天使の微笑み1
君のために僕は詠う。
天使の微笑み1
1985年5月 イタリア
小高い山の上に位置するトスカーナの小さな町に彼女は訪れていた。5月の爽やかな風を頬に受け、中世の石造りの町並みを眺めながら彼女はゆっくりした歩調で歩いた。そして、入り組んだ細い石畳の小道を通り抜け、目的地の司教区美術館へ到着した。彼女は踊る気持ちを抑えながら美術館の扉を開いた。
ルネッサンス期の雰囲気そのままの内装の美術館を見渡しながら、彼女はある祭壇画の前で立ち止まった。
彼女はその鮮やかな色彩の祭壇画の前で、しばらくの間息をするのを忘れていた。
フゥー
と、彼女はやっと息を吐いた。
≪なんて素敵なの≫
彼女は深い感動の中、自分の背後の気配にようやく気が付いた。
彼女から少し離れた所に長身の男性が立っていた。その男性は長身だったが随分痩せていたせいか彼女の目には小柄に見えた。彼女はその男性の雰囲気に圧倒されていた。
細く長い脚、シャープな輪郭の小顔、そして薄いブラウンのサングラスの奥からの澄んだ眼差し。
≪何!?モデル?≫
彼女がそんな事を考えながらその男性に見入っていると男性はフッと笑い、手の中の銀色の懐中時計をパチンと閉じ、祭壇画の前で立ち尽くす彼女に近付いた。彼女はハッと我に返り、慌てて身体を横にずらした。
「ありがとう…」
男性はそう言うと、静かにその祭壇画を眺めた。
2人の間に沈黙の空気が流れた。
「……素晴らしい画ですよね」
男性の言葉に彼女は慌てて頷いた。
「え、えぇ…本当に素敵ですね。フィレンツェの画とはまた雰囲気が違うんですよね〜…」
「フィレンツェの画も観たんですか?」
「はい。フィレンツェに住む友人がここの美術館にも同じ画があるって教えてくれたんです」
「だからわざわざこんな田舎町まで来られたんですか…」
「えぇ…」
彼女はそう答えながら男性の端正な顔を見つめた。
「…あの…」
「はい?」
「…もしかして…日本の方?」
彼女の質問に男性は優しく微笑んだ。
「えぇ…あなたも日本人ですよね?」
「えぇ!もちろん!…でもこんな所で日本人に会えるなんて思わなかったわ!」
彼女は嬉しそうに言った。
「僕もですよ」
男性も微笑んだ。
「私、池上曄って言います。あなたは?」
「僕は…」
男性は少しだけ言葉を詰まらせた。曄はいきなり自己紹介した事を後悔した。
「ご、ごめんなさい!あの…別に言いたくなかったら言わなくてもいいですよ」
曄の言葉に男性は苦笑しながら首を横に振った。
「違うんです。ただ…僕の名前ちょっと変わってるから…」
男性の言葉に曄は思わず吹き出した。
「そんな…私の名前も変わってるでしょ?曄なんて…なんだかお婆ちゃんみたいでしょ?だから気にしないで!よかったら教えて下さいよ」
男性は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「…美成里…僕の名前は美成里と言います」
曄は美成里に自分が日本の大学病院の研究室で働いている事、フィレンツェに親しい友人が住んでいて、久し振りに休暇を取ってその友人に会いに来た事を話した。美成里は曄にこの小さな田舎町に知り合いが住んでいて、連れと2人でその人に会いに来た事を話した。
“連れ”と聞いて、曄は少しだけがっかりした。
「―――美成里さんって…もしかしてモデルさん?」
曄の唐突な質問に、美成里は驚いた。
「え?どうして?」
「…だって…すごく美人だもん。それにスタイルいいし…あっ、でも心配しないで!ここで会った事は誰にも言わないから!それにサインなんて頼んだりしないから!…」
曄はそう意気込んだが、
≪…ん?…!これじゃ遠回しにサインを頼んでるみたいじゃないか!?≫
と気付き、
「べっ別にサインを頼んでるんじゃないからね!私、本当にそう言うの興味無いから!…」
と言って、
≪何失礼な事言ってるのよ!!≫
と、1人でパニックに陥った。美成里はそんな様子の曄を見ながら吹き出した。
「僕、モデルとかじゃないから大丈夫だよ。そんなに考え込まないで」
「え?…あ…あぁ…」
曄は恥ずかしくなりうつむいた。
「曄さんって楽しい人ですね」
「え?そう?…」
くすくすと笑いながら美成里が頷いた。
「…あなたは…とても不思議な人ね」
「不思議な人?」
「うん。とても23歳とは思えないぐらい落ち着いてるもん。私の方が5つも年上なのに…なんだか完敗って感じ…」
曄の言葉にまた美成里は笑い出した。
「クックックッ…本当に曄さんって面白い…」
お腹を抱えて笑う美成里を見ながら、曄は口を尖らせた。
「…そんなに人の事で笑うのもいいけど…早く戻らなくていいの?連れの方がお待ちじゃない?」
曄が嫌味を言った時、
「――――成里様!美成里様!!」
と言う男性の声が聞こえてきた。
「美成里様!!こんな所にいらしたんですか!もう!捜したじゃないですか!」
グレーのケープを羽織った背の低い坊主頭の男は、ゼェゼェと息を切らしながら曄と美成里が座って話し込んでいた美術館の前に置かれた椅子の前にしゃがみ込んだ。
「あぁ…悪かった、凛」
「悪かったじゃないですよ…」そう言いながら、凛は自分の事をしげしげと見つめる曄に目をやった。
「美成里様、こちらの方は?」
「あぁ、池上曄さんだ。この美術館で知り合ったんだ。曄さん、こいつが僕の連れの凛です」
凛はスクッと立ち上がり身なりを整え、深々と頭を下げた。
「初めまして、曄様。私は美成里様の世話役の凛と申します。よしなに」
凛の時代錯誤な自己紹介に、曄は唖然とした。
「…っあっ…いっ池上曄です!よっよろしく…」
そんな2人のやり取りを見ながら、美成里は笑いを堪えるのに必死だった。
曄と美成里と凛は、出会いを祝して夕食を共にする事にした。3人は町の中心街にある小さなレストランへ入った。店内の客は地元の人間で大半を占めていて、異国の地から来ていた3人の存在は幾分浮いていた。
曄は初めて食べるトスカーナ料理に舌鼓を打ちながら、ちびちびとワインを口に運ぶ美成里とパスタを頬張る凛を見た。
≪この2人が同い年なんて…信じらんない…≫
そんな曄の心の声を見透かしたかのように、凛が怪訝そうに曄を見た。
「…まだ信じられませんか?曄様?」
「え?」
「凛は小柄で童顔だからね、仕方無いよ」
美成里の言葉に凛は肩を落とした。
「…あっ…しかし、美成里さんはお酒強いね!」
「そう?…曄さんも結構イケるね」
「確かに美成里様はどんなに飲んでも酔われませんが…曄様も全く酔いが顔に出ませんね〜」
と、心底感心した様子で凛は言った。
「…よく言われるの。だから男が寄って来ないのよね〜…」
「え?そうなんですか?そんなにお美しいのに?」
凛は首を傾げながら言った。曄はそんな凛の言葉に頬を赤めた。
「…お美しいって…君、なかなか言うわね」
「お世辞ではありませんよ。ねぇ、美成里様」
「うん、僕も曄さんは美人だと思うよ」
「ちょっと、ちょっと2人共!年上からかうのもその辺にしといてよ!」
曄は恥ずかしそうに言った。
「でも、本当に男は寄って来ないのよ。酒が強くて気も強い女は毛嫌いされるものなのよ。分かるでしょ?」
「…分かりませんね」
凛の言葉に美成里も頷いた。
「ああん!君達みたいなのがたくさんいたらなぁ〜…とっくの昔に結婚してたのに!」
歯痒そうに言う曄を見ながら美成里は微笑んだ。
「ところで、君達はどうなの?」
「何がですか?」
「女よ!美成里さんはハンサムだし、凛さんも…まぁ可愛らしいから彼女の1人や2人…」
「私は美成里様のお世話役として一生を捧げる覚悟ですので女子など興味はありません」
凛はきっぱりと言った。
「…美成里さんは?」
「僕ですか?…僕は普通の男ですから女性には興味ありますよ」
「美成里様!それでは私が変わり者のようではありませんか!」
美成里の言葉に凛は口を尖らせた。2人の会話を聞きながら曄は笑った。
「凛さんは変わり者なんかじゃないわ。それが凛さんの生き方ですもの。素敵よ」
曄の言葉に今度は凛が頬を染めた。
3人はサラミやプロッシュートチーズをつまみながらワインを飲み、閉店時間まで語り合った。店を出て、また会う事を約束してそれぞれのホテルへと向かった。
「……素敵な女性でしたね」
ホテルの部屋のオレンジ色の灯りを見つめながら凛は呟いた。そんな凛を美成里は静かに見つめた。凛は込み上げる涙を堪えるため、天井を見た。それでも溢れた涙は凛のこめかみをつたった。
「泣くな、凛」
美成里は呟くように言った。
「…ですが…美成里様…」
「仕方の無い事だ。これが僕達の運命だ」
美成里の言葉に凛は泣きながら唇を噛んだ。美成里は黙ったまま窓から外を眺めた。閑散とした町には昼間とは違うひんやりとした空気が流れていた。
「…美成里様、お身体の方はいかがですか?」
凛は涙を拭いながら美成里に訊いた。
「あぁ、大丈夫だ」
そう言いながら美成里はかけていたサングラスを取った。凛は美成里の顔を見つめ、安心したように微笑んだ。
「本当だ。眼の色が大分戻っていますね」
美成里は微笑んだ。
「…美成里様、明日曄様と昼食をご一緒したらいかがですか?」
凛の言葉に美成里は眉をひそめた。
「凛、お前…」
「そういう意味ではなくて…3人でまたお喋りしたいと思いまして…ダメでしょうか?」
あせあせと言う凛を見ながら美成里は小さくため息を吐いた。
「…もう彼女とは関わらない方がいい。それが彼女のためだ」
「ですが…美成里様…」
「凛、僕達の運命に彼女を巻き込んではいけない。僕の事なら心配いらない」
凛はもう何も言わなかった。美成里が何も言わせなかった。凛はうつむいたまま美成里の部屋を後にした。
1人になった美成里はベッドに腰を下ろし……曄の事を考えていた。
彼女はどうして何も訊かなかったのだろうか?
疑問に思っていた事は分かったが…その疑問を口にしなかったのは何故だろうか?
次の日、曄は厚い雲に覆われた空を仰ぎながら町を散策していた。そしてある教会の前で足を止めた。その教会では何かの式典があっているようだった。人々がオリーブの枝を手に持ち、教会の前に並んでいた。そして祭壇で牧師に祝福を受けていた。曄はその光景を好奇心の目で見つめていた。そんな曄のもとへ子供が駆け寄って来てオリーブの枝を差し出した。息を弾ませ、瞳を輝かせながら曄を見つめる子供に
「Grazie」
と言ってオリーブの枝を受け取った。
曄は手の中のオリーブの枝を見つめながら……美成里の事を考えていた。
「―――曄様?曄様!!」
その元気な声に曄は顔を上げた。
曄の目の前に美成里と凛が立っていた。
「美成里さん!凛さん!」
曄は笑いながら2人に駆け寄った。
「またこんな所で会えるなんて嬉しいです!」
「何言ってるのよ、凛さん!こんだけ小さな町なのよ。どこにいたって会えるわよ!」
曄はそう言いながら美成里を見た。サングラスの奥から見つめる澄んだ視線が曄の心を揺さぶった。
「…こんにちは、曄さん」
「こんにちは…」
曄は美成里の端正な顔を見つめながら答えた。
「せっかく会えたんです!どこかで一緒に昼食でもいかがですか?」
2人の固くなった空気をほぐすように凛は言った。
「――――曄様はもうしばらくこの町にいるんですよね?」
「えぇ、そのつもりよ。でも来週には日本に戻らないとだけど…どうして?」
凛の言葉に曄は口の端に付いたピザソースをナプキンで拭いながら訊いた。エスプレッソをすすっていた美成里は横目で凛を見た。
「…いえ…私達ももうしばらくこの町に滞在する予定なのでその間こうやって食事でもご一緒出来たらと思いまして…ご迷惑ですか?」
「そんな…迷惑だなんて…そんな事ないけど…」
そう言いながら…曄は顔色を変えた美成里を見た。美成里の顔が少し青くなったように感じたからだ。
「…凛…そんな事言ったら曄さんが困るだろう」
美成里の言葉に凛はうつむいた。
「…あの…別に迷惑じゃないわよ。君達とお話しするのとても楽しいもの」
「そうですか!?」
凛の表情がパッと明るくなった。
「えぇ、2人が良ければまた一緒に夕飯でも食べましょう」
嬉しそうに頷く凛を見ながら曄は微笑んだ。そして美成里に目をやった。美成里が苦笑したまま小さくため息を吐いたのを見て、曄は胸の奥が痛むのを感じた。
「―――――どういうつもりだ?凛…」
凛は震えながら美成里の前に膝を付いた。
「…余計な事をした事は分かっております。ですが美成里様、美成里様が“女断ち”されてもう1年になります!このままでは美成里様はっ…」
「黙れ!!」
美成里の怒声でホテルの部屋の明かりが大きく揺れた。オレンジ色の明かりが左右に揺れるの見つめながら美成里は大きくため息を吐いた。
「…もうこんな事はするな」
美成里はそう言うと目頭を押さえながらベッドに腰を下ろした。凛は涙で濡れた顔を上げ、青ざめた表情の美成里を見た。
「……美成里様は…この地で死ぬおつもりですか?」
「…凛…」
「奴らに一族を滅ぼされ、それでも報復などしないおつもりですか!?」
「…もう僕の力ではどうする事も出来ない」
「そんな事ありません!もう一度“血”を静め、そしてローマへ向かいましょう!マルコ牧師の血族者がまだ生きているかもしれません!」
「もう女は抱かない!!」
「みっ…美成里様…」
美成里の瞳が黄金色に光り出した。その光を見て、凛は慌てて頭を下げた。
「凛…お前は…お前だけはもう日本へ帰れ」
美成里の言葉に凛は愕然とした。
「みっ…」
「奴らの目的は僕だ。もうすぐ奴らもこの町へやって来るだろう…だからその前にお前は日本へ帰るんだ」
「嫌でございます!!私は美成里様と一緒にいます!!」
「…お前まで死ぬ事はない…」
「私は死にません!美成里様も死にません!一緒に…一緒に日本へ帰りましょう!」
凛の言葉に美成里は小さく首を横に振った。
「凛…僕はマルコ牧師の死を知って決めたんだ。もう逃げないと……」
「…美成里様…今のままでは…奴らには勝てません…」
凛は涙を流しながら言った。
「勝つために闘うのではないんだ。一族の誇りを守るために闘うんだ。それが生き残った僕の運命なんだ…」
美成里は静かに窓の外へ目をやり、霧のような小雨の降る夜空を見つめた。
「…もう女を抱いても“血”は静まらないんだ…もう手遅れなんだよ…」
「…そんな…」
凛の顔に絶望感が漂った。
「そんな顔するな、凛」
美成里は苦笑しながら言った。
その日の夜、曄はホテルの部屋の窓から霧のような小雨の降る夜空を見つめていた。ベッドの横のテーブルの上にあるスタンドライトを消し、ベッドに潜り込み、仰向けのまま天井を見つめた。シンと静まり返った部屋に雨音だけが静かに響いた。曄は静かに瞳を閉じ、その音を肌で感じていた。
夜が明け、それでも小雨が降り続いていた。曄がホテルのエントランスホールから外へ出た時、遠くから教会の鐘が鳴り響いた。その鐘の音を聞きながら、曄はホテルの花壇の前のベンチに座っていた美成里に気付いた。
「……美成里さん?」
曄の言葉に美成里がゆっくり立ち上がり、微笑んだ。
「ごめんね、付き合わせちゃって…」
「気にしないで。僕もこの町に来てから何度もこの画を観に来てるんだ」
美成里の言葉に曄は微笑んだ。
2人は最初に出会った司教区美術館へ訪れていた。そして、その祭壇画を眺めながらその画の世界に浸っていた。
「…何度観ても素敵ね…」
ほぅ… と、曄は息を吐いた。
「この左側にいるのが天使でしょ?そして右側にいるのがマリア…」
曄はそう言いながら画の左上に目をやった。
「…この部分は何を意味するのかしら?」
「これはアダムとイウ゛の“楽園追放”だよ」
「へぇ〜…1枚の画にそんな物語が描かれていたのね…すごい…」
曄は感心しながらまた画に見入った。
「どうして神が地上に降り立たなくてはいけなくなったのか…その原因が人間の煩悩だったんだね」
「あぁ…なるほど…」
曄はそう言いながら美成里を見た。
「なんだか…神様も大変ね」
「そうだね」
2人は笑いながらもう一度画を見つめた。
「…大丈夫?」
曄は意を決したように美成里に訊いた。
「え?…」
「なんだか顔色が悪いわ…もう帰りましょうか?」
そう言って歩き出そうとした曄の腕を美成里は掴んだ。曄は驚き、美成里を見た。美成里は慌ててその手を放した。
「ごめん…大丈夫だよ。心配しないで…」
「…そう…ならいいんだけど…」
2人の間に沈黙の空気が流れた。
「…あの…美成里さん…私ね、医師の資格持ってるの。だから何か力になれる事があれば何でも言ってほしいんだけど…」
曄は遠慮がちに言い、美成里を見た。
「…ありがとう…なんだか気を遣わせちゃったね…」
美成里は苦笑しながら言った。
「私の方が年上なのよ!しかも私は専門家なの!素人がそんな事気にしてどうするのよ!」
「…そうだね…ごめんなさい…」
「もう!謝らないの!」
曄の言葉に美成里は微笑んだ。
「…この町に来たのは、僕の病気の事をある人に相談するためなんだ」
「そうなの…」
「…でもその人はもう亡くなってたんだ」
「え?…」
思いがけない言葉に、曄は言葉を詰まらせた。
「…でも大丈夫。この町の空気は僕の病気に良いみたい…だからもう少し滞在する事にしたんだ」
そう言うと美成里は穏やかに微笑んだ。曄はその微笑みを見つめながら、サングラスの奥から漂う美成里の意思を読み取ろうとしていた。
次の日の早朝、凛は曄の泊まるホテルの部屋のドアを勢いよく叩いた。
「曄様!曄様!!」
「…っ待って!今開けるから!」
曄は慌てながらドアを開けた。凛は寝間着姿で息を切らしながらそこに立っていた。
「一体どうしたの?」
「美成里様が!…美成里様がすごい熱で…っ…」
「え!?」
曄は急いで着替え、凛と共に美成里が泊まるホテルの部屋へと急いだ。
「美成里様!失礼します!」
凛はそう言うと勢いよくドアを開け、部屋に飛び込んだ。曄は凛に続き部屋へと入った。
曄は、その部屋の空気が“違う”事に気付いた。
部屋の端のベッドで息を切らしながら眠っている美成里の身体の周りには金色のオーラのようなモノが漂っていた。曄は思わず息を呑んだ。
「曄様!!」
凛の声に曄はハッとし、慌てて美成里のもとへ駆け寄った。そして美成里の額に手を当てた。
「…なっ…すごい熱!…薬は!?いつも服用してる薬はないの!?」
凛は目に涙を浮かべながら首を横に振った。
「ないの!?」
曄は慌ててホテルのフロントへ行こうとした。
「待って下さい!薬なんか効かないんです!」
「え!?」
曄は泣きながら自分の事を見つめる凛に目をやった。
「…どういう事?」
曄の言葉に凛はうつむいた。曄は苦しそうに呼吸をする美成里を見た。
「…後で…説明しますから…だから誰も呼ばないで下さい…」
曄は黙ったままうつむいた凛を見つめた。そして小さく頷いた。
「…分かったわ…でも氷ぐらいはもらってきていいでしょ?」
凛は涙で濡れた顔を上げ、曄を見た。曄の優しい微笑みに凛の表情が少しずつほぐれていった。曄は凛に窓を開けるように指示し、フロントへと急いだ。
一体…君達は何者なの?
曄は延々とそんな事を考えながら美成里の看病に励んだ。その甲斐あって美成里の熱は下がり始めた。
「…曄様…美成里様はいかがですか?」
食べ物を買いに町へ行っていた凛が部屋に戻ってきた。心配そうに美成里の部屋を覗いた凛に、曄は微笑んだ。
「もう大丈夫よ。何を買って来たの?」
そう言いながら曄は凛が重たそうに抱えていた紙袋を覗き込んだ。中には容器に入ったチーズとドライトマトのペーストとガーリックトースト、そして大きめの鍋が入っていた。曄はその重たい鍋を袋からゆっくり取り出し蓋を開けた。一気に湯気が立ち上り部屋中に充満した。
「良い匂い〜…って何これ!?ラタトゥイユ!?」
「よく分かりませんけど…とても身体に良いそうですよ」
凛は得意げに言った。
「…これ売ってたの?」
「いえ、そこのお店のおばさんから頂いたんです」
「頂いた!?」
「はい、美成里様と一緒に食べなさいって…この町の方は皆さん親切ですね」
凛の言葉に曄は思わず吹き出した。
曄はトマトペーストをガーリックトーストに塗り、凛が料理を皿に取り分けた。そうしていると、美成里が目を覚ました。
「美成里様!ご気分はいかがですか!?」
「……うん…なんか良い匂い…」
そう言いながら美成里はベッドから身体を起こした。
「凛さんが親切なおばさんに頂いたんだって〜…」
曄は笑いながら美成里のそばに料理を運んだ。そして曄と凛もベッドの上に腰を下ろし、3人で料理を食べた。
「……本当に…色々…ありがとうございました…」
美成里の言葉に曄は微笑んだ。
「気にしないの!また明日も来るからね!」
曄はそう言うと部屋を後にした。
その後を凛が慌てて追い掛けてきた。
「…曄様!」
「?…どうしたの?」
「…あの…おっお話したい事があるんですが…」
凛の言葉に曄は首を傾げた。
曄は自分が泊まっているホテルのエントランスホールで話そうと提案した。凛は安心したように頷き、曄の後に付いて行った。
「――――で、話って何?」
「…はい…」
閑散としたエントランスホールのソファに腰掛け、曄は凛の言葉を待った。凛は言いにくそうにうつむいたまましばらくの間黙っていた。
「…凛さん?」
「曄様、今回は本当にありがとうございました」
凛の言葉に曄は苦笑した。
「もう気にしないでって言ったでしょ?…早く本題に入ってよ。私本当に眠いの…」
曄の言葉に凛は意を決したように口を開いた。
「曄様は美成里様の事どう思っていらっしゃいますか?」
「は?」
「本当ならもう日本へ帰っていたでしょう?それなのに美成里様のためにこの町に残られた…曄様も美成里様の事…」
「ちょっ…ちょっと待ってよ!何言ってるの?」
凛の思い掛けない言葉に曄は戸惑った。
「曄様が帰られた後、美成里様は寝言で曄様の名前を何度も呼ばれていました。美成里様は曄様の事をとても気にされています」
凛の真剣な眼差しに、曄は圧倒された。
「…あまり詳しい事は言えないのですが…美成里様のお身体は少しだけ普通の方と違います。あの眼の色を見てもうお気付きでしょう?」
曄は凛の言葉を静かに聞いた。曄は看病をしながら美成里の肉体が一般男性の何倍も発達している事に気付いていた。そして黄金色のあまりにも綺麗な瞳の輝きにも……
「えぇ…私は医者であり科学者よ。この地上にそういった人間がいる事については自分なりに理解しているつもりよ」
曄の言葉に凛は安心したように微かに笑った。
「…今、美成里様はとても衰弱されています。それはある事を断たれたからです」
「…ある事?」
凛はゆっくり曄の顔を見つめた。
「1年以上前から女断ちされています」
「…女断ち?」
「…はい…。美成里様の一族は皆、生まれながらにして超越した細胞や筋肉の持ち主でした。ですが一定の周期でその力がコントロール出来なくなるんです。そのためその周期の“発作”を鎮めるために決められた女子と交わるのです」
「え?…交わるって…セックスの事?」
「はい」
「…えっ…それで美成里さんは1年以上もセックスしてないからあんな風に熱を出したの?」
「…そうです…」
「…何で美成里さんはその女断ち?…をしてるの?」
「…そ、それは…すいません…それはお教えする事はできません…」
2人の間に沈黙の空気が流れた。
曄は小さく息を吐いて、うつむいたままの凛を見た。
「…で…君は何が言いたいの?」
うつむいたままの凛が静かに顔を上げた。
「美成里様と寝ていただけませんか?」
凛の言葉に曄は一瞬言葉を詰まらせた。
「一度だけ…一度だけでいいのです!曄様ならきっと美成里様を受け入れる事が出来るはずです!美成里様の体調が良くなれば日本へ戻れます!お願いです!曄様…」
「落ち着いてよ!凛さん!…その事、美成里さんが望んでいるの?」
「…それは…」
言葉を詰まらせた凛を見て、曄は愕然とした。
「まさか…美成里さんは知らないの?君が勝手に言ってるだけなのね!?」
「でも…きっと美成里様もそう望まれて…」
「馬鹿にしないでよ!!」
曄の怒声がホールに響き、従業員達が何事かと集まり出した。
「よ…曄様…」
「君は…よくそんな事平気で言えたわね…女を何だと思っているのよ…」
怒りに肩を震わせながら曄は呟いた。凛は真青になり慌てて曄の前で土下座した。
「けっ決して馬鹿になどいたしておりません!信じて下さい、曄様!!」
曄は込み上げる涙を堪えながら立ち上がった。
「…もう帰って…」
「…曄様…」
曄は土下座したままの凛の横を通り、そのまま部屋へと駆け出した。