豊臣秀吉の親は農民ではなく戦場に関係した武装商人だったのではないかと思う
さて、豊臣秀吉は庄屋かその下の水呑百姓かは別として農民の出身というのが通説なんだけど、個人的には彼の親は商人、しかも戦場に関係するような商人か傭兵としての雑兵の頭もしくはどちらも兼任していたのではないかと私は思ってます。
農民から最高権力者に成り上がった人物は漢の劉邦や明の朱元璋がいますが彼らと豊臣秀吉はタイプが全く違うように見えますからね。
豊臣秀吉を評するに良くいわれるのが”彼は商人的に銭勘定などの思考ができる人物””人誑しの天才”と言うものです。
これは柴田勝家などと比較してみれば一目瞭然ですね。
そして豊臣秀吉は遊郭をいちばん最初に公許した人物と言われています。
室町幕府も遊女から銭は徴税していましたがどこかの場所に対しての遊郭設置を公許したりはしていないようです。
これを考えると秀吉の父親は戦場で武将や兵士に対して酒や米や遊女などを斡旋し、乱妨取りで捕らえられた人を売り買いしていた武装商人、そして牢人などの雑兵を戦の際に斡旋する雑兵の頭なのではないかと思うのです。
人間は幼少期の環境や教育、しつけがその後の思想や思考、行動に大きく影響します。
秀吉が侍を目指したのは15歳頃といわれていますがそれまでがずっと農民であったり虐待されて家を飛び出した貧民として寺の世話になっていたりだとすればとうぜん”商人的な思考”というのが身につく機会はないわけです。
となると秀吉はどうやって詳細や人たらしの技術や感性を手に入れたのかというのが疑問になってきます。
信長の父である信秀が死んだ後、信長と信行とで領地は分割相続されましたが下尾張の西側が信長、東側が信行の土地となりました。
ここで、信行が与えられた東側は田畑が多くて農業的に恵まれた土地で、信長が与えられた西側は田畑は少ないが津島などの商業の発達した場所で銭は入りやすいという状況でした。
これは旧来の農業主的な目で見れば信長の家督相続は名目上だけで実質は信行が跡取りと考えられてもおかしくないものです。
とは言え戦国時代の兵力には根無し草の傭兵である雑兵を雇い入れる以外にも、農村の農民から金や米を用意してそれを与えることで従軍させるのであって、ナポレオン戦争以降の近代の軍隊のようなある一定の年令になったら兵士として無償の徴兵制で戦場に駆り出されたわけではないようです。
戦闘要員ではない人夫駄馬などは各農村からある程度徴集できたようですけどね。
要するに戦国時代ではゲームのように一度兵士を雇用してそれを常備兵としていたわけではなく、兵士は土地を持った地侍の一族郎党の動員と戦のたびに牢人などの傭兵である雑兵を雇ったりしていたわけですが、家督を相続したばかりの信長の場合はそういった雑兵の割合が高かったのでしょう。
それはともかく家督を相続した頃の信長は土地を持った侍の数に期待できなかったので雑兵を雇い入れる事を優先していたでしょうが、そういった事情で木下藤吉郎の父親と信長は縁があったのではないかと思います。
まあ、私が思うだけなのですけどね。