


 ケイはハッと目を開いた。すぐに焦点が合わず、目を細めた。

≪ここは…どこだ?≫

 ケイはベッドから起きようとしたが、身体に力が入らず、起き上がる事が出来なかった。

「―――すぐに体力は戻りますから、今は無理をしないで下さい。ケイ様…」

 その声に、ケイは顔を上げた。

 凛は微笑みながら、ケイの身体を抱き起こした。

「…あんたが…凛?…」

 ケイの言葉に、凛は微笑みながら頷いた。

「はい、はじめまして…ケ……」そう言いかけた凛の目に、涙が溢れた。「…っあぁ…申し訳ありません…あまりにも美成里様に似ていらっしゃるので…つい…」そう言って、服の袖で目頭を押さえた。

「…あの…アキは?…」

「アキ様ですか?アキ様は今リビングで食事を取られてます…とは言ってもまたほとんど何も食べずに戻って来られるでしょうけど…」

 凛はそう言って苦笑した。

「ご気分はいかがですか?」

「…うん…」ケイは部屋を見渡した。こじんまりした部屋には、ケイが座っているブロンズ色のスチールベッドの他に、大きめのチェストとベージュと薄目のブラウンのストライプ模様のカウチソファが置かれていた。壁には小さな花柄の壁紙が張られ、窓のカーテンの隙間からは朝陽がゆっくり射し込んでいた。

「悪くないよ…」

 ケイの言葉に、凛はホッと安堵の表情を浮かべた。

「美成里様には…お会い出来ましたか?」

 ケイは静かに凛の顔を見た。凛は小じわを動かし、穏やかに微笑んだ。

「…あの人に会わせるために、僕をここに呼んだのか?」

「はい、ケイ様…それとアキ様にもお会いしたかったのです」

「アキに?」

「はい。アキ様は特別なお方ですから…」

「…特別?どういう意味?」

 ケイは怪訝そうな表情で凛を見た。

「明日は一日ゆっくりされて下さい。そうすれば体力は戻るはずです。そうしましたら次の日の早朝に私に付き合ってはいただけませんでしょうか?ケイ様…その時にお話いたします」

「明後日の早朝…でも、アキが起きるよ?」

「はい。アキ様には時間が来るまでぐっすり眠っていただけるように“術”をかけさせていただきます。…あぁ、心配はいりませんよ。それに、もう1週間程アキ様はほとんど眠っていらっしゃいませんから、逆に“術”をおかけした方が疲労も取れます。アキ様には体調を万全にしていただかないと、ケイ様の回復も遅くなりますので…」

 凛の言葉に、ケイは顔を歪めた。

「…だからアキも連れて来いって言ったのか…」

「あぁ!いえ…そうではありません…正直に申し上げますと、血を鎮めるための女体なら簡単に準備する事は出来ます。ですが、あなた様はアキ様しか受け付けないようですし、それに私がアキ様と直接お会いしたかったのです」

 ケイは顔を歪めたまま、にこにこと微笑む凛を見つめた。

「まぁ、お話は後ほど…すぐアキ様をお呼び致しますね!それから薬草茶もお持ち致しますね!」

 凛はそう言っていそいそと部屋から出て行った。しばらくして、ドタドタと廊下を駆ける足音が響いた。

「ケイ君!!」

 アキは勢いよく部屋のドアを開いた。

 やつれたアキの顔を見て、ケイは一瞬言葉を失った。アキはしばらくの間その場に立ち尽くした。揺れる瞳でケイを見つめ、震える口端を上げた。

「…おはよう、アキ…」

 ケイも込み上げる感情を抑えるために、なんとか微笑んだ。

「ケ…」

 そう呟いたアキの瞳から涙がポロポロ流れ落ちた。アキはケイの元へ駆け寄り、ケイの身体に抱きついた。

「ごめん…ごめん、アキ…」

 ケイはアキの身体を強く抱きしめた。

「…っ…ケ!…っケイ…くぅん!…うわぁぁぁ!」

 アキはケイの腕の中で、声を上げて泣き続けた。





 翌日もケイはアキとともにゆったりとした時間を過ごした。凛が言っていた通り、薬草茶も効いたお蔭でケイの体力は少しずつ戻り始めていた。しかしそれでも1週間程寝たきりだったせいか歩く時にどこか宙に浮いたようなフワフワした感覚が残っていた。それに、アキが常に不安げな表情でケイの顔を見つめていた。ケイの方は憔悴した顔のアキの方が心配で、

「僕はいいからアキの方こそちゃんと食べないと駄目だよ!」と、強く言った。

 ケイの言葉にアキは苦笑しながらもシュンとうつむくので、ケイは慌てた。


 ケイとアキが滞在していたホテルは、アグリツーリズモ(農家滞在型ホテル)だった。二階建ての大きな一軒家を改築し、オーナー家族は一軒家の横に建つ家屋で生活していた。そしてアパートメントには語学留学生も受け入れていた。ケイとアキが一階の部屋に滞在中も、アメリカ人留学生が2人、二階の部屋で生活していた。ただ、食事の時はいつも一緒だった。これはこのホテルのきまり事で、夕方にはホテルの利用者全員で食卓を囲む事になっていた。このホテルの女性オーナー、エレナは毎日毎日宿泊者のためにボリューム満点のトスカーナ料理に腕を振るっていた。


「ケイサンの体調良くなったら、町を案内してあげる!」

 エレナの息子、ルカは得意げに微笑んだ。

 ホテルの近くに建つ教会の牧師を務めていた凛は穏やかに微笑んだ。

「それはいいですね。私はなかなか教会から離れる事が出来ませんので…ルカ…」凛はイタリア語でルカに喋り始めた。ルカはうん、うんと頷きながら聞いていた。

「なるべく2人の邪魔をしないように!」という凛の忠告を聞いて、ケイは思わず苦笑した。そして横に座るアキの顔を覗いた。

「アキ…」

「…っうん?」ケイの言葉に、アキはパッと顔色を変えた。一瞬ではあったがアキの瞳が揺れた事に、ケイは気付いた。

「なぁに?凛さん、何て言ってたの?」

「うん…あのね…」

 ケイは微かな不安を感じながらも、微笑んだ。



 賑やかな夕食時間が終り、みんなそれぞれの部屋へと戻って行った。ケイとアキもあの可愛らしい部屋へと戻り、カウチソファで寛いだ。

「……ケイ君…本当にもう大丈夫?」

 アキの不安げな言葉に、ケイは苦笑した。

「もう大丈夫だって!…アキは?今日もあんまり食べてなかったみたいだけど……少し味濃過ぎるかな?僕はやっぱりアキの料理の方が好き…」

 そう言いかけたケイの身体にアキは抱きついた。ケイは驚いて、アキを見つめた。

「…どうした?…アキ?…」

 アキが何か言おう口を開いた時、コンコン!と部屋のドアが叩かれた。

「ケイ様、アキ…おっと…これは失礼しました…」

 ソファで抱き合う2人の姿に、凛は慌てて部屋から出て行こうとした。

「待って!凛さん!」アキは慌てて凛を呼び止めた。「何か、ご用だったんでしょ?どうぞ!」アキの笑顔に、凛は済まなそうに頭を下げた。

「いえ、ただご挨拶をしに来ただけなんです…アキ様、どうぞ、ゆっくりとお休み下さい」

 凛はアキの目を見て言った。アキは一瞬、凛のつぶらな瞳に吸い込まれそうな感覚に襲われた。

「っ…え…あ、はい…おやすみなさい…」ハッと我に返り、アキ慌てて言った。

「ケイ様もおやすみなさい」

「…おやすみ…」

 ケイは無表情のまま答えた。


 そして―――トスカーナの小さな田舎町に深い闇が落ちた。

 木造の建物は、人々の寝息が聞えてきそうなほどに静まり返っていた。建物の庭に立ち並ぶ木々の葉が時折風でカサカサと揺れた。

 ケイはアキの規則正しい寝息を聞きながら、アキの髪を撫でていた。そして、徐にベッドから起き上がり、アキの頬に手を当て、アキの額にキスをした。

 ケイは静かにベッドから抜け出し、服に着替え、靴を履いた。部屋のドアノブに手を置き、もう一度アキが寝ているベッドの方に振り返った。

 そして、静かに部屋を後にした。



 薄らと赤み出した異国の空を仰ぎ、ケイは広々とした庭を歩き始めた。

 凛は庭を囲む茂みの切れた所に立ち、ケイの姿を見付けると、ケイに向かって頭を下げた。

「―――おはようございます、ケイ様…」凛は目尻にしわを集め、優しく微笑んだ。「アキ様はよく眠っていらっしゃるでしょう?」

「……うん…」

 凛の言葉に、ケイは小さく頷いた。

「では、参りましょうか…」

 凛はそう言って踵を返し、歩き出した。


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