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カエル君

作者: さわら


かつての市街、ビルが乱立していた街並みは今、その殆どが水に沈んでいた。


水は遙か彼方の水平線まで広がり、かろうじていくつかの背の高いビルと市街を環状に通る高架道路だけが、水面から浮かび上がるようにしてぽつぽつと顔をのぞかせている。


人も生き物の気配も無く、風も雲も無いおだやかな空の下で、水に沈んだビル群は一切の音が途切れたように静まり返り、ただじっと水面に影を映していた。


その凪いだように静かな水面に、小さな波紋が一つ広がる。


そしてゆっくりと広がっていく波紋の中央から、きょろりと二つの目玉が浮かび上がる。


二つの目玉は三日月のような縦長の瞳孔を動かしながら周囲を伺うようにあちこちを見まわしていたが、しばらくして一つのビルへと視点を止める。そうして長い間そのビルをじっと見つめた後、ゆっくりとビルを目指して水上を滑るように進んで行く。


目玉は迷う様子もなくビルへとまっすぐ近づいて行き、ビルがちょうど水面と接した階の、割れた窓枠の前で止まる。


そっと水中から四本の指が付いた手が伸ばされ、ぴたりと窓の縁に張り付く。


その張り付いた両手を支えにして、ゆっくりと目玉が、続いて顔、胴体が水から引き上がって行く。


浮かび上がったそれは、まるきりカエルそのものだった。


ただそれは生物的なカエルというよりも、デフォルメされたおもちゃやマスコットのようなカエルの姿をしていた。


かつて「カエル君」と呼ばれていたそれは、特に表情を変えないまま瞳孔を小さく細めると、ゆっくりとビルの中へと入っていく。


ぴちゃり、とわずかに水音を立てて、カエル君は荒れ果てた薄暗いビルの一室へ降り立つ。


そうしてすっと二本の足で立ち上がると、辺りをきょろりと見回す。


見回していたカエル君の視線がとある一点、乱雑に散らばった机の一つにすえられる。


その机の上、倒れるように重なった本や紙の上、そこにそれはいた。


小さな黒いモヤのような塊、空き缶程の大きさのそれは人のような形をしており、机の上で踊り続けている。


踊っている訳では無く、ただゆらゆらとうごめいているだけなのかもしれない。ともかくもその人型の塊はひたすら机の上で両手両足と思われる部分を振り続けていた。


明かりの消えたビルの中でもわかる、暗がりよりも黒々としたそれへと、特に表情を変えぬままカエル君はゆっくりと近づいて行く。


なお踊り続ける黒い塊との距離があともう数歩となった所で、カエル君が立ち止まる。


黒い塊を見据え続けたまま、カエル君の口がゆっくりと開かれる。


音もなく、開かれた口からやけに鮮やかなピンクの舌が飛び出すようにして伸ばされ、あっという間に黒い塊を捕らえて口の中へ戻る。


ばくん、とカエル君の口が閉じられる。きゅっと目を閉じて、ごくりと喉が動く。


しばらくのあいだ目を閉じて微動だにしないままでいたカエル君は、ようやく落ち着いたのか一度瞬きをするとまたいつもの無表情に戻り、きびすを返して先ほど入ってきた場所へと戻る。


そして窓の縁までたどり着き、また特にためらうでもなくぽちゃんと水中へ飛び込む。


再び辺りはしんと静まり返り、わずかに水面に波紋が残るだけとなる。




その日、カエル君は高架道路の上を歩いて少し離れたビル群へと向かっていた。


空には低く灰色の雲が立ち込め、湿り気を帯びた風がそっとカエル君の顔を撫でていく。カエル君は風を受けて少しだけ目をしばたたかせながら、水かきの付いた足でぺたぺたと歩き続けている。


道路は所々が崩れ落ち、ガレキとなった遮音壁が道を塞いでいる。カエル君はそれらを避け、あるいは乗り越えながら、歩みを止める事なく黙々と進んでいく。


いくつかの分岐を経て進んだ先で、道路の脇にひときわ大きなガレキの山があった。


それまで一度も止まる事なく歩き続けていたカエル君が、ふとそのガレキ山の横で立ち止まる。


目玉を、次に顔全体をきょろりとガレキ山の方へと向けると、一点を見つめたままじっと動かなくなる。


視線の先、幾重にも積み重なったガレキの下敷きになるようにして、水かきの付いた足が見えた。


カエル君は確かめるようにその足をしばらくの間見つめ続けていたが、少しだけ瞳孔を細めると、また何事もなかったかのように前を向き、ぺたぺたと歩き出した。




雲が晴れ、夕日が水平の彼方へと沈んでいく頃、カエル君は傾いて半ばまで水没したビルの上にちょこんと腰掛けていた。


屋上のへりに両足を投げ出してすこし猫背に座り、沈む夕日をじっと眺めている。


遠く熱圏の向こうへ知らせが届くよう、顔をあげて組んだ両手を膝の上に置き、まるで祈るようにただひたすらに夕日を見つめている。


風が水面を撫でる音がして、赤く染まったさざ波が夕日へと向かって流れていく。




東の空から朝日がゆっくりと顔を出し、少しずつビルの中へと日が射し込んでいく。


ビルの一室、そのすみで目を閉じてうずくまっていたカエル君の顔にも日が当たる。


ゆっくりと目を開き、カエル君はのっそりと立ち上がる。


そのまま窓辺まで歩み寄り、じっと朝日を見つめる。


朝日の光を体全体で浴びて、その熱を吸収する。


時々思い出したように手で顔を拭く以外は特に何をするでもなく、たたずんで日の光を浴び続ける。


そしてまたいつものように、カエル君は水の中へちゃぽんと飛び込む。




そうして何年かが過ぎた頃、永い冬が近づいてきた。


その訪れを知らせるように、遙か北の氷床から運ばれてきた風が神経質な風きり音を立てながら、半ばまで割れた窓ガラスを叩いては過ぎ去って行くようになる。


日毎に寒さは深まり、徐々に日が射す時間も少なくなってくる。


その僅かな日差しを惜しむように、カエル君は窓辺でじっとうずくまり、差し込む光を浴びていた。


外は相変わらず風の音以外は何者の気配もなく、今では黒い塊も殆ど見かけなくなっていた。


それでもカエル君はいつものように、何も言わず、ぽちゃんと水の中へと潜って行く。




それからまた何年か過ぎた頃に、永い冬が訪れた。


七生を過ぎてもまだ明ける事のない、暗く永い冬が。


水面は厚くこおり、その上に幾重にも雪が降り積もってゆく。


ビルも道路もガレキの山もみな雪で覆い隠され、景色の全てが灰色に沈んでゆく。


空は一面が分厚い雲で覆われており、日が射す事は無い。


もうカエル君は殆ど動く事がなく、机や椅子が乱雑に散らばった部屋の隅でうずくまっていた。


時々思い出したように僅かに目を薄く開くが、すぐにおっくそうに閉じられる。


いつしか窓も雪で埋もれ、ビルは暗闇に閉ざされる。




全ての生き物、黒い塊さえも途絶えた世界の中で。


一切の音も光も消えたビルの中で、

その片隅で、

カエル君はいつもの無表情のまま、ただじっと目を閉じてうずくまっていた。




それからたくさんの冬を繰り返した、その更に繰り返しの後に。


その日、カエル君は小さな歌声を聞いた気がした。


夜明けの喜びと感謝を言祝ぐような歌声に、暗闇に溶けていたカエル君の意識が少しずつ呼び戻されていく。


閉じたまぶた越しに差し込む暖かな刺激を感じて、カエル君はゆっくりと目を開ける。


ビルをふさいでいた雪は既に無く、窓からは痛い程に明るい光が差し込んでいた。


カエル君の目が大きく開かれる。その後少しだけ目が細められ、窓から差す光りをじっと見つめる。


しばらくの間カエル君はそうしていたが、やがてぎこちない動きでそっと立ち上がると、一歩一歩を確かめるように歩きながら窓辺へと近づいていく。


窓の縁に手を掛けて、カエル君は少し身を乗り出すようにして外を見る。


氷は溶けて、満々とした水面がかなたまで広がっていた。


その遙か遠く、水平線のふちで何かがぱしゃりと跳ねた。


カエル君は相変わらずの無表情のまま、ただ瞳孔だけは大きく開いたまま、遠くでゆっくりと広がる波紋を見つめながら口を開けて歌う。


ケロケロケロ、ケロケロケロケロ


そしてカエル君は、ぽちゃんと水の中へと飛び込み、その波紋を目指して泳いで行く。



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