一話 記憶喪失と第一王女
牢の内と外に一人ずつ、対照的な姿の男がいた。
牢の中の男の容姿を一言で言い表すならば、小汚い。
黒い髪は伸び放題で荒れ放題、髭もしばらく剃られていない。やや色のついた肌は土や埃だらけで、よく見ると湿疹のようなものも見受けられる。背丈が低く痩せているのもあって、どうにも貧弱そうな印象を与えてくる。髪と髭から顔こそ窺えないが、体格からして男性というよりは少年という表現が彼には相応しいかもしれない。
少年の服装はボロ同然のシャツとジーンズのみ。足に至っては地面が石畳にも関わらず、あろうことか素足である。
対して牢の外の男。彼は非常に美しい外見をしていた。
ややクセがある茶髪は牢の男のように汚れていない、髭もしっかりと剃られている。肌の色こそ同じだが、清潔に保たれているそれには赤い斑点一つない。背丈は高く、その体は引き絞られた筋肉で覆われていた。体格に恵まれていながら彼の周りに漂う柔らかな雰囲気はその甘いマスクによるものだろうか。
彼は純白の布地に金の刺繍が施された制服に身を包み、腰には一本の長剣を携えていた。
胡坐をかいた姿勢で訝むような視線を向けてくる少年に笑みを向け、男――ユーキは彼に日本語で語りかけた。
「そんな風に警戒しなくてもいい。君の安全は僕が保証しよう」
少年は一瞬だけ呆気にとられたような表情をした。しかし、直後顔全体にニヤついた笑みを浮かべるとこれまた日本語でユーキに応じた。
「それにしてはいい部屋を宛がってくれたものだな。前後左右と上下のうち五つが石壁で一つが鉄格子。窓なんて洒落たものもない。あるのはボロ切れと床に空いた穴一つ。まさかこれ、ベッドとトイレか?」
少年は立ち上がると鉄格子に近づき、左手を押し当て体重を預けた。格子を挟んだ対面にいるユーキとの身長差は頭一つ分以上。見上げる姿勢のまま少年は続ける。
「ここってあれだよな? 家賃ゼロで衣食住全て保証してくれると噂の牢屋ってやつ? そりゃあ住むところに困ってたのは事実だけど、こんな所紹介されるようなことをやった覚えはないんだけど」
ユーキはその言葉に笑みを一層深いものにした。
「日本語が話せたんだね、安心したよ。言語が通じない黒髪の少年、と聞いていたからまさかと思ったんだけど、本当に日本人だったなんて。……君の話も聞きたいところだけど、まずはこちら側の事情を説明させてはくれないかな? 身勝手なのは分かっているんだけどね。頼むよ」
再び面食らったような顔をした後、少年はバツが悪そうに頭を掻きながらそっぽを向いた。
それを了承と受け取ったのかユーキは表情を苦笑へと変える。
「ありがとう。じゃあまずは君の置かれている状況から話そうか……っと、その前に、君の名を聞かせてもらえないかな」
何気ない質問に、少年は苦虫を噛み潰したかのような表情をした。
「……覚えてねえよ。名前も、それ以外のことも全部」
今度はユーキのほうが驚く番だった。
「記憶喪失、ってことか。まいったな、流石に想定外だ。」
「覚えているのはここ最近のことだけだ。目が覚めたら森の中にいた」
目を合わせずに少年は吐き捨てるように言う。
「……とりあえず、事情ってのを話せよ。俺のことは俺が一番知りたいんだ、どんなことでもな」
「生憎、君について分かっていることは、我が国……スフィリウムっていうんだけどね。その第一王女を救ってくれた、ということしかないんだ。心当たりがあるかな?」
少年はため息を吐き座り込むと、右肩を左腕で示しながら、
「スフィリウム、って国の名前には心当たりがないが、後者についてはある。この腕が証拠だ」
ユーキは憐れむような眼を少年の右腕に向けた。否、そこには右腕はない。視線の先にあるのは肩から胸にかけて、赤茶けた色に染まった布地だけだ。未だ出血が止まっていないのか、錆びついた肩口の中心から鮮やかな赤が滲み出してきていた。
「話には、聞いていたよ。王女様自身が言っていたことだ、私を助けてくれた少年が腕を斬られたと」
「我ながら、腕を無くしておいてよく生きていると思ったよ。俺の記憶が正しいなら、斬られた直後川か何かに落ちたと思うんだが。それに不思議と痛くないんだよこれが。というか、姫だったのか、彼女」
「王女様が応急手当をしたらしい。ただの兵士である僕にはこの辺の詳しいことはよく分かっていないんだけど。ごめんね」
冷たい床の感触を確かめるように少年は地面を撫でる。石と石との境目にある溝に人差し指を滑らせつつ彼は口を開いた。
「で? 第一王女の身を、右腕を失いながらも救った俺は今現在どうしてこんな場所にぶち込まれているんだ? まだ聞いてなかったよな」
申し訳なさそうな表情でユーキは答えた。
「……国は、君のマッチポンプを疑っている。姫を助けたのは自作自演で、君が国に取り入って王族やその関係者を暗殺するのではないかと恐れているんだ」
少年は失笑した。思わぬ疑いについ吹き出してしまったのだ。
「俺が暗殺者か。いいジョークだな、この国ではこんな薄汚れたひょろひょろの男に暗殺なんて仕事を任せるのが流行っているのか?」
「ジョークなんかじゃないのがこの世界の怖いところなんだよね。過去に似たような手口があったんだよ。僕自身、君がもし日本語の分からない人間だったらここで斬るつもりでいたからね。そういう風に命令されていたし」
「マジかよ、安全を保障するってのは言葉が分かるなら、って意味だったのか」
ぞっとした表情をする少年と視線を合わせるように、ユーキはしゃがみこんだ。
「森の中で王女を助けた謎の男。僕の知る限りではこんなことをするのは国に潜入しようとする暗殺者か、相手の素性を知らないお人好しか、このどちらかだ。そして、この殺伐とした世界には後者なんてほとんどいない。いるとすれば、よっぽど平和ボケした所で育った異邦人くらいだよ」
「……この世界とか、さっきから何が言いたいか分かんねえよ。俺は察しがよくないんだ。はっきり言ってくれ」
苛立った口調の少年にユーキは機嫌を損ねることなく頷いた。
「僕は久遠ユーキ、君と同じ元日本人で今はスフィリウムの一兵士だ。そして、スフィリウムがあるのは君のよく知る地球ではない。ようこそ異世界へ、歓迎してくれる人は少ないだろうけど、僕は君を歓迎するよ」
「……はぁ?」
投げかけられた言葉の意味を少年が理解するためには、十数秒ほどの時間が必要だった。
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少年の腹の音が、冷たい石に覆われた空間全体に響き渡る。
背中や腕を掻きむしりながら、彼は物言わぬ天井を眺め続けている。
どうしてこんなことになったのか、少年は今日までそのことばかりを考えていた。
憶えているのは深い緑に覆われた大森林で目覚めたところから。それ以前の記憶は一切なく、自分が何者であるかすら分かっていない。あてもなく森の中をさまよい続けていた日々を思うと不安と空腹、喉の渇きを今でも鮮明に思い出すことができる。
「……食と住こそ揃ったけど、どっちもまともじゃないからな」
王城の地下にあると聞かされたこの牢の環境ははっきりいって悪い。
ここはかび臭い淀んだ空気で満たされている。気温は一定だが肌寒く、日差しは入ってこない上光源は地上に続く階段付近の松明のみのため常に薄暗い。
自分以外の囚人はいないため、会話は食事を渡すときにユーキという兵士と二言三言交わすのみ。城の地下牢に閉じ込めなくてはならないような大罪人はそうそう出ないらしい。当然暇を潰すようなものはなく、退屈で自分は死ぬのではないかと少年は思い始めていた。
食事も質素な上、少年の体に合わない。
衛生環境が悪いのかそれとも少年の免疫機能が弱すぎるのか、食事や水を口にすれば彼は度々腹痛と発熱に襲われた。水分補給のために水を飲み症状が出れば、摂取した以上の水分が下痢や嘔吐、発汗によって失われる。風通しが悪いため臭いが残るのも辛い。毎回、というわけではないのがせめてもの救いだがこのままでは自分が衰弱していくだろうと少年は理解していた。
右腕の傷口の容態も芳しくない。少し動かしただけでかさぶたが割れ、疼痛を訴えてくる。
「……ま、最悪今日を乗り切ることができればいいか」
肉体と精神。二つの方向から追い詰められながらも、今日の彼の機嫌は良かった。全身に漂う倦怠感のために寝そべっている彼の感情は分かりづらいが、その口元には確かに笑みが浮かんでいる。
もっとも、浮浪者然とした恰好で全身を掻きつつ寝転がりニヤニヤとした表情をした少年、というのが客観視した時の彼の姿。牢に入れられたその様はまさに人生に絶望したジャンキーだ。時折ブツブツと独り言を呟くため、非常に不気味である。
ユーキにここが地球ではないと告げられ数日が経過した。
悪魔とよばれる種族と人間が西と東に分かれ領土を奪い合う、世紀末とまではいかないがそれなりに殺伐とした世界。ここは、そんな場所なんだそうだ。
ユーキが兵として所属し少年が捕らえられているスフィリウムという国は人間の領土の最西端、悪魔達の領土に非常に近い場所にあるらしい。
少年が目覚めた森はこの国の北部にあるどこの領土でもない未開の土地。なぜそんな場所に自分がいて、さらに単身で王族が来ていたのか……なんて考えてみるものの、当然ながら少年にはその理由が分からなかった。
「ほんと、分からないことだらけだな」
ユーキから少しばかりこの国の情勢について聞かされた。
どうにもこのスフィリウムという国は、他国から悪魔と関わりがあるのではないかと疑われているらしい。どうしてそんな疑惑が、と聞けば原因は不明との返答。この地が欲しい国々がスフィリウムを攻めるための口実に過ぎないのではないか、とユーキは考えているようだ。距離が近く悪魔が潜入しやすいだろう国だということは事実。そのため、今ではほとんどの国から疑念を抱かれており、国交も途絶えているとのこと。その険悪な関係が、王女が襲撃を受けた理由だろう。
比較的豊かでそれなりに国力があるスフィリウム。なんとか自国だけで食料等の資源は賄えてはいるものの、国民の不安は日に日に大きくなっている。
「大丈夫、だろうか。こんな立場の俺が心配できることではないけどよ」
国の心配ではなく、一人の少女の身を案じて少年は呟いた。
セキア・スフィリウム。スフィリウムの第一王女。彼が身を挺して救った相手だ。名前はここに来た初日にユーキに聞かされた。
少年は彼女に対し、恋慕にも似た感情を抱き、彼女の力になりたいと考えていた。しかし、彼女のためにできることなんて自分にはない、と理解していた。
ならばせめて礼を言いたい。
少年はユーキに頼み込んだ。どうにかして彼女と会うことはできないか、と。
しかしながら、なかなか了承を得ることはできない。暗殺者の疑いのかかった自分と王女である彼女とを引き合わせるのはあまりに危険、それに彼女は国務に追われ多忙である、とのことだ。
「それがどうして、急に許可が出たんだろうな」
天井に向かって疑問を投げつける。
ユーキが昨晩、突然セキアと会わせると言ってきたことを思い出しながら、少年は寝返りをうった。硬い石畳の上で寝ているせいで、全身の筋肉が凝り固まっていて痛む。しかし少年の笑みが薄れることはない。
何度目かの腹の音。夕食時、すなわち約束の時間も近いだろう。
力を振り絞り、少年はゆっくりと体を起こす。彼は既に体調に気を使っていない。本心から、セキアに礼を言えればそれだけでいいと考えていた。
今日は吐き気も腹痛も、最近では慢性化していた頭痛すら感じない。体は少し重たいがそれくらいどうということはないだろう。
募る思いを抑えつつ、無言の時を過ごす。すると、地上に繋がると思われる階段から足音が聞こえてきた。
「やあ、おまたせ。調子はどうかな?」
「……これが元気に見えるんなら、おまえの顔に付いているのは目玉がなくてガラス玉だな」
「口が利けるだけ上々だよ」
やってきたのはユーキ一人。そのことに落胆しつつ左手を持ち上げ挨拶をする少年。
ユーキは辺りに漂う臭気に顔を歪めた。
「……酷い臭いになってきているね、君」
「そりゃそうだろ、風呂にも入れない上にここのトイレは水洗じゃないからな。飛び散った飛沫を拭くような物もないんだ、臭くもなる」
「すまないとは思っているけど、僕じゃどうしようもなくて。そんな君に朗報だよ」
少年はユーキを胡乱げな視線で見据えながら、
「なんだよ、王女様に醜態を晒さずこの臭いを嗅がれなかった、ってか? はっ倒すぞ」
「相当荒れているね」
ユーキの言うように、少年の心は荒れ果てていた。期待していたセキアとの対面。ここに来たのがユーキ一人だったことで、それが叶わないものであると感じたためだ。
「嘘つきめ。こっちは死にかけているんだ、せめて最後の願いくらい聞き届けてくれてもいいじゃないか」
「嘘つき呼ばわりは流石に心外だな。僕はこれでも自分のことを正直で誠実な人間と思っているんだけれど」
大げさに肩をすくめ、やれやれと首を振るユーキの動作が少年の神経を逆撫でする。空腹と不完全な体調のためにただでさえ機嫌が悪いのだ。
声を荒げようとした瞬間、彼は何者かが階段を下りてくる音を聞いた。
「来たみたいだね。彼女がその朗報だよ」
カツン、カツンという足音を聞きながら、ここ数日で何度も見てきた爽やかな笑みを浮かべるユーキ。その嫌味なくらい整った表情にいつもなら憎まれ口を叩くのだが、この時の少年にはその余裕がなかった。
目に飛び込んでくるのは煌びやかな金色の光。頭頂部から伸び流れるようにうねるそれは松明の光を反射させ、あたかも自身が光源であるかのような輝きを放つ。深い碧色の双眸は、力強さを感じさせる。長い手足にすらっとしたシルエット。女性らしい曲線、触れれば崩れてしまいそうな繊細さ。彼女の肉体にはこの二つが見事に共存している。
非常に愛らしく、それでいて美しい女性だった。
「何を呆けているのかな、君が会わせてくれと頼んだ相手だよ。挨拶くらいしたらどうだい?」
上層から下りてきたその女性に目を奪われていた少年だったが、ユーキの言葉にはっと我に返った。
得意げな顔をしているユーキに向き直ると少年は思わず口を開いた。
「うっそだろ。俺の助けた女はこんなに美人だったっけ」
確かに、少年の記憶にある助けた少女の面影が彼女にはある。しかし、記憶の中の少女と比べ目の前の女性はどことなく大人びている気がしてならない。双子の姉とかが代わりにきたのか?
「なあ、この人俺が助けた奴のお姉さんだったりするんじゃないのか?」
呆れたような顔でユーキが答える。
「第一王女なのに姉なんているわけがないじゃないか、本人だよ。君の違和感の原因は王女様がオメカシしているからじゃないかな」
「化粧凄いな、おい」
そんな会話をしているうちに、女性――スフィリウムの第一王女、セキア・スフィリウムが少年の牢のすぐ近くまで来ていた。
セキアは少年の姿を見ると驚いたような顔をし、ユーキに向かって言葉を飛ばした。
「――――っ、――――っ!」
聞き覚えのない言語を発するセキア。それに対しユーキは、同様の言語で応答する。その姿には一切の敬意が見受けられず、こいつ本当に兵士かよと少年は思った。
「――――」
セキアはますます語気を荒げた。しかしユーキの方は困ったような表情を浮かべては二言三言返すのみ。そんな応酬が何度か交わされた後にユーキは首を振った。
「やれやれだね。君もセキア様も、人の話を聞こうとしない。君たち、案外お似合いなんじゃないかな」
ようやく理解できる言葉がユーキの口から聞こえた。理解不能な言語で行われた彼らのやりとりに、置いて行かれたような感覚を味わっていた少年は不満げに口にする。
「そういうのはいいから。で? その王女様は何を言っているんだ?」
「セキア様は君への扱いに大変ご立腹だ。命の恩人に対してなんたる仕打ちかーって。どこかのだれかが、君がここにいると漏らすまでは君が城の地下に捕らわれているなんて知らなかったみたいだし、知った途端こんなところまで来ると言い出す……セキア様は相当なアホだと僕は思うんだ」
「酷い言い草だ。情報が制限されていたのか? それじゃあ彼女は俺に関して知りようがないだろ。てか、そのどこかのだれかってお前だろ」
「ばれたか。セキア様がここを訪れたのは君に暗殺者の疑いが掛けられていることをしらないからだし、彼女だけに責任があるわけじゃないのは事実だね。あ、僕は君を疑っていないから安心していいよ」
「……そいつはどうも」
あまり嬉しそうではない少年にユーキは苦笑をむける。つくづく笑みが似合う男だ。なんとなくむかつく。
ふと少年がユーキから視線をずらすと、スカートが地面に触れることを気にせず膝立ちをしたセキアが、鉄格子のすぐそばにいることに気づいた。彼女はこちらを見ながら手招きのようなことをしている。
「この王女様はどうしたんだ?」
「……あー、うん。呼ばれているってことは分かるよね。近づいたらいいんじゃないかな」
「おいおい、いいのかよ。暗殺者疑惑のある男を王女に近づけて。もし何かあったらお前の首が飛ぶだろ」
「僕は君を疑っていない、と言ったじゃないか。もっとも、変なことをしようとしたら斬るつもりではいるけどね」
そう言って彼は剣の刃を鞘からチラリと見せた。顔を見れば、冗談めかした笑みを浮かべている。少年を疑っていないというのは本当らしい。
「そいつは怖いな、迂闊にセクハラもできやしない」
重い体を半分引きずるようにしてなんとかセキアの元まで進む。すると彼女は鉄格子越しに腕を伸ばし、少年の頭を両腕で抱え込んだ。
黄金の輝きが、彼女の両腕に宿る。仄かな温かみのあるそれは腕を、肘を、手のひらを伝い少年の中へと流れ込んだ。
心地よい熱が全身を駆け巡るような感覚と共に体のだるさが薄れてゆく。思わず身を跳ね上げてしまうが、その動きはセキアの両手で押さえつけられた。正面を向くと、まるで動くなとでも言わんばかりの表情で彼女が睨みつけてきていた。
――近くで見ると、案外幼く見えるな。
彼は、しばしセキアの美貌に見惚れていた。
「――――」
「えっ」
セキアが何事か呟いた。そう理解した瞬間、彼女の両腕が少年の頭部から離れる。
日差しのような温もりが離れていく。思わず彼は左腕を伸ばすが、その手のひらは空を切るのみ。
立ち上がったセキアは、固まったまま動かない少年の、その脂っぽい髪を三度撫でるとユーキに向き直った。
「――――。――――」
背を向け階段へと向かう彼女に、無言で一礼するユーキ。硬い床を靴が叩く音だけがしばし木霊する。
それらが聞こえなくなってから、ユーキは楽な姿勢をとると頭を押さえながら、
「まったくセキア様は。僕と違って話せるわけでもないのにどうしてそう簡単に相手を信用してしまうのかな。下につくものとして気が気じゃないよ。君もそう思うだろう?」
未だ動けずにいる少年に、そう呼びかけた。
はっと顔を上げる少年に困り顔を向けながら彼は続ける。
「セキア様は、君がこんな環境に置かれ衰弱していくことが気に入らないらしい。直々に王に掛け合ってみると言っていたよ。君がここから解放されるというのは僕も二重の意味で嬉しいけど、セキア様の立場を考えると万歳、なんてことはできないなぁ」
「……参考までに、その二重の意味ってのを聞かせてもらえるか?」
本当に聞きたいことを尋ねる前に、少年はワンクッション置く。それを見透かしたような顔でユーキは肩をすくめ、
「同郷である君が開放されることを素直に喜ぶ気持ちが一つ、牢の番なんて面倒な仕事から解放される気持ちがもう一つだよ」
「職務を面倒なんて言うなよ、不良兵士め」
「僕はその兵士の中でも下っ端だからね。でなきゃ、こんな酷い環境の職場に来たりしないさ」
「その酷い環境に四六時中置かれている囚人の前で話すことかよ」
一息つくと、少年は意を決して本題に切り込んだ。
「三つほど聞きたいことがあるんだが……いいか?」
感心したような、驚いたような表情をユーキは浮かべた。
「たった三つでいいのかい?」
「聞きたいことは沢山あるが、多すぎて聞いても一度じゃ理解できそうにないからな。俺の頭はそれほど優秀じゃないんだ、三つでいい」
「よく考えてるね、矢継ぎ早に質問が飛んでくるとばかり思っていたよ。存外に冷静だ――聞こう」
少年は勢いよく立ち上がると格子の傍まで詰め寄った。そこに、先ほどまで弱り果てていた様子は見受けられない。
「さっきのあれは……あの光はなんだ?」
「それは、セキア様が君の頭を抱えていた時のことかい?」
「ああ、そうだ」
ふ、と小さく笑うとユーキは少年の対面にある牢の鉄格子にもたれかかった。
「やっぱり気になるよね。同じ元日本人としてその気持ち、よく分かるよ」
「魔法、ってやつか?」
その問いにユーキは首を振る。
「魔法ではない。あれは『錬気』と呼ばれる技術だ。それを使って、セキア様は君の治療をした」
「技術、か。ああ、その『レンキ』とやらの説明はいいよ。どうせ理解できないからさ」
再度口を開こうとしたユーキを少年は手をあげ制止する。
「そうかい。そう言ってもらえるとこっちも助かるかな。なにせ結構複雑な技術だからね」
少年はうんと伸びをした。あれだけ全身を苛んでいた倦怠感や湿疹による痒みが無くなっている。そればかりか、固い地面に寝転がっていたために凝りに凝っていた筋肉までもがほぐれている。
「こいつはすごいな」
「君が思っているほど万能ではないけどね。それで、二つ目の質問は?」
少年はしばらくブンブンと左腕を回していたが、それに飽きると天井を眺め、
「あー、なんだ。こういうことを聞くと自分勝手な奴だと思われそうなんだが……俺はここから出られるのか? さっきの口ぶりだと、王女様がなんとかしてくれそうな感じだったけどさ」
どこか歯切れの悪さを感じさせる少年の言葉に、ユーキは気にすることなく淡々と返す。
「多分、近いうちに出られるんじゃないかな。セキア様のことだ、恩には恩で報いようとするはず。それに彼女は第一王女だ。つい先日成人したし、それなりに発言力はある」
「良かった、と言っていいのか」
「素直に喜んでもいいんじゃないかな。もっとも、君は冤罪でここに入れられたのだから手放しには喜べないかもしれないけれど」
胸の内のもやもやとした感情を自覚しながら、それの正体が分からない。少年はそれから目を逸らし、口を開いた。
「最後の質問だ。俺に彼女の……セキアのためにできることはないか?」
「ない」
少年の言葉に、食い気味なほどユーキは即答した。
「君がなぜ彼女を助けたのか、君がなぜ執着するのか僕は知らない。だからそれについては何も言わない。だけど、僕は今この国に兵士だ。たとえ同郷といえど、身元や目的の分からない人間を王族に近づけるわけにはいかないんだ」
冷徹な声でユーキは続ける。長い前髪に隠れ、その表情は窺えない。
「何度も言うようだけど、僕は一兵士に過ぎない。今回君の所にセキア様を連れてきたのも越権行為だ、バレれば物理的に首が飛んでしまう。これ以上は、君が自分でなんとかしてほしい。すまない」
「そう、かよ。そう、だよな」
「……相応の身分か立場があれば、会うことくらいはできるはずだ。頑張ってくれ」
檻から背を離し、立ち去ろうとするユーキの背に、少年は叫ぶ。
「彼女に、セキアにありがとうと伝えてくれっ!」
彼の歩みが鈍ることはなかった。振り返ることなくユーキは階段を上る。
その影が見えなくなってから、少年は拳を地面に叩きつけた。
「クソっ!」
擦り剥けた皮の奥からジワリと、温かく赤い液体が染み出してくる。その傷を押さえる腕はない。滴り落ちる自らの血を眺めながら、少年は石畳に倒れこんだ。
拳が放つ熱とは対照的に、地面に触れた背中はどこまでも冷たかった。
ただ一人残された牢の中、少年の腹から哀愁漂う音が聞こえてきた。
「……そういえば、夕食貰ってなかったな」
体調の回復と同時にこれまでの苦しげなものとは違う健康的な空腹を訴え始めた腹部を撫でながら、彼は壁に身を預けた。
松明の炎が消えた頃、胃袋が再び催促の叫びを発した。