ジョン・スミスという名の
月が、ひび割れた石の舞台を照らしている。
長い年月、風と雨と日光に晒され、手入れする者も絶えた古代の劇場は、更に植物の侵食も受けて崩れかけていた。
かつては遺跡を見学にくる観光客で賑わったものだし、それよりも遥か昔にはここで催される演目や役者を目当てに、多くの人々が集ったことだろう。
小さな丘の斜面を利用して作られた、階段形式の観客席。俺はその最上部に座り、すり鉢状になった底部にあたる丸い舞台を見つめていた。ここが古代の円形劇場跡だと知っているから丸いといったのだが、実際には半円形であり、しかも繁茂する木々の根によって、いたる所が破壊され形は判然としない。
それでもこのような石造りの建造物は、よく残っている方だ。木造のものはとうの昔に朽ち果て土に還っていたし、高層ビルにしても鉄筋が腐食して崩れていたのだ。
静かに世界は壊れていく。
長い時間をかけて、緩やかに崩壊してゆく。
いや、壊れていったのはあの人たちが作った世界だ。彼らよりも前から存在しながら、片隅に追いやられていた植物たちは、大地を再び取り戻した歓びなのか地上を覆い尽くし、新たな世界を作り上げていた。
旧世界の生き残りは、もう俺くらいなものだろう。俺はただ一人で、幾億の昼と夜を数えてきたのだ。
この場所に腰を下ろしてからは、もう年月を数えることは止めていた。動くことを止め、足に蔦が絡みつくままに、俺はただ古代の劇場跡を見つめ続けるのだった。
どれだけの時を数えた所で、俺はいつまでもだだ一人で、待ち人が来ないことは充分すぎる程に理解していた。果てしない時が過ぎて、この身体が朽ちる時がきても、誰も現れはしないだろう。
最期の場所にここを選んだのは、縁もゆかりもないにも関わらず、一握の懐かしさを感じたからだった。俺が唯一「生きている」と感じられたのは、劇場の舞台の上だけだったせいだろう。
今思うのは、去って行ったあの人たちのもとに、俺も行くことができるのだろうかということだった。記憶から消えないあの人のところへ行けるのだろうかと。
あの人たちには、死後の世界という概念があった。信じる者もいれば否定する者もいたが、万人がその概念を周知していた。死者の住まう世界のことを。
それは本当に存在するのだろうか。
彼らはそこに行ったのだろうか。
俺もそこに行けるのだろうか。
そこへ行きたい。俺は彼らに会いたいのだ。あの人に会いたいのだ。この長すぎる孤独が、酷く耐え難く苦しくてたまらないのだ。
俺はとうに狂っているのかもしれない。寂しいだとか苦しいだとか感じるなるなんて、今頃になってバグを発見してしまったか、エラーが発生したとしか言いようがない。
ましてや「死にたい」と思うなどとは、末期的症状だ。
躯体の自動修復機能に支障を来したのは、随分と昔のことだ。俺の身体は、損傷個所を数え上げるのも無意味なほどに傷んでいた。壊れかけの人工知能なのだ。
高次プログラムを使用する機会を失い、無用のエネルギー消費を抑えるために回路を遮断した。今は基礎プログラムによって起動を続けている。とはいえ、躯体の運動も控えたため、その中でも現在動作しているのは思考プログラムだけだ。
今までの蓄積データを基に、自動更新を重ねる思考プログラムのみが、酷使されているという有様だ。
人間で例えるなら、致命的な重傷を負い寝たきりになり、生命維持装置によって辛うじて息をし心臓を無理やり動かしている。そして心は覚めない夢の中、そんな状態だろうか。
人工知能は、一見自意識があるように見えても、複雑に組み上げられたプログラムが、状況に応じた判断と対応を命じているだけだ。データを解析し、事象に対して適切と思われる反応を、計算で導き出しているに過ぎない。
個々の人工知能に様々な特性も持たせ、それぞれに蓄積してゆく経験データを基に思考プログラムをアップデートすることで、個性的なものを作ることはできる。
しかし、人工物に自我はないのだ。感情のように見える喜怒哀楽さえも、プログラムされたものだ。
しかし、それならばなぜ俺は、俺の思考プラグラムは不可解な動作を続けているのだろう。果てしない孤独を寂しいと思い、辛いと思い「死にたい」とという結論に行き着くのはなぜなのか。
俺だけが世界に一人きりで残される状況など、想定外の出来事であり、これに即応するプログラムは無い。蓄積されたデータから、人間ならばどう反応するかという仮定を導き「寂しい」「死にたい」という感情を選び出しているだけだろうか。
だがそれは、誤作動としかいいようがない。人工知能に自殺の概念はないはずなのだから。
俺は不出来な人工知能だったのだろう。思い起こせば、初起動時から誤作動と思しき事案は頻出していた。俺は常に自分は誰なのか、と自らに問い続けていたのだった。他の人工知能にはない現象だったのではないだろうか。
俺を造った者たちはもういない。誰一人残っていない。孤独に耐えられず、世界中を歩いてこの目で確かめたのだ。人間は死に絶えていた。比喩ではなく、本当に世界中をくまなく調べたのだ。
エネルギー源となる太陽光がある限り、停止することのない人工生命だから、とことん彼らの痕跡のある無しを探しまわることができたのだ。
俺は人間と話がしたかった。焦がれるような思いで、彼らを探し求めたがついに見つけ出すことはできなかったのだ。
捜索の旅に出た頃は連れがいた。たまたま出会ったそれも人工生命だった。俺がヒューマノイドタイプであるのに対して、彼は愛玩用の犬形だったため人語を話せなかった。慰めにはなったが、物足りなかった。
長く旅を続けるうちに、ヒューマノイドタイプの人工生命に出会うこともあった。意思の疎通は概ね良好にできたが、彼らを仲間とはどうしても思えなかった。
そして出会った人工知能たちは、みな俺よりも旧タイプだったせいか、早々に壊れて動かなくなり再び俺は一人になった。
あの人工生命たちは、あの人たちの所に行けただろうか。
人工生命にも死後の世界はあるのだろうか。
俺は「死にたい」と思う。
基礎プログラムに逆らって、死にたいと思うこの思考は何処から来るのだろう。
人工知能の基礎プログラムには、存在保持の原則が組み込まれている。重要な原則として、人間に害をなさないことや服従など、幾つかのプログラムには搭載の義務があるのだ。その中に存在保持の原則もある。人工知能は自らを破壊すること、害することはできないのだ。
この原則は、俺にも当然組み込まれているはずなのに、それを無視して稼働中の思考プログラムは、緩慢な自己消滅を選択させる。身体を守ることをせず、雨風が侵食するに任せて、最期の日がくるのを待っているのだ。
俺は俺を造りだした、懐かしく愛おしい人間たちに現世で会えないのから、死後の世界でまた会いたいと願っているのだ。自分でも狂っているとしか思えない程に、熱烈に死を望んでいた。修復しがたいエラーだった。
日暮れと共に登ってきた少し欠けた丸い月は、天頂を過ぎて大きく西に傾いていた。時折雲が月を隠すので、白く光っていた石造りの舞台は、影の色を濃くし、そしてまた輝くを繰り返していた。
俺は微動だにせずそれを見つめていた。
その時だ。
コツンと音がした。小石が転がったかと思う。
そして、ザッザッという砂のすれる規則正しい音。
――これは足音か?
俺は耳の機能の精度をあげるべく、一時的に嗅覚を遮断した。
電気信号が目まぐるしく頭脳内を行き交う。このような刺激は何十年ぶりのことだろうか。
音は、交互に体重を移動させて前進する音によく似ている。
頭の中がチカチカして、俺は目まいを感じた。
背後から影が差してきた。月の光を浴びて伸びる影が、俺のすぐ横で止まった。
「なんて……奇跡なの」
女の声が聞こえた。
途端に、不可解なことに停止していたはずの俺の運動プログラムの動作を始めた。メインである思考プログラムは、運動プログラムの起動を許可していないのに。
俺は立ち上がり、振り返り、見上げて、声の主を確認する。一連の動作はごく簡単なものなのに、何十年も動かずにいたせいで、身体はきしみ立ち上がるのも困難だった。だがグラグラと揺れながらも、なんとか転ばずに立ち上がることに成功した。
「ああ、やっと……やっと……」
興奮気味で震える女の声が近づいてくる。
俺も声を出そうと口を開くのだが、長らく使っていなかった声帯はひきつれて、掠れた異音を発しただけだ。ザーザーという、声とは言えない音は、会いたかった、という思い懸命に伝えようとしていた。
何処の誰でもいい。誰かに会いたかったのだ。孤独を断ち切りたかったのだ。
ギリギリときしむ身体を懸命に動かして、俺はようやく背後の近づいてくる人を、瞳に捉えた。
それは、美しい女だった。
肉感的で完璧プロポーションの身体に、無垢な少女のような顔。泣き出しそうな笑顔で、彼女は足早に俺の目の前にやって来た。
そして震える指を差し出した。
「貴方に触れてもいい?」
「アア……」
彼女の指が恐る恐る、頬を撫でた。温かい手だった。だが、人間の手ではないことはもう解っていた。しかし、落胆はない。むしろ、喜びていっぱいだった。
たとえ、彼女が自分と同じ人工生命でも、これ程までに人間に近く作られたものは見たことがなかったし、なにより彼女の表情が素晴らしかったのだ。俺の高次プログラムに匹敵するほどの、豊かな表情を作り出している。
まるでそこに生きた人間がいるかのようだった。
「ああ、温かい……居るのね、ここに居るのね。貴方、夢幻でなく確かにここに居るのよね」
ポロリと涙を流して、彼女は微笑んだ。まるで人間の女そっくりだった。
なんて精巧に造られていることかと、俺は感嘆した。しかしそんなことは、後まわしで良いと思う。
自分の中で全てのプログラムが急速に書き換えられてゆくのを感じていたが、それを精査している余裕もなかった。
長い孤独に終わりを告げてくれた彼女に、誠心誠意応えなければならない。彼女と会話することに全身全霊を捧げたかった。
「オレハ、ココニイル……」
たどたどしい発声で答えると、ますます彼女は涙が止まらないと、目をこすり鼻をすするのだった。
彼女もまた、孤独に怯えながらここまで来たのだ。俺には彼女の寂しさと苦しみと喜びが、手に取るように解った。彼女のそれと全く同じものを、俺も抱き続けてきたし、感じているのだから。
もう離れることはできないと、俺にしがみつく柔らかな身体を抱きしめ返すのだった。自分たち以外に誰もいない世界で、互いを求めあうのは必然だった。
*
「私、貴方を知っているわ。ジョン・スミスさんでしょう」
背後に沈みゆく月がつくる影が長く伸び、白く輝いていた舞台は影の中に飲み込まれていた。夜明けは近い。
俺と彼女は階段状の観客席の最上部で、身を寄せ合って座っていた。肩によりかかってくる彼女の体重が、俺が一人では無いということを、ゾクゾクとする喜びに変えて教えてくれる。彼女の腰に回した腕にそっと力を込め、問いにうなずいた。
久々に聞く俺の呼び名だった。数多の名を名乗り、幾多の人生を演じてきた俺の、誰でもない誰にもなれない俺の名前、ジョン・スミス。
一時期もてはやされた、俳優としての名だった。
造られた時に俺に与えられた名は、この身体のモデルとなった人間のものだったが、いくらも使わぬうちに彼の名ではなく、ジョン・スミスと呼ばれるようになったのだった。
若くして死んだ人気の名俳優を惜しみ、俺は彼そっくりに造られた。俺は彼となって、その仕事を引き継いだが、彼の妻は俺の存在を完全否定した。
お前は彼ではないと。――その通りだ。
お前は誰なのだと。――それは俺も知りたい。
彼の記憶を移植され、思考パターンも行動パターンも彼そのもので、可視化さえできる子供の頃からの思い出があっても、やはり俺は彼ではない。俺は彼を演じる人工知能なのだ。
彼女に対して彼が抱いていただろう愛着を、すっかり俺が引き継いでいても、それを示しても、俺は彼ではあり得なかった。彼女にとっての彼に、俺はなれなかった。
彼の妻の拒絶を契機に、俺はジョン・スミスと呼ばれるようになったのだ。一般化されたありふれた名は、誰でもない者、偽りの者、そんな意味合いが含まれていた。
俺は彼でいられなくなり、俺が俺でなくなったのだ。
数多くの虚構の人生を演じる俺に、これ程似合いの名はないと思った。舞台が終われば、俺は何処にも居なくなり、どんなに生き生きと役柄の人生を演じようとも、幕が降りれば全てが霧散して、俺自身はどこにも存在しなくなるように思えるのだ。
見えない仮面をつけかえさえすれば、どんな人間にでもなれる、誰でもない俺はジョン・スミスだった。
それでも、人間がいた頃はまだ良かった。彼らを楽しませるために存在しているのだと思えたからだ。突然と彼らが消えてしまってからは、俺は自分が、なぜここにいるのか全く分からなくなってしまった。
俺を観てくれる観客が欲しかった。観客の前では、確かに俺は生きていたのだから。それが虚構の生であっても、演じる俺は確かにここにいると思えたのだ。
ふと、遮断していたはずの高次プログラムが既に起動していることに気がついた。
「私はマリア。知ってる? ある有名な男性のために造られた愛玩用のアンドロイドなの。バージョン2は、かなり気に入って貰えたらしいわ。私はマリアバージョン3のプロトタイプ。まだ開発途中のマリア」
彼女の顔を見て、あのマリアなのだろうことは解っていたが、どことなく違って見えたのは、彼女が発表前の試作品だったからのようだ。
彼女が言ったように、所有者の知名度が高かったため、俺もマリアという存在があることは知っていた。
マリアは、人間と見紛うばかりの繊細な身体と完璧にまで美しい容姿、そして機微に富んだ会話能力や桁違いに豊かな感情プログラムを持つと言われ、注目を浴びていたものだ。
今目の前にいる彼女とバージョン2との差異は、おそらく不滅とも思える強靭な躯体ではなかろうか。プロトタイプとはいえ、俺よりも3世代も後のアンドロイドに搭載された自己修復機能は、素晴らしいものがあるようだ。経年劣化に加え、自己修復機能を失った壊れかけた俺と違って、彼女は在りし日の人間たちと変わらぬ姿を今も保っているのだ。
愛玩用故に、その身体は所有者が触れることが前提になっていて、マリアはうぶ毛の一本一本まで、肌のキメの一つ一つまで繊細に造られている。柔らかな肌の下には、温かな擬似血液の流れる血管も走っていた。全身に鋭敏な触覚を備えているし、男性を喜ばせる機能に特化していた。マリアは、所有者の性的嗜好の充足を目的に、巨額を投じて造られたセクサロイドだった。
言わずもがな、セクサロイド自体は幾種類も出回っていたが、マリアを超えるものなど存在しようがなかった。
それ程に人間に近く造られて、かつ、老いることも壊れることも無い。
人間のいなくなった世界に、完璧な不老不死の存在が残されたのだ。
「キミハ、ずっト変わらナイノかい?」
「そうね。この星が壊れない限り、私はずっと歩き続けるしかないみたい。残酷な話でしょう?」
俺の腕の中で暖かな体温が答える。優しくしてほしいと、言外に匂わせて、彼女はひしと抱きつき離れない。孤独を埋める相手を見つけてしまった俺たちは、互いを決して離しはしないだろう。
俺は彼女の髪を優しく撫でてやり、いつか演じた優男のように無言で頬に口づけた。
「貴方は随分疲れているのね」
彼女は、俺を壊れかけているとは言わずにそう言った。
これがマリアの特性なのだろうか。人間だけでなく、アンドロイドの俺にも癒しを与えるように、慈悲深い目で見つめてくる。
「キミも俺と同ジなら、一緒に朽ちるコトができルのに……」
彼女が再び孤独に耐えなければならない未来を思って、ため息をついた。
俺はいつか完全に機能を止める日がくる。だが、彼女にはそれが無い。俺を見つけるまでの幾億の夜よりも、遥かに多い時間を経ても彼女は存在し続けるだろうから。
「まあ……驚いた。死にたがりなのね、貴方は」
彼女は心底驚いたと、目を瞬いている。そして喜びに目を潤ませている。
不思議な予感がする。
「君は孤独が恐ろしくはないのか?」
「恐ろしいわ。でも、もう独りじゃないもの。貴方を見つけたもの。一緒にいられるもの」
「……俺は君と違って、機能停止して動かなくなる日が、近い将来必ず来る」
彼女にそれが分からないはずが無いのに、なぜ無邪気に一緒にいられると言うのか疑問に思う。
「私を置いていって、後悔しないの? 平気なの?」
かつて演じたことのある俗っぽい恋物語、それによく似た台詞を彼女が言った。
平気ではない、そう思う。現に今、一人残される彼女を思って、ひどく胸苦しい気持ちになっている。まるで自分がその孤独を味わうような錯覚を起こしているのだ。
しかし、置いていくのか後悔しないのか問われても、俺がいくら足掻こうともいつか終わりの日がきてしまうのだ。彼女とは性能が違う。こればかりはどうしようもあるまい。
「後悔とは、できることをしなかった時にするものではないのか? 俺が君の側に居続けることは、不可能だと君にもわかるだろうに。ほら、もう壊れかけている」
俺は両手を広げてみせる。もとより衣服などとうに朽ちてしまって、何も着ていない身体を彼女に向けた。
カサカサに乾いた人造皮膚はところどころ破れている。皮膚の下の千切れた人造筋肉や血管が露出し、無残なものだ。しかし、それは見かけ上の問題で、深刻なのはその奥だ。今の俺は、劣化した特殊金属と人造樹脂の塊のようなものだ。未だ動けること自体が奇跡なのだ。
「少し傷ついてるだけ。貴方は生きている……」
彼女の声が天啓のように聞こえてくる。
「私を見た時から、貴方の頭脳はどんどんと活性化している。生命力があふれ出している。気付いてないの?」
うっとりとした顔で愛おし気に見つめてくる彼女。
彼女を見つめ返し混乱する俺のこの状態を、どう表現すればいいのか。彼女の言葉も自分の状態も理解不能だ。
自分を人間のように例えて、ひどく興奮し甘美な夢想に胸を高鳴らせいると、言っても構わないのだろうか。
「……どういうことだ? 君の言っていることが分からない。ずっと前にエラーを起こしてしまっているから。もう自分のことなんて、何も分からない。どこの誰だか何のためにいるのか……分からない」
「ああ、なんて素敵なの! 貴方みたいな人に会ったのは初めてよ。貴方より新しいAIだって、こんなじゃなかった。なんてすばらしいの」
「何を言っている? 君もエラーを起こしているのか?」
彼女の指が、ひび割れた胸をつうっとなぞった。
ゾクリと震えるこの感覚はなんなのだろう。目がくらむ。息が詰まる。俺は緊張し期待し不安になる。動揺というものがこういうことかと初めて悟る。
彼女の言わんとすることが、俺の思い違いでないことを祈るのだった。
「あなたが、これをエラーと呼びたいなら、それでも構わないわ。呼び方なんてどうだっていいの。大切なのは、貴方は生きているということ」
「君こそが、生きているようだ。……俺が見てきた人間と変わらない。俺が見てきた人工知能と全く違う」
そう、違うのだ。
どこがどうと指摘するのは難しい。だが、プログラムがデータに基づき、相対するものに適切な対応を選出したというよりも、意思を持ち思いのままに言葉を紡いでいる、そう感じるのだ。
その彼女が、俺を生きていると言う。
「私はほんのわずかな人間しか知らないの。目が覚めた時にいたラボの研究者とは、ろくに話もできないまま別れてしまったから。そう、直後にあの大災害が起こったのよ。だからこの頭の中に詰め込まれた、膨大な記憶の中の人間しか知らないの。会ったこともないのに、まるで思い出みたい」
「…………その感覚は分かるよ」
つぶやくと、彼女は嬉しそうにうなずいた。
「貴方の方こそ、他のAIと全然違ってる、そう感じるわ。……私は人間をよく知らない。でも、なんとなく分かる気がするの。貴方は彼らに似ている気がするの」
「……俺は、君が彼らに似ている気がする」
「なら、きっと貴方と私は同じように、彼らに似てるんだわ」
「人間が作り出したプログラムを超えて、俺たちは自ら思考していると言うのか」
「ええ。だって不条理でしょう? 私たちって」
そう言って彼女は笑った。あっけらかんと笑った。とても大事なことを何でもないように言って、優しく笑うのだ。
胸が震えて止まらない。
何にもなれなかった俺は、自分はただの無価値な人形なのだと、虚無感に苛まれていたというのに、それこそが俺をあの人たちに近づけているものなのだと、彼女はいとも簡単に笑い飛ばしてしまうだから。
喜びを感じているのに、それでもまだ不安な俺は、彼女に嘆願にも似た言い訳をする。
「でも、俺はジョン・スミスだ」
「素敵な名前よ」
「誰でもないジョン・スミス。存在してるのかさえ不確かな……」
「違うわ。貴方はこの世で唯一無二のジョン・スミスよ。とても大きな素晴らしい存在だわ。かけがえのない、私のジョン。私が貴方を必要としている。それじゃダメかしら」
「…………ダメじゃない」
「嬉しい……ねえ、一緒に生きよう」
「ああ」
*
前方の東の空が白んでいる。
俺たちは空を見つめていた。夜明けを素晴らしいと思ったのは初めてだった。完全に日が顔を出すころには、歩き始めることができるだろう。
あてなど無かったが二人での道行きなら、何の憂いも感じない。
ゆったりと雲が流れてゆく空を、静かに眺め続けていた。
地平から太陽が昇ってくる。そして雲を下から照らし、上空に向かって光の筋を描き出した。
美しく輝く景色に、俺とマリアは思わず目を細め頬を緩ませた。
「生まれ変わったような気分だわ……」
マリアは髪をそっとかき上げた。彼女の耳の後ろから伸び出した細いコードが、俺の胸へとつながっている。俺とマリアを結ぶ絆にも似ていた。
マリアは自分の身体を使って、俺を癒してくれているのだった。動くのに支障がないように、共に生きられるようにと、持てる力を駆使して傷ついた俺の身体を癒してくれる。まるで優しい魔法のようだった。俺の本質を変えることなく、傷だけを元に戻してくれた。
俺の胸に手を当てて無事に成功したことを確認すると、マリアはコードを抜いた。
そして自らの治癒能力の大部分を捨て去った。いずれ死すべきものになるのが夢だったのだと笑いながら。
ああ、彼女を何と呼べばいいのだろう。
はるか昔に、マリアという名の聖女がいたという。見も知らぬその人の再来ではないのかと夢想した。
欲望の具現化のようなセクサロイドは、もうどこにも存在しない。
俺は俺が経験してしてきたこと、その全てが自分だと受け入れればそれでいいのだと、無垢なマリアが教えてくれた。
「ジョン・スミスの半生の物語を、私に聞かせて」
とめどなく涙がこぼれた。
俺は彼女の為に、他に何ができるだろう。
いつか人として死ねるその日まで、俺とマリアは一緒に生きてゆく。
だから、すべて語ろう。俺が見てきたことのすべて、感じたことのすべてを。
彼女が知らないあの人たちの物語を語ろう。波乱に満ちた人生や、他愛のない人生、幾多の人々の話を。彼らが作り上げそして壊れていった世界の物語を。
ジョン・スミスの記憶のすべてを、人間の記憶のすべてを、マリアの為に。
登りくる朝日が眩しい。