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三話 扉の向こう側

翌日。


「寒い」


少年の一日は、毎回寒さを自覚することから始まる。

ほんの少しだけ清潔になった牢の中は、昼夜の気温の差がほとんどなく常に肌寒い。たった一枚しかないボロ切れに包まった――とはいっても、布地が少ないため包まれているのは上半身だけだが――彼は、体を震わせながら上体を起こした。


立ち上がって体の調子を確認。倦怠感、なし。激しく痛む場所、なし。右腕、なし。いつも通りだ。


今でも、いまいち右腕を失ったことを受け入れられていない。最近まで起きるたびに、それがないことに驚きつい右肩に触れてしまい、痛みと喪失感に絶叫したものだ。

今の現実を真正面から受け入れるには、自分の心は脆すぎる。否、現実が厳しすぎると少年は思った。


記憶喪失で森の中をさまよい右腕を失って、暗殺者の疑いをかけられ牢に入れられる。その牢の環境もまた酷い。

こんな現実をすぐに受け入れられるような人間がいるのなら、今にでも自分と変わってほしい。


「なーんて、言ってもなんにも変わらないことくらい分かりきってるけどさ」


そんなことを呟きつつ、震える腹部を左手で抑えた。

飢え。飢餓感。ここしばらくの間にずいぶん慣れ親しんだ感覚だ。というか、覚えている限り常に自分と共にあったといっても過言ではないかもしれない。

森の中で生活していた時はもちろん何も口にできなかったし、牢に幽閉されてからもろくなものを食べていない。牢でセキアに会うまでの間に関してはせっかく摂取したもののほとんどを再び出していたくらいだ。


ユーキが食事を持ってくることを期待して、松明の煌きが見える方向に少年は目を向ける。

朝食の時間が待ち遠しい。たとえどれだけ不味いものであっても、与えられる食事は貴重な食べられるものだ。石と埃しかないこの地下牢では文字通り生命線となる。

もしこの食事がなかったならば、ネズミやトカゲといった生き物を探して食べることになったかもしれない。ぞっとする話だ。もっとも、この場所でそんな生き物を見かけたことはないので仮にそのような状況になっていたらそのまま餓死しただろうが。


階段がある位置を牢の中から見つめ続ける。人影は未だ見えず


「遅いな……いや、早起きしすぎただけか」


しかし、いくら待とうが一向にユーキはやってこない。

空腹のせいで次第に少年の機嫌は悪くなっていく。かといって出来ることもなく、無意識のうちに彼は爪を貪っていた。

親指から齧っていき、ちょうど薬指の爪を噛み切ったところでようやく待ちに待った足音が聞こえてきた。


少年は、食事への期待と待ったことによる不満を胸にその音に耳を傾けた。

複数だ。

この場所は人が寄り付かないという話だったはずだ。事実、今まで複数の足音が聞こえてきたことなんてユーキがセキアを連れてきた、ただ一度きり。


訝しく思いながらも待っていると、下りてきた人物たちの姿が見えた。


一人は女性。ユーキの着ていたものに近い、純白に金の刺繍があしらわれた制服を着ている。女性用だからか少し意匠は違うが、非常に似通っていると少年は感じた。その厚手ともいえる服の上からでさえ分かる、女性らしい曲線美を彼女は持っていた。引き締まった体型をしているというのに。少年は自身の視力の良さに歓喜した。

髪は紫。長く伸ばされ後頭部にて一本に束ねられている。凛とした顔立ちに似合う良い髪型である。


そんな彼女に連れられているのは男だ。擦り切れ所々煤けた白いジャージの上下。手には金属の枷。足には鉄球。なかなかにイカしたファッションである。雑誌に載せれば人気最下位間違いなし。

髪はクセのある茶。甘いマスクは正しい服装さえ選べばそこいらの女性の横を通るたびに振り返られそうなほど整っている。細身でありながらも捲られた裾から覗く体は筋肉質。


そんな男は女性に連れられ少年の目の前に来ると、対面の牢の中に手荒にぶち込まれた。


紫の髪の女性は男の入った牢の鍵をかけ少年を一瞥すると、フンと鼻を鳴らし立ち去ってしまった。


「いたた……ねえ、ちょっと手荒すぎないと思わないかな彼女。そんなんだから二十代半ばにもなって彼氏が出来たことがないんだよ。美人さんなのにもったいない、そうは思わないかい?」


「……それよりどうしてそんなところに入ってるんだよ。ルームメイトを募集した覚えなんか俺にはないぞ」


馴れ馴れしく少年に話しかけてきた謎のイケメン。もちろんその正体は、


「何があったら兵士がこんなところに入れられることになるんだよ……何やらかしたのか聞かせてくれよ、ユーキ」


「君の出所、遅れるみたいだよ」


少年が待ち望んでいた、食事を届けてくれるはずの元日本人の不良兵士――ユーキその人であった。


「はぁ!?」


とんでもない爆弾を抱えて。




~~~~~~~~~~~~




「バレたって……大丈夫なのかよお前」


「大丈夫ではないけど大丈夫だよ。君が心配することじゃないから」


「大丈夫じゃないのか」


紫の髪の女性にぞんざいに投げ込まれたパンを齧りながら、少年はユーキから彼が牢に入れられた経緯を聞いた。

簡潔に言うと、セキアを連れだしたことがバレたらしい。


少年の開放が遅れる。そんな話もユーキは持ってきていた。

近いうちに戦争が始まるらしい。その準備に追われ、城の役人の手が少年の開放の手続きに回らなくなったそうだ。前から思っていたが、この国いろいろとマズいんじゃないだろうか。


「……美味しくないね、これ。君って毎日こんなもの食べていたのか」


「酷い言い草だ、食べられるものがあるだけマシだろ。ただちょっとばかし味がなくて触感が悪くて飲み込むのに苦労するってだけのパンだぞ。言い過ぎだ」


「そう言われると、ちょっとってのがどれくらいなのか分からなくなってくるよ」


「随分と余裕あるな、初めてのことじゃないのか?」


相当の大罪が発覚したにしては落ち着いた様子のユーキにそう声をかけた。少年の見立てでは、別に強がっているようには思えない。


「流石にここに入れられるのは初めてだし、こんな不味いパンを食べたことも地球に住んでいた頃から一度もないよ」


ただ、と一拍置いてユーキは続ける。


「僕がここに入れられるように仕向けたのは僕だし」


「は?」


間抜け面を晒す少年に視線を注ぎながら彼は笑う。


「だから、セキア様がここに訪れたこととそれを手引きした者についてバラしたのは僕って言っているんだよ」


「……なんでそんなことを、って聞いてもいいか?」


もちろん、とユーキは頷いた。


「今回の投獄に関して、僕にはいくつか目的があってね。その一つは、君と信頼関係を築くことだ。いやいや、警戒しないで聞いてほしいんだけど。単に君とセキア様との出会いが気になっているだけだよ、君が彼女にご執心なことも含めてね。彼女は話そうとしてくれないし」


「……一兵士が、ずいぶんと王女様と仲が良いみたいだな」


「おおっと、嫉妬かな? 変な勘違いはしないで欲しいね、これでも既婚者だから……僕の一つ目の目的は君と仲良くなってその話を聞き出そうかなって感じだよ。それ以外に他意はないし、仲良くなりたいのは本心でもあるから心配しないでほしいな」


良い笑顔を真正面から向けられ、少年は目を逸らした。


「二つ目、三つ目とかは聞いたら話してくれるのか?」


「もちろん話すよ。君の中で僕の株が上がるかもしれないし、デメリットもない。日本語しか話せない上に君の今の立場は囚人だ。体力もないし、僕から見れば全然危険じゃない。それと、僕の目的は全部で四つだよ」


「そこまで無害だって言われると、悪くないことのはずなのに男の子的なプライドが傷つくな。事実だしいいけどさ。てか、四つか。多いな」


小さくなったパンをグニグニと手で弄びながら、少年は横になった。ゴロゴロと転がりながらユーキとの会話を続ける。


「じゃあ、二つ目以降の目的ってやつを聞こうか」


「二つ目は、君に言葉とかのこの世界で生きるために必要な諸々を教え込もうかと」


「なんでだ? 俺の好感度稼ぎか?」


「そういう気持ちがゼロとは言わないけど、このまま放っておけば、君が牢から出されてもそのうちどこかで野垂れ死にすることが目に見えているからだよ。行く当てもない言葉も分からない金銭も持たない。これで生き延びるには相当の運が必要になると思う」


「……まあそうだな」


「君にこのまま死なれたら、僕としては面白くない。一生懸命君の世話をしてきたことが無駄になってしまうからね」


「最後の一言がなければ素敵、抱いて! ってなったかもしれないなぁ。でもまあ、素直に感謝しとくよ」


「一応言っておくけど、僕に男色の気はないよ?」


「俺にだってねえよ、そもそも手を出したらお前の嫁さんに殺されちまうかもしれないし」


二人は顔を見合わせるとどちらからともなく笑いあった。


「んで、残りの二つ。早く言えよ」


笑いからいち早く立ち直った少年が急かす。それを受けてユーキは少し悩む素振りを見せると首を振った。


「いや、やっぱりやめとくよ。君に話せないって訳ではないけど」


「は? どうしてだよ」


期待を裏切られ、厳しい視線を少年は向ける。しかしユーキはどこ吹く風といった様子でそれを受け流した。


「せっかくだし、曖昧な目的じゃなく明確な目標を作ろうかと思ってね。いや、君の訓練の話だよ」


「訓練?」


またまた少年は首を傾げた。最近首を捻ってばかりいる気がする。このままでは取れてしまうんじゃないか、というほどに。取れないでほしい。


「訓練は訓練だよ。この世界は日本より過酷なんだ、身を守れる術が必要かなと思ってね。見たところ君は力がなさそうだ。生き残るために最低限自分くらいは守れる力がいると思うんだけど、いらないかい?」


「そいつはありがたい、お手柔らかに頼むよ……話さない理由がその訓練と、どう繋がるかは話してくれんのか?」


「君がハードルを越えるたびに、僕の目的を話すよ。こうすれば、ただがむしゃらに頑張るよりもモチベーションが保てるんじゃないかな」


「いい教師になれそうだな、お前。将来目指したらどうだ?」


「生憎転職するつもりはないんだよね、こんな職場だけど、これでも結構気に入っていたりするんだよ」


ユーキは何気ない調子で手に付けられた枷に触れる。金属製のそれは、傍から見れば大して力が加えられていないようなのにミシリと音を立てて歪み、彼の手首の拘束を解いた。


「さて、食事も会話も終わったことだし君の育成計画を始めようか」


鍵のかかった鉄格子の扉を強引に開きながら、そんなことを宣う。少年の背筋に冷たいものが走った。


「もしかして、というか確信しているといっても過言じゃないけど一応聞いとくぞ……ユーキって、結構強かったりする?」


「はは、まさか。僕より強い人間なんて大勢いるよ」


「……異世界怖え、マジ怖え」


どんな場所だったかいまいち思い出せないけど、元の世界に今すぐ帰りたい。少年は初めてそう思った。


「あ、そうだ。その前に一つ」


ニヤリ、と嫌な感じに口元を歪めるユーキ。さらりと少年の牢をこじ開ける。


「なんだよ、気持ち悪い笑い方だな。イケメンが台無しだぞ」


「君の耳に入れるべき、かもしれない情報がひとつあってね」


それを聞き少年が真面目な顔を作ったのを確認すると、ユーキはたっぷりとタメを作って、


「……人魚、卵生だったよ」


そう彼の耳元で囁いた。


「……知り合ってそんなに間もないし濃い時間を過ごしたわけじゃないから当然のことだけど、俺にはお前の人間性がさっぱり分からん」


これからこの男に教えを乞うのか。そう思うと、頭が痛くなりそうだった。




~~~~~~~~~~~~




「まずは、君が今どれくらい体力があるかを確認しようと思う。多分憶えていないだろうし、記憶があったとしても体格からして期待できないけれど聞いておくよ。武道……この際スポーツでもいいか。なにか、そういったものをやっていたかな?」


「ない、と思う。少なくとも憶えてはいない」


「だろうねぇ」


さして落胆の様子も見せないユーキ。壁に背を預けながら腕を組む彼に何も言い返せず、少年は不甲斐なさを覚えつつも、全身の筋肉をほぐしていく。


二人がいるのは、地下牢の通路部分だ。上下は大きさが不揃いの石で、左右は金属の棒で出来た竹林で囲われている。横幅は子どもが大はしゃぎしても平気な程度。奥行きは入り口付近に置かれた松明一本の明かりでは見通せない程度。


「いい身分だな、先生よ。ストレッチくらい手伝ってくれてもいいんだぞ?」


硬い関節を精一杯動かす自分を無言で見下ろす視線に耐えかね言い放つ少年に、ユーキは嫌そうな表情を向けた。


「嫌だよ、なんで僕が君みたいな汚らしい男に好き好んで触れなきゃならないんだい? 女の子ならともかく」


「女ならいいのかよ。汚い女って俺は嫌なんだけど。あと、この世には本当のことでも言っていいことと悪いことってのがあるんだぞ」


「安心しなよ、僕は美人でもブスでも差別はしないから。男女の差は……区別だからいいと思うんだ」


「そういうことは聞いてないぞ……てか、昨日はその汚い男を運んだじゃないか、なんで今日になってそんなこと気にしてんだよ」


「昨日までの僕は風呂に入れた。今日の僕は入れない。そういうことだよ」


「あぁ、そういう……」


ちょっと納得できてしまう自分が悲しかった。


数分後、準備運動を終えた少年はユーキに尋ねた。


「で、具体的には何すんだよ」


「そうだね……コースは三つ。普通のことを普通にやって、堅実に成長が期待できるAコース。一流の兵士になるためにこの国の兵に課せられているちょっと厳しいBコース。そして、普通じゃないことをしまくって普通じゃないくらい成長できるかもしれないCコース。どれがいいかな?」


修行はコース制だった。

しかも三つあった。

コースによって、料金とか変わるのだろうか?


「今なら入会金ゼロ円、その後も入会後絶命するまでの間期間限定無料キャンペーン中だよ」


「心を読むなよ。てか絶命するまでってなんだ」


「そりゃあ、死ぬかもしれないからね」


再び嫌な笑みを浮かべたユーキの言葉に少年は絶句する。

ユーキは呆れたように肩をすくめた。


「今の君の状況のおさらいだ。衛生環境と食事は劣悪、右腕を失うほどの負傷あり、さらにモヤシのような体格。僕じゃなくても、修行なんてしたらそのうち死ぬんじゃないかって思うだろうよ」


「…………」


「なら、なんで修行なんてつけようとするのか、なんて質問はしないでほしいな。何もしないままでいればどうせ死ぬからだよ、牢を出た後にね。なら、比較的調子の良さそうな今鍛えてあげるのが君にとって一番だ。そう考えたんだよ」


そこでニヤついた顔を爽やかなものへと変質させるとユーキは、


「まあ安心してよ。別に僕は、君が死ねばいい、なんてことを思ったりしていないから。ただまあ、死ぬかもしれないってのは事実だから、体調が悪くなったりしたらすぐに言って欲しいな。僕もそれなりに錬気には精通してる、多少は治療できるからね」


「なんだよ……ビビらせないでくれよ、こう見えて俺は小心者なんだからさ」


「君ほど豪胆な人が小心者だなんて、笑わせてくれるね。君がもし小心者なら僕はどうなるんだい?」


「知るかよ」


じゃあ改めて。そう前置きをしたユーキは少年に向かって握りしめた拳を突き付けた。

人差し指が起き上がる。


「Aコース。端的に言ってしまうと、リスクもリターンも低いコースだ。誰にでもできることしかしない。よっぽどでもない限り、死ぬこともないと思うよ」


中指が伸ばされる。


「Bコース。これは兵になる者のための修行だ、普通の人間には相当きついと思う。けれど、それに見合った成果は得られると思うよ」


最後に薬指。


「そしてCコース。僕が昔、ひたすらに強さを追い求めていた頃に行った無茶だ。多分君には無理だと思うよ」


「お前本当に何者だよ……そして無理だと思うなら、なんで挙げた」


「後になって、そんなものがあるのに何故言わなかったー、てな感じで責められたくないからね。それと、僕は何者でもないただの兵士だ……さて、どれにするかい?」


少年は考えた。

正直言って、自分がどんな人間なのか分かっていない。おそらく体力はない……いや、確実に体力はない。だが、根気はあるのか? 集中力は持つ方なのか? 要領は良いのか? 全てを知らないといっても過言ではない。


仮にCコースを選んだとしよう。

どんなことをするのかは分からないが、金属製の檻を簡単に壊すユーキをもってして無茶だと言わしめるそれが、今の体力では相当辛い修行になることは想像に難くない。そして、その修行を乗り越えるためには諦めない心とその心が壊れる前に成長できるだけの器量、そしてなにより、体調を崩さない運が要求されるだろう。


ユーキの目を見る。

多分彼は、自分が死ぬかもしれないことでも平気でさせるだろう。貫くような視線から、少年は判断した。

Cコースはないな、と。


ではBコースはどうだろうか。

少年は、兵士や軍人が行う訓練を知らない。あるいは、記憶を失う前の自分は知っていたかもしれないのだが、少なくとも今の自分は知らない。

故に、それがどれほどのものであるのかも分からない。ただ、楽なものではないことだけは理解できた。


最後にAコース。

これはユーキの口ぶりからして、まあ楽なのだろう。楽な代わりに、それ相応の成長しか望めない。

後になって力不足だと思える事態が起こり、Bを受ければよかったと後悔しないだろうか。


迷いに迷った末、少年はユーキの人差し指を選んだ。


「おっと意外だ。君ならCを選ぶかと思っていたけどまさかAコースとは」


心底驚いたような表情のユーキ。


「ばっかお前、俺はモヤシだぞ。厳しい修行も続けられなけりゃ意味がないだろ……」


自分に言い聞かせるように、言い訳するように。

少年は消えそうな声で呟いた。


彼の内心を知ってか知らずか、ユーキはそれもそうかと伸ばしていた指をひっこめると、石畳にどっかりと腰を下ろした。


「ん? なんだよ、修行するんじゃないのか?」


疑問符を浮かべる少年に彼は笑みを向ける。爽やかなイケメンスマイルの方だ。


「やだなぁ、修行するのは君の方だろ? それにAコースは一人でできるよ」


「ああ、そうか。一人でできるものなのか。じゃあお前はその間何をしておくんだ?」


「君に錬気の扱い方とこの国の言語を教えようと思っているから、その過程の確認でもしておくよ。必要ないかな?」


「……何から何まで悪いな。てか確認かよ、もう教える内容は出来てんのかよ、すげえな」


何故ユーキはこんなにも親身になってくれるのか。頭の中に疑問が浮かんできたが、少年は意識してそれを考えないようにした。自分が考えることは得意ではない、ということはここ数日、一人でいる間に嫌というほど思い知った。

どうせ考えても分からないのだから、ユーキが話してくれるのを待とう。少年はそう結論付けた。


「じゃあ、修行内容を教えてくれ。なんでもできる訳じゃないが、無茶じゃなければなんだってやるつもりだからさ」


「Aコースの最初は楽だよ。ただこの通路を走るだけだから」


闇に閉ざされて、奥が見えない通路を指さすユーキ


なんだ、と少年は拍子抜けした。走るだけ、それなら自分にだってできる上に、隻腕でも大したハンデにはないだろう。


「走るのか。何分だ? それとも距離か、何往復?」


「さあ?」


「さあ……ってどういうことだよ」


ユーキの物言いに対して苛立つ少年。そんな彼に意外と短気だねと呟くと、ユーキは笑みを崩すことなく、


「走る、疲れたら休む、体力が戻ったら走る……これを繰り返すのがAコースの最初のレッスンだ。もちろん眠くなったら寝ていい。食べ物や水なんかも心配しなくていいよ。必要なら僕のを分けてあげるから。ただ、すごく汗臭くなりそうなのは我慢してほしいな」


「……走り続けるのか」


「最初の数日は、ね。ああ、オーバーワークとかは気にしないで。僕の錬気で君の肉体の回復力を底上げしてあげるから。これをすると文字通りやればやるだけ成長できるし、君が体調を崩すリスクも減るし一石二鳥ってやつだよ。錬気を使えるようになったら自分でやってもらうことになるけれどね」


「いや、オーバーワークってなんだよ」


「なんだ、知らないのかい? ……まあ気にする必要はないんだから、知っている必要もないか」


「……よく分からんけど、分かった。つまり、走ってくればいいんだな?」


「健闘を祈るよ」


ユーキはヒラヒラと手を振った。さっさと行け、ということだろう。


「いってくる」


少年は彼に背を向けると、暗闇に向かって走り出した。

ペースはほどほど。速くもなく遅くもない。今の体力を測る意味で、このペースを選んだ。


右腕がない。それは即ち、重心が左側に傾いているということだ。歩いているときは自覚していなかったが、走ってみるとどうにもバランスがおかしい。走りにくい。

なぜ今まで気が付かなかったのか、と少年は考え、それほど自分が歩いていなかったことに思い至った。そもそも立っている時間が短かった。歩き回っているときも大抵考え事をしていた。気づかない訳だ。


裸足のため、地面に直に触れている足の裏に冷たい刺激と重たい感触が響く。数十歩ほどで痛みを訴えてきた。未だに最奥部たるあの金属の扉は見えない。


少しして、全身の汗腺から汗が吹き出し肌が湿り気を帯びてきた。全身が火照るようだ。熱い、暑い。

まだ足の筋肉に疲労は感じない。息もそこまで切れていない。いける。


少年は走る。ふくらはぎが、太ももが、猛烈な痒みを訴えてきた。歯を食いしばって堪える。まだいける。だが扉は見えてこない。彼は少しスピードを上げた。


両脇を、鉄の林が凄まじい速度で後方に流れていく。少年はそう感じた。不意に脇腹に痛みが走る。気づけば息も荒れてきていた。

左手を腹に当て、しかしペースを落とすことなく少年は駆ける。松明の明かりが次第に届かなくなり、周りが薄暗くなってきた。そろそろ扉が見えてくるはずだ。


ところで、少年の走り方は不格好だ。

アスリートのような理論に則った走り方など少年は知らないし、体も覚えていない。その上重心のバランスすら取れていない。

振られるはずの腕の片方はなく、もう片方は腹に添え。よたよたと、まだ歩くこともままならないひよこのような走法である。


ようやく扉が見えた瞬間、ぐらりと少年の視界が揺れた。あ、と思った時には、地面と熱烈なキスをしていた。


「アガッ!?」


鼻から下が熱を帯びる。打ち付けたほかの部位も同様。鼻孔から真っ赤な液体が滴り落ちてきている。


しばらく倒れ伏していた少年だったが、のろのろと起き上がると腕で鼻を拭った。

全身の確認をする。肌が所々擦り剥けているが、骨が折れたりはしていないみたいだ。盛大に顔を打ち付けたために痛みで感覚がおかしくなっているが、顎や頬を触ってみるとそんなに腫れているわけでもない。無茶苦茶痛かったけれど。


「いつつ……なっさけないな、俺」


足を見てみると、爪が何枚か剥げていた。割れているものもある。十あるうちの八つから市出血。治療するにも止血できるものなんてここにはないし、あっても痛みのために走ることは無理だろう。


「あー、痛え。あの腹痛に比べりゃ我慢できるだけマシなんだろうけど。てか、これレンキとかいうので治るのか?」


ユーキに叱られそうだなぁ、と自分の体なのにどこか他人事のように考える少年。

ふと、彼は何気なく扉の方を見た。


昨日動かしたまま、同じ幅だけ開いている。しかし、その先に見えるものは闇。黒く、暗く、色のない空間が広がるのみ。


――奥に入ってみたい。


「……何考えてんだ俺」


呟きながら、しかし扉に向かって足が動く。鼻や肌からの出血は続いている。燃えるような痛みは全身を抱き続けている。だが、そんなものは気にならなかった。


ふらふらと少年は歩く。夢遊病患者のように。ゾンビのように。悪魔に憑かれた者のように。


頭が熱い。

人一人通り抜けられるかどうか、それほどまでに狭い隙間を抜け、少年は扉の向こう側へと足を踏み入れた。


真っ暗だ。何も見えない。足元すら黒で塗りつぶされている。しかし、少年は進む。真っ直ぐ、真っ直ぐ。時折進路上に何かあったが、ぶつかることなく回り込む。


「戻って怪我の治療を頼むべきだ……分かってる……でも、奥に進みたい……」


ブツブツ、ブツブツと少年は呟く。頭の中に霧がかかったかのようだ。上手くものを考えられない。自分が何をしているのかすら分からなくなってくる。


進まなきゃ。

それだけしか考えられなくなった時、ぷっつりと自分の中で何かが切れた。

それが何なのか気づく前に、少年の意識は沼のように粘着質な闇へと沈んでいった。


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