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四話 ベリトリッサ

熱い。背中が熱い。

冷たい。それ以外の場所が冷たい。


目の前で誰かが叫んでいる。何を言っているのか分からない。

涙が、その誰かの顔から零れ落ちた。頬に当たる。温かい。胸の奥がホカホカする。


泣かないでほしい。笑っていてほしい。

誰かが自分の体を抱きしめた。痛い。苦しい。でも、嫌じゃない。


「――――」


誰かは何と言ったのだろうか。分からない。分からないけど、何故だか嬉しくなった。

誰かの髪を撫でる。サラサラ? フカフカ? 分からない。感覚がない。


熱いのが去っていく。冷たい。寒い。眠い。


「また――――」


上手く聞き取れない。返事をしようにも、喉が動かない。


だから笑った。自分が笑えば、誰かも笑ってくれると思ったから。

笑えたと思う。だって、誰かが笑い返してくれたのだから。

涙は止まっていなかったけれど。




~~~~~~~~~~~~




泥沼から意識が浮上してくる。頭の中がもやもやしている。全身が気だるげだ。動きたくない。

少年は寝返りをうった。柔らかな感触が頬に伝わる。


温かい。この感じには覚えがある。いつ、どこでかは思い出せないが、知っている感覚だ。良い匂いもする。


――もう少しだけ、このままで……


「起き、た、の?」


頭上から、鈴の音のような声が降り注ぎ、ハッとした少年は飛び起きた。

滲む視界。ピントがうまく合わない。思わず目をこすろうと右腕を上げかけ、それがないことを思い出して嫌な気持ちになった。

左手で瞼をこすり何度も瞬きをする。ようやくはっきりと周りが見え始めた。


少年がいるのは、灰色で埋め尽くされた円形の広間、その外周区だった。壁や床、天井の材質である継ぎ目のない灰色の岩が同色の淡い光を発しているために、さして暗くはない。かといって眩しくもない。

幻想的で儚げな場所。少年はこの場所にそんな印象を抱いた。


「大丈、夫? 生きて、る?」


振り返ると、そこには異質な雰囲気を放つ人物が正座していた。


黒い衣服を纏った白い肌の人間。身長は少年と同程度で線は彼より細い。

髪は黒。腰ほどまでのロングヘア―だ。鈴の鳴るような声とこの髪から、女性であると推測できる。体格からして少女と呼べる年齢であろう。

顔立ちは整っていた。鼻はスッとしており、小ぶりの唇は艶やかな色気がある。しかし、両目があるはずの場所には幾重にも細い鎖が巻かれていた。


目元だけではない。腕、足、胴体……彼女の体の様々な場所には仄かに紫がかった金属製の鎖が巻きついている。それらはこの広間の壁へと繋がっていた。まるで、彼女をここに拘束しているかのようだ。


ゆっくりと、警戒心を露わに少年は答えた。


「……あー、あー。うん。大丈夫だ。多分生きてる。ここが天国じゃあない限りだけど」


「なら、安心した、かも? ここ、地獄みたい、な、所だか、ら?」


ジョークなのかどうか分かりにくい返答と、途切れ途切れな独特の口調。たった一言のそれは少年に、異様な彼女が警戒するほどの相手ではないと思わせた。少年は肩の力を抜くと、その場に座り込んだ。日本語が通じた、というのも彼の心理的な障壁を崩すことに一役買ったのであろう。


「安心できねえよそれじゃ……てか、なんだその話し方」


「ダ、メ?」


「ダメってことはないけど、なんか気が抜けるというか、なんというか。どうにかならないか?」


「善処、する、かも?」


「なぜ疑問形」


じゃらり、と鎖を揺らしながら立ち上がる少女。


「……なあ、なんで鎖に繋がれてるんだ?」


「さ、あ? 分から、ないし、知りた、くも、ない、かも?」


「いやいや。おかしいだろ。俺が知っている常識じゃ、女の子は普通鎖に繋がれてはいない。繋がれているにしても理由があるはずだろ」


「知らな、い、ものは、知らない、よ? それ、に、あなたの、常識、が、正し、いって、保証は、ある、の?」


「ないんだよなあ、困ったことに。なに? この世界の女の子って鎖でグルグルなのが普通なのか?」


「相当、妙、な、状態じゃ、ない限り、鎖に巻かれ、る、ことは、男、でも、女でも、ないと思、う、よ?」


「お前、特殊な状況なのかよ」


「かも?」


少年は頭を押さえた。この世界には妙な人間しかいないのか。

ユーキに襲撃者に、この少女。記憶喪失の自分も含めていいかもしれない。

そんなに人を知っているわけではないが、今まで出会った人間のほとんどが個性豊かな者たちだ。豊かすぎる。もう少し貧しくてもいいのに。


「鎖に繋がれるってどんな状況だよ。お前、誰かのペットか? この世界って奴隷制度とかあったりするのかよ?」


そういった話はユーキから聞かされていなかったので、てっきり奴隷なんてものは存在しないとばかり思っていた。それどころか、今この場に至るまで少年は奴隷について考えたことなどなかった。

もし、彼女が奴隷なのだとしたら、この世界はどれだけハードでルナティックなのだろうか。人生ほど難易度の高いゲームはないと聞いた覚えがあるけれども、いくら何でも厳しすぎないだろうか。


「奴隷じゃ、ない、と、思う、よ?」


どうやら、少年の悪い想像は外れてくれたらしい。独特の話し方のせいで、いまいち確信が持てないのが辛いところだが。


胸を撫で下ろすと、少年は軽口を投げかけた。


「じゃあどんな状況だよ。お前の彼氏の趣味か? とんだ変態さんだな」


「私、恋人、いない、よ? あなた、は、こうい、う、拘束され、た、状況、好き? 私、あなた、に、犯され、る?」


少女は自らの体を掻き抱く。


「俺の趣味に関してはノーコメントだ。それに犯さないし」


「本当に、襲わ、ない?」


「襲わない襲わない」


「押し倒、したり、しない?」


「しないしない」


「絶対?」


「もちろん」


「……ヘタ、レ? 不、能? それと、も、実は女の、子?」


「全部違えよ犯すぞっ!?」


キャー、と小さな悲鳴をあげて笑う少女。肩が揺れるたびに鎖も音を立てる。不思議と不快ではない。

しかし、彼女側はどうなのだろうか。特に顔に巻き付いている分。擦れ合う音が煩わしかったりするのだろうか。


「目、見えてんのか? それ。というか、不便そうだな、縛られてると」


「見える、けど、見てない、よ? 鎖、目に入る、と、痛いか、ら、閉じて、る? それと、そんな、に、不便じゃ、ない、よ?」


さして問題にはなっていないようだ。多少は気にするのが自然だとは思うが、彼女が普通ではないことは見ていればわかる。きっと、彼女にとってはこの状態こそが普通なのだろう。


「……ん?」


そういえば、なにやら体に違和感がある。少年は考え、ふと足元を見たときそれが何であるのかを理解した。


足の爪が、無事な状態で左右五つずつ揃っていた。

頬と顎、それと鼻に触れてみる。髭に覆われた肌は、熱を持っていなければ痛みもない。鼻も出血していたとは思えないくらいに普通だ。思い切り地面に当たった部位だから、そんなに早く治るわけがないのに。

腕や膝などを見ても擦過傷どころかかさぶた、傷跡すらない。


「なに、してる、の?」


首を傾げる少女に少年は問う。


「なあ、変なこと聞くけどさ……俺、怪我してなかったか?」


「ケガ? 分から、ない? けど、死にかけ、てたと、思う?」


「死にかけてたのか」


「血が、いっぱ、い、出てた? カビ、とかで、お腹、とか、いろい、ろ、すごいこと、に、なってた、かも?」


「カビ……」


怪我だけでなく、いろいろすごいことになっていたらしい。カビってなんだ。


「虫、も、いた、よ?」


「……マジか」


寄生虫もいたらしい。少年の体は彼が思っていたよりも危険な状態だったのかもしれない。


「だか、ら、治して、あげた、よ?」


少女は少年の目の前に座り込むと、彼の頬に触れた。

良い匂いがする。それに温かい。少しだけ、少年の心拍が速くなった。


「近い近い。それに俺、汚いだろ。臭いだろ」


「ん? そうで、も、ない、よ?」


真っ直ぐ見つめて――正確には目が閉じているため少女は見つめてなどいない、少年がそのように感じただけなのだが――くる彼女に耐えきれず、顔を逸らす少年。体を引きずるようにして彼女から離れる。


「ま、まあどうやったのかは知らないけど助かったよ、ありがとう」


照れ隠しに頬を擦る。少女はそれが見えているのかいないのか、柔らかな笑顔を浮かべた。


「波長が、合って、良かった、かも? もし、合わな、かったら、死んでた、よ? ここ、に、来れた、人は、あなたが、初めて?」


少女の言葉に、少年はふと気が付く。

そういえば、ここってどこなんだ、と。


たしか自分は、ユーキに命じられるがまま走っていた。そして、あの金属製の扉の前で転んだ。鼻血が吹き出し、足の爪がダメになった。そこまでは憶えている。だが、それ以降の記憶が全くない。


「あーまったく、俺の頭はポンコツだ。記憶喪失になるわ、その後の記憶も曖昧になるわ……これ、どこで修理できるんだ? クーリングオフとかはできんのかよ?」


「え、くーりん、ぐ? きおく、しょーしつ? え?」


疑問符を浮かべるリッサを放置して、がしがしと強めに頭を掻く。むくれた。少し可愛い。


そこで、またしても違和感。

髪の毛がサラサラだ。脂っぽくないし、フケもない。実に綺麗なものだ。


「……これも、お前が?」


「ん?」


「髪だよ、髪の毛。なんか綺麗になってんだけど」


「知らな、い、けど、多分、私がやった? あなたの、体、一番良い状態に、したから、そのせい、かも? 怒る?」


シャツをめくり右肩を見る。傷が塞がっていた。一番良い状態と聞き、もしやと思い見てみたが治っていた。流石に腕が生えてきたりはしていなかったが。


「怒らない。むしろありがとう、だな。どんな理由があるにせよ、いろいろしてくれたみたいだし。悪いな」


「そんなに、何度も、礼を、言われ、ると、本心なのか、分からなく、なる?」


「何度も、ってか二回しか言ってないんだけど……ところで、聞いてもいいか?」


「スリー、サイズ? 測ったこと、ないか、ら、分からない、よ? それと、も、恋愛、経験?」


「どっちも違う。一々ボケないと死ぬ病気なのか?」


「健康体、だよ?」


冗談が通じないのか、はたまた分かった上でこのような態度をとっているのか。

ため息を吐くと居住まいを正し、少年はしっかりと少女に向き直る。ニコニコ、あるいはニヤニヤともいえるかもしれない表情を張り付けたまま、鎖に縛られた彼女は鼻を鳴らしている。機嫌がいいのか、ゆらゆらと状態を揺らしながら。


「それじゃあ一つ。ここは何処で、お前は誰なんだ?」


「……んー? たぶ、ん、地下? 私の、家? それ、で、私は、リッサだったと、思う、よ?」


「曖昧だな、おい。まさか、記憶喪失だったりするのか?」


「しない、よ? あなたのと、違って、私の頭、は、優秀?」


「ひっでえ……ん、リッサ?」


ふと、なにか引っかかるものを感じた。リッサ。聞いたことのある響きだ。しばし黙考し、それを思い出すと同時に彼は驚愕した。


「なあ……もしかしてお前、ベリトリッサって名前か?」


「そう、かも? ……多分、そ、う?」


「そうなのか……悪魔だったり、するのかよ」


「んー? そう、呼ばれ、たこと、は、あるか、も? でも、私悪魔じゃ、ないよ?」


コテン、と首を傾けるリッサを見ていると、どう見ても悪魔には見えない。ただの外見が良く口調がおかしいだけの少女だ。

しかし、リッサという名と鎖で繋がれた状況、そしてこの謎の空間。状況だけ見ればほぼ黒である。炭より黒く、闇より薄い。それくらい黒だ。


「そうだ、謎の空間。大事なことを聞いていなかった」


辺りを見回す。灰色の世界。鎖と自分、そしてリッサだけが色を持っている円形の空間。リッサが自分の家といった、地下にあるらしい広間。

一体この場所は何なのか。もし自分の想像が正しいならばここは――


「なあリッサ。頼む、答えてくれ。ここは一体何処なんだ?」


「こ、こ? 私の、家、だよ? さっき、も、そう言っ、た、よ?」


「真面目な質問なんだ。知らないならいいけれど、知っているならここがどこにある、何の目的で作られた場所なのか教えてくれ、茶化さないでな」


鎖によって閉ざされた瞳を少年に向けるリッサ。すぐに俯くと彼女は、フスン、フスンと鼻を何度も鳴らし、両手で頭を押さえた。


「思い出、すから、待って?」


「……待つよ。いくらでも、ってほどではないけど、俺には時間だけはあるからな」


長い黒髪をクルクルと指に絡める。時にワシャワシャと、時に梳くように手を動かす。そして、幾許か時が流れた頃、彼女はその動きをぴたりと止め、顔を上げた。


「えっと、ね? 間違って、いるかも、だけ、ど、いい?」


「なんにも分からんよりかはいい。どんな答えでも怒ったりしないから言ってくれ」


深呼吸するとリッサは、慎重に、糸を紡ぐようにぽつり、ぽつりと話し始めた。


「ここ、は、地下、だと、思う、よ? ここの、上には、昔、は、何もなかった、けど、今は、大きな、家が、ある、かも?」


「大きな家……」


地下にあり、上には大きな家。少年の憶えている最後の記憶と合わせて推測すると、ここはスフィリウムの地下、そこにある牢の奥にある部屋であろう。大きな家というのは城のことだろうか。


改めて周りを見回す。円形の広間を構成する壁はすべて、灰色に光る鉱物で出来ている。隙間はない、一枚の岩をくりぬいて、その内部にこの場所は作られたのだろうか。あるいは、コンクリートやコールタール等に似た素材で出来ているのだろうか。いまいちこの世界の文明に詳しくない、また、元の世界の建築技術等にも疎い少年には判断がつかない。


「それ、で、私は、ここ、に、昔、閉じ込められた、みたい? 誰も、入ってこない、し、何も、ないか、ら、すごく、退屈で、寂しかっ、た、かも?」


「何も……? 食事とかは、どうしてたんだ?」


「ごは、ん? しばらく、食べて、ない、よ?」


「しばらく、ってどれくらいだ……?」


「んー、何、年? 何十、年? 何、百年?」


「なっ……」


思わず絶句してしまう。普通人間は、何年も食事を摂らずに生存できない。彼女は人間ではない。比喩ではなく、おそらく事実だろう。

固まる少年を気にも留めず、リッサは言葉の続きを口にした。


「それ、で、ここ、だけど、ね? 私を、閉じ込、めた、人たちは、封印の、間って、呼んでた、ような?」


「封印の間……そうか。ありがとう」


ほぼ確定だろう。彼女、リッサ――ベリトリッサは、スフィリウムに太古の昔封印されたとされる悪魔だ。

仮に悪魔ではなかったとしても、そう呼ばれかねない存在ではあるだろう。


「……しっかし、なぁ。悪魔には見えないし、話した感じ悪い奴とも思えないんだよな」


先ほどより髪型がロックになったベリトリッサを見やる。手櫛で荒れた髪型を整える姿は、鎖を除けば愛らしい少女でしかない。確信を得たにも関わらず、少年は彼女が悪魔であるとどうにも思えない。


「悪魔、っていうと黒くて角と尻尾があって、のっぺりした顔してて……ってイメージがある所為かもしれないけど」


当然、彼女には角も尻尾もない。顔もイイものを持っている。黒い、といえば髪と服装はそうなのだが、肌は岩壁からの光を照り返し、白く輝いていた。


「どう、したの? 私の、顔、見てる? 何か変?」


「視線分かるのかよ。ああ変だ、鎖で目元が隠れているからな。可愛い顔してるだろうに、もったいない。外せないのか?」


ベリトリッサは顔の鎖に触れると悲しげな笑みを浮かべた。


「ん、多分、外せな、い? これ、とって、も、堅い、から? これが、ある、から、私、ここか、ら、出れな、かった?」


そう言って立ち上がり鎖を引っ張るベリトリッサ。ギシギシと鎖は音を立て、しかし壊れる様子はない。

なるほど、封印に使われるだけあって頑丈な素材らしい。


「細くて脆そうに見えるのにな」


何気ない調子で少年も立ち上がり、彼女の体に巻き付いた鎖の一本を掴む。硬い金属が手に食い込む感触。たるんだ部分を足で踏みつけ、左手で思い切り引っ張ってみた。


パキリ、と小気味よい音を出し、鎖が引きちぎられた。


「えっ?」


「えっ?」


顔を見合わせる二人。顔に巻かれた鎖の向こう側に、赤い炎。彼女の目だろうか、爛々と妖しい光を灯している。


「壊れ、た……?」


「ひょっとして、俺マズいことしたか……?」


壊れた鎖は黄金色の粒子となって虚空へと消え去った。ベリトリッサの体にはまだ何本もの鎖が幾重にも巻き付いているが、腰のあたりがその戒めから解放されていた。


内心パニックになる少年、しかし起こったことが予想外の事態すぎて体は動かない。なにかやってしまったのでは、という感覚だけが体中を駆け巡る。喉を冷や汗が伝う、心臓が荒々しく脈動する、うまく呼吸ができない。


ベリトリッサの封印を一部解いた。少年がしたことを客観的に表せばその一言に尽きる。


悪魔の封印を解く。それが肯定される行いではないと、この世界の常識をよく知らない少年にもなんとなく分かる。そして、封印が解けた後の悪魔の行動も、テンプレートなものながら大体は想像できた


思わずベリトリッサの顔を注視してしまう。驚いたような表情、それがゆっくりと引いていく。彼女は鎖の奥の瞼を閉じると一息ついて、


「ど、ど、ど、ど、どう、しよう……? こ、壊れ、ちゃった……? 怒られ、る……?」


物凄い勢いで狼狽え始めた。


挙動不審にキョロキョロと首を動かす。しばらくそうしていたかと思うと、突如ハッと顔を上げ、体に巻き付いたままの他の鎖を両手で握る。強度を確かめるように左右にゆっくりと引っ張った。


鎖が壊れる様子はない。カチャカチャ、ギシギシと音をたてるだけだ。


「な、な、なん、で? 壊れな、い、はず、なのに?」


何度か鎖を引っ張ることを繰り返すと、彼女は不意に地面にへたり込んでしまった。

奇妙な事態に面食らっていた少年だったが、それを見て流石に我に返った。


「お、おい、大丈夫かっ」


「ふぇぇ?」


肩を掴んで立ち上がらせると、ベリトリッサの口から間の抜けた声が漏れ出た。目元が隠れていてよくわからないはずなのに、なんだか泣きそうな顔をしているように見える。


「こ、これ、この鎖っ、壊しちゃダメだったのか!?」


もしかして、この鎖は彼女にとって何か大切な意味を持っていたのではないか。そう危惧したのだが、それは彼女の言葉によって否定された。


「ひ、他人の、物、壊した、ら、ダメ、だよ?」


「……え?」


泣きそうな表情に怒りをまぜて、少年を窘めるベリトリッサ。顔が近い。良い匂いがする。思わず少年は後ずさった。


「そ、それだけ、か?」


「ん? なに、が?」


「そんなふうに慌てる理由」


「他人、の、物、壊すと、その人、が、困る、よ? だから、壊し、たりしちゃ、ダメ、なんだ、よ?」


何かの冗談かとも思ったが、本気で言っているらしい。


「……お前が封印されている年月によるけど、多分持ち主死んでるから。気にしなくていいだろ」


「ほぇ?」


「それに、今は実質お前が持ち主みたいなものだし、壊れたほうがお前にとっていいんじゃないのか? その鎖」


「ど、うして?」


少年の何度目かのため息。どうやらこの暫定悪魔な少女は自分と同じく頭が弱いらしい。弱さの方向性は異なるが。


「お前、さっき自分が出れない原因がこれだって言ってたじゃんか。つまり、これがなきゃ出れるわけだろ? 何もなくて、誰もいないから寂しかったとも言っていたし鎖が壊れた方が、いろいろ都合がいいと思うんだけど」


「あ、その、こ、と? もう、それは、いい? 寂しく、ない、から?」


「なんでだよ」


「あなたが、ここ、に、いるか、ら? 私、ここ、を、出る必要、ない、よ?」


「……俺、いつお前に気に入られたんだ」


天を仰ぎ見る少年。同時に、納得できる部分もあった。どうしようもない孤独に苛まれた時の他人がもたらす安心感というのは、依存してしまうほどに甘美なものだ。彼にもその経験があっただけに、彼女の言い分を理解できてしまう。いつ気に入られたのか、の答えとしては出会った瞬間が適切である。


「なんてチョロい奴だ、悪い奴に引っかかったら大変なことになるぞ……俺も他人のことは言えないけど」


道理で機嫌が良く、やけに距離感が近いはず。彼女と自分の関係は、自分とセキアのものと近いのだ。


「でも、出れなくていいのか? なにかここに留まる理由とかが?」


「出ない、理由、は、ない、よ? でも、わざわ、ざ、出る、理由、も、ない?」


「封印、されてるんだよな? その、俺の傷を治したような不思議パワーに制限とかはついてたりしないのか?」


「不思議、ぱわー?」


「……いいや、もういい。よく考えたら、お前が気にしてないんなら俺がとやかく言うようなことでもないし」


言葉は通じているのに意思が上手く伝わらないことが、これほど疲れるとは。少年は疑問の追及を早々に諦めた。


「言葉と言えば。お前、日本語話せるのな。どうして話せるのかは知らないし興味もないけど、言葉が通じたことは素直に嬉しかったよ」


本心だ。なにせ、憶えている限りでまともな会話をしたのはユーキとだけである。セキアとも言葉を交わそうとしたことがあるが、当然全く通じなかった。女の子では彼女が初めての相手だ。


しかし、ベリトリッサはキョトンとした表情。


「にほ、んご? なに、それ?」


「……いや、俺たちが話してる言語だよ。あれか? これってこっちではどっかの地方の言葉で名称が違ったりするのか?」


「……ん? なんか、話、食い、違って、る?ちょっと、聞いて、も、いい? 変な、こと、かもだけ、ど、怒、ら、ないで、ね?」


「さっきからなんで怒られることをそんなに気にしてるか知らんけど、そう簡単に俺は怒らないぞ。怒らない、と思う。多分怒らない、かも」


「なん、で、曖昧?」


「自分でも自分のことが把握しきれてないんだよ、俺」


「頭が、ポンコツ、だか、ら?」


「……そうだよ」


「頭が、おかしい、から?」


「おいなんで言い直したっ!?」


「頭だけ、じゃ、なくて、他も、おか、しい?」


「多分おかしくねえよっ!? いいから早く質問をしろ!」


キャーと声をあげクスクス笑うベリトリッサ。ひとしきり笑い終え、彼女はようやく疑問を口にした。


「あの、ね? もしか、して、言葉って、何種、類か、ある、の?」


その疑問を受け、咀嚼し、消化し、弱い頭で少年は考え、ある結論、というか推測に至った。


「……あー。そういうことか」


ベリトリッサは全ての言語を無意識に理解できている説、である。

彼女は言葉を聞くと、自然とその内容が理解できる。言葉を話すと、自然と相手に理解できる言語になる。これを無意識に行っている、という説だ。


「もしかして、ネズミとかの言葉も分かったりするのか?」


「みん、な、おんな、じ、言葉、話してるんじゃ、ない、の? 人も、ネズ、ミ、も?」


どうやら、種の壁も超えているらしい。通訳や調教師など、日本にいれば職にはこまらないな、と少年はなんとなく思った。


なぜそんな能力があるのか。そんな疑問が浮かんだが、彼は即刻考えることを放棄した。

悪魔なんだし、それくらいできるのだろう。そういうものなのだろう。詳しいことは、悪魔学の教授とかが了承を得て調べればいいと思う。そんな学問があるのかは不明だけど。


「ね、ぇ? 他に、聞きたい、こと、ない? なんで、も、知ってる、こと、話す、よ?」


と、フンフン荒い息をしながらベリトリッサが詰め寄ってくる。そんなに遠くなかった距離が縮まり、密着寸前の状況になった。白い肌と柔らかそうな唇が眼前に迫り、少年は思わず仰け反ってしまう。


「うぉっ、だから近いって……もう聞けることなんてねえよ。いろいろ聞きすぎて、俺の頭がパンク寸前なくらい。大体、こんな会話、お前もそんな面白くないだろ?」


パンク寸前なことは事実。処理能力の低いこの脳には、彼女の話は情報量が多すぎる。もう出会い頭の会話を忘れつつあるほどだ。


しかし、後半の言葉は不安から出たものだ。

少年は、なんだかんだ言ってこのベリトリッサという少女との会話を楽しんでいた。しかし、ここまでの会話のほとんどが、質問と応答。合間にちょくちょく軽口こそあれ、楽し気な会話と言えるものではなかった。少なくとも、少年はそう考えていた。

それ故に、自分がいることで寂しさこそ紛らわせられているのかもしれないが、ベリトリッサは楽しくないのではないか。そんな不安を少年は抱いていた。


その内心を打ち消すかのようにベリトリッサは、


「楽し、いよ? あなたと、話す、の? だから、お話し、しよ?」


「……危ねえ、もし俺が初めて出会ったのがお前だったら今ので惚れてた」


赤面した少年は数歩下がる。その反応に気分を損ねたのか、ふくれっ面になりながら彼を追いかけるベリトリッサ。逃げる少年。追うベリトリッサ。逃げる、逃げる。追う、追う。鎖の長さが限界になった。いつの間にか二人は広間の中央まで来ていた。


鎖に繋がれたまま、なおもこちらに進もうとする。ゾンビ映画の敵役よろしく、両手を前に出しじたばたともがいていた。

彼女が全身に力を入れるたびに鎖から軋むような音。


彼女は両手を突き出した体勢のまま、


「あなた、って、意地悪?」


「俺より性格の悪い奴なんて沢山いるぞ。たとえば、どこぞの不良兵士とかな」


「じゃあ、意地悪、する、の、私に、だけ? 好きな、子に、嫌がらせ、しちゃう、感じ?」


「ポジティブだな、お前。そうきたか」


「それと、も、私の、こと、嫌い?」


「俺らまだ出会って一時間も経ってないぞ、嫌いとか好きとか正直まだ分からないと思うんだけど」


「私、あなたのこ、と、好き、だよ?」


ベリトリッサは儚げな、今にも消えそうと錯覚してしまうような泣き顔にも見える笑みを浮かべた。


「だか、ら、私と、友達に、なってく、れる、と、嬉し、い、な?」


少年は、何も言えなくなった。彼自身も自分には誰もいない、という恐怖を味わったことがある。しかしそれは、時間でいえば精々数日の短い期間だ。

彼女は、その何倍の時間をここで、たった一人で過ごしてきたのだろうか。そう思うと、何も言えなかった。


この『好き』は、相手を愛しているの『好き』だとか、相手が好ましいという『好き』ではない。自分の存在を知り、認めてくれたことを喜ぶ感情だ。同じものを少年も持っている。


震える唇をなんとか抑え、逸らしそうになる顔をベリトリッサに向ける。

目の前にいるのは悪魔かもしれない。しかし、彼女もまた自分と同じように寂しさを感じ、不安に思うこともある存在なのだ。


「こちらこそ、よろしくだ。友人」


数歩近づき右手を差し出すと、彼女は一瞬だけ驚き両手をさまよわせた。それを強引につかみ取る。


「っ! ん、よろ、し、くっ」


触れた瞬間ピクリと体がはねる。表情を見ると、先ほどまでの不安に揺れる悲しい笑顔はなかった。


こうして、悪魔の少女と囚人の少年は友人になった。

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