豊臣秀吉が後北条氏に難癖を付けてまで滅ぼしたのは北条早雲が実は室町幕府の要職についていた家格の高い人だったからだとおもう
さて、戦国時代の後北条氏といえば北条早雲は出自のよくわからない一介の素浪人が伊豆で足利茶々丸を討つことで、戦国大名にのし上がった下剋上の典型で最初の戦国大名といわれ、堅牢な小田原城があることで豊臣氏に対して強気に出て滅ぼされたと思ってる人も多い気がします。
しかし、後北条家も天正十五年(1587年)の豊臣秀吉により発せられた関東惣無事令に対して、最終的には他の大名と同様に後北条家の維持する事と、民政不介入を条件に恭順しました。
しかし、天正17年(1589年)に上野国名胡桃での真田家との領土争いで、北条家家臣の猪俣邦憲が真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領してしまいこれが豊臣家の惣無事令に背いたとして、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏は滅亡したのですね。
しかし、これはちょっとした領土争いに対しての処罰としては厳しい処置ではとおもいます。
では秀吉はなぜ後北条氏を滅ぼしたのでしょう?
後北条氏の勢力が強すぎたからと言うのであれば、中国の毛利・四国の長宗我部・九州の島津・中部の徳川といった大きな勢力を持つ大名家には同じようなことをしていないのはなぜなのか理由がつきません。
私は後北条家の初代当主北条早雲の室町幕府においての役職や家格の高さによるものだと思うのです。
近年の研究では北条早雲こと伊勢新九郎盛時は室町幕府の政所執事であって、これは室町幕府の財政管理や領地に関する訴訟を行う公的機関の長官であって、室町幕府の中でももっとも重要で位の高い役職の一つです。
そして、伊勢新九郎盛時は備中荏原荘の領主であることがほぼ確定したそうです。
伊勢氏はれっきとした桓武平氏流であったし、将軍の養育係も度々努めている名門の一族です。
伊勢新九郎盛時の父・伊勢盛定は幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになったため、氏素性のしれぬ身分の低い素浪人などではないのである。
駿河守護今川義忠とも親しくほぼ対等の格とみられていたようですね。
そして文明8年(1476年)、今川義忠が討ち死にして、家督争いとなり、これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入したりしたところで、伊勢新九郎盛時はこの家督争いの調停も行っています。
そして堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件はこれこそ下克上と思われていたわけですが、彼は室町幕府中枢から幕府に背いた堀越公方、古河公方、関東管領などの勢力を討つために派遣されたのであり、室町幕府の意思そのものであったのです。
なのでそのごも後北条氏は上杉家と激しく戦い続けたのであろうとおもわれます。
室町幕府の中央から離反した堀越公方、古河公方、関東管領などへの刺客としての役目を果たすために、
なので、初代も含めた後北条氏は今川のような白粉お歯黒をしていたのです。
そして、豊臣秀吉から見れば旧室町幕府勢力の家の中でも生き残った最後の大勢力であったわけです。
平家が繁栄を極めたあと平清盛の死後に源頼朝によって滅ぼされ、その頼朝が作り北条氏が権力を引き継いだ鎌倉幕府が、足利尊氏の六波羅襲撃が決定的になって滅び、建武の新政が挫折した時に武家で権力をひきつずき握ったのは足利尊氏であったように、すでに高齢な豊臣秀吉が死んだ後に関東東北の諸大名をその勢力と家格で武士の頭領としてまとめて豊臣家を滅ぼす可能性を恐れたのだろう。
もっとも結局は徳川家康によって滅ぼされるわけだが、家康は秀吉が後北条氏を滅ぼした理由もよくわかっていただろう。
常識的な通説というのは案外あてにならないものであるという歴史的事実の一つと言えるでしょうね。
そもそも応仁の乱直後で守護の権威の低下もまださほどない時代に氏素性の分からない男に兵士がついてくるわけも今川家が応援するわけもないのですけど。