ライトノベル読者は無知である
なろうテンプレ(なろうファンタジー)=ラノベは質が低いと言う話をちょくちょく見る。それは頭の固いオールド世代の劣った感性ゆえの言及なのか?それは違う。オールド世代とは関係なしに普遍的な事実がそこにあるから。それを感情論じゃなくてきちんと言及すべきだと私は思ってるから書いている。
質とは何か?と言う哲学的な言及はし無い。そんな事をしても答えが無い。ただただ事実を書いて違いを書けば良い。ライトノベルとその他の小説は何が違うのか?文章とリアリズムの扱いで大半片付くと思う。リアリズムはリアリティじゃない。何故リアリティと言う言葉が使えないのか?当たり前に現実味として使えていたリアリティが昨今どうも意味合いが違ってしまったから。これは以前リアリティはリアリズムを根底に持った感情だったが、今はどうやら違うようだ。だから意図的に分ける必要があると感じて私は世間一般で言うリアリティに対してリアリズムを使うようにしている。
リアリティは昨今現実味より、実感の様な感情に変わりつつある。見知らぬ人が転んで道端で怪我をするのと、自分の家族であった場合とどっちが感情が動くだろうか?実感とはそういった親近感の様な距離感が重視される感情だと見ている。お気に入りのキャラさえ居れば現実感=リアリズムが緩い世界観の中でも読者は感情移入できるから、昨今リアリティはリアリズムと同一じゃなくなっている。自分が気に入るか?気に入らないか?にリアリズムの厳密さはあまり重要じゃないからこうなってると私は考えている。
文章はファンタジーとはあまり関係が無い。これは文章の面白さを堪能するようなものより、作品全体の個性、筋キャラ展開世界観などが重視される小説が増えたからになる。これはリアリズムも同様の意味になる。何かを取ったから何かが軽視されたたったそれだけの事になる。だから質に言及するのが苦しいと思っている。文章はレーベルによって分けられるライトノベルに限った話ではない。商業的じゃないなろう小説が何故勝手にライトノベル化するのか?と言うと文章の価値の軽視って点で、ライトノベル以外も同様に今は進んでいるから。
文章がライト化するのと、リアリズムが緩くなるのは全く別のベクトルだと見ている。これらは一致する事も多いが必ずしも完全には一致し無い。だからライトノベルはリアリズムが緩くて文章が簡易な小説だとすると、その他は文章は重厚なのか?と言うとそうでもない。多くの読書を楽しむものは文章以外の内容に比重をおくので、ラベノだけがライト化しているわけじゃない。ただ軽視されすぎるって点で、ラノベはその他の小説と較べて文章に重きを置いてない。
文章に重き置けば、質を語る事が可能になる。何故ライトノベルは馬鹿にされるのか?なら文章の質が低いからになる。ただし、そこに重きを置いてない読者にとってはこれは困った問題になる。そこがまず一番にこの問題をややこしくなる点。ライトノベル以外も文章のライト化が起こってると言うのは大多数の人間は内容を重視してるからになる。内容と文章どっちも高めるのが質じゃないか?と言うとそうとも言えない。激しい競争ではどっちかを手を抜いて特化するほうが競争に勝ちやすい。小説としての価値と言うより文章だけに特化した価値として受け取るのがまずは良いと思う。
さて他に質は?ライトノベルはあまり頭を使わなくても楽しめる。文章もそこに起因する。多くの小説を読んでより個性的で惹かれる文章表現などをもった作家の価値を知ってる人は一つ一つの文章にイチイチそういった頭を使ってることになる。意識的じゃないが、これは長い経験で得た知性の一つだと思う。ならライトノベルの読者は無知なのか?と言うと基本そうなる。ただそれには2つ問題がある。1つは前の段落で書いた事に繋がる。文章以外の部分に価値を置いてるから磨く事に意味を見出せなかったためになる。どの小説を読んでも文章に重き置いてないので数読む事が文章の価値を知る知性に繋がっていかないから。2つ目にそもそも無自覚ではなく、最初から文章の価値を知ってて、それでも内容を取った中年読者の存在になる。これは無知とはいえないと言うことになる。
リアリズムもこれに関係するか?と言うとなる。イチイチ現実での経験や知識からこれもおかしいこれもおかしいと言っていたらライトノベルは読めないし、そもそもファンタジーなんて現実じゃない物が当たり前に出てくる小説にリアリズムとはなんだ?となると。これについては、未知なるものに触れた人間の反応として、程度問題でリアリズム重視の作品は作る事が可能。ただし厳密にはリアリズム重視ではない。ファンタジーは根本的にリアリズム重視の小説には向かない。ある程度はリアリズム重視の作品と繋がってるがってだけで。もののけ姫のように比喩的な現実の置き換えは可能ではあるけど、珍しいタイプの作品ではある。多くはSFの形を取る作家が大半だとは思う。これは作家の力量次第。
ファンタジーを無視するなら、あれもおかしいこれもおかしいと読者の考えるリアリズムとずれる作品はいちいち頭を使って訂正される。最後にはこんなの読んでられないと放り投げられる。これが頭を使うって事の一つになる。ただ、ファンタジー作品の多くはファンタジーゆえのマイルールがある。これをしっかり把握して読む事は頭を使わないのか?と言うと使う。この点はマイルールをどうやって軽減させるか?はライトノベル作家の手腕となると思う。それでもやはり頭を使わせないようにしなくては行けない。
頭を使わない小説を読む場合、自覚して読む場合と無自覚な場合に分けられる。頭の使わない小説を読む読者を頭が悪い奴だと見なされるのは間違ってるが、そう見なされても仕方ないとは書いておきたい。何故ライトノベルの読者は馬鹿にされるのか?それは偏見じゃない。きちんと理由がある。自覚か?無自覚か?で一部間違ってるのは間違ってるが、無自覚な無知な読者はかなりいると思ってる。無知ゆえに馬鹿にされるのは当たり前の事だと知っておいて欲しい。だから私はその無知を無くすために書いている。
自覚して頭の使わない小説を読む事にして欲しい。私にとってライトノベルは基本漫画の代替品でしか無い。ただ目的とする内容を見つけやすいからと言うのがある。その内容には価値がある。ライトノベルの価値は何か?第一印象でぱっとひきつけられるような個性がしっかりしてる点。こういう作品ねって差別化が早い段階で認識できて、それを基本裏切らない。それは何か?と言うと分かりやすさに繋がっている。この作品何が楽しいの?こういった時間が長くない。それは面白さが良く分からないと言う分かりにくさと反対だと思ってる。
ライトノベルの価値は分かりやすさだとは思ってない。それは頭の使わない小説に繋がるため価値として悪い面を含むため相殺されると見ている。分かりやすさゆえに生まれた別の部分を価値だと見ている。奇抜な眼を引く印象を作れる小説が生まれやすい。こういった新奇な刺激を安易に作れる部分が価値だと思っている。そこ以外に価値なんて無いと思ってる。
意図的に頭を使わずに楽しみを得る。そのために読む。ここがベースになっていて、新奇な刺激を安易に作れるこれが漫画に較べて優秀なので敢えて小説と言う形でも読む。なろうが無料だからは3番目ぐらいにしかならない。最初のは価値じゃない、自分の時間をどう使うか?の選択に過ぎない。それを他人にどうこう言われるのが不満か?と言うと、私は無知な若年層と一緒にされたくない。私はわざと頭の使わない事を馬鹿にされるだろう小説を読んでいる。そして私も頭を使わない小説であるのを自覚して自分でもそれを長時間使うのは、あまり良い時間の使い方だとは思ってない。
私は奇抜な新奇性に価値を見出してるが、頭を使わない小説を読む事について、ライトノベル読者は馬鹿にされて当然じゃないか?と思っている。